サッカーと戦争

半年ほど前に書いたもののなにかのはずみで炎上するとイヤだから公開してなかった文章を、争点もズレたことだし選挙直前なのであげておきます。



戦後一貫して否定されてきた日本の集団的自衛権を内閣の「憲法解釈」によって容認しようという流れになっています。

憲法はいわば国民と政府の間の契約なのですが、権力を統制する国民とは無関係に、(契約の片方であり)権力側である政府の一方的な解釈だけでここまで自由にしてよいとなると、もはや日本語で契約書をつくっても意味がないんじゃないかという気もします。
機能しなくなって久しいものの一応日本は三権分立によって権力をコントロールすることになっていますし、ここんとこ存在の薄い「司法」がまだ息をしているのであればぜひがんばっていただきたいと思います。

さて、ちょっと前にサッカーのワールドカップがらみで「日本は戦争に向いてない」というのを見かけて、ずっと気になってました。
国際的なスポーツ大会を国家の代理戦争と見なすのはめずらしいものではなくて、東西冷戦下のオリンピックもそうでしたし、サッカーもフォークランド紛争後のイングランド対アルゼンチンとか、もっと直接的な「サッカー戦争」なんてのもありました。
なのでサッカーの日本代表の戦いぶりや国民の反応から「もし日本が戦争をしたら」と想定するのはいちおうおかしなことではありません。

そしてぼくがそんな視点でワールドカップを見て思ったのは、日本は戦争向きではないのはたしかなのですけど、それは逆に世界の国々のみなさまにとっても同様だということです。
日本は情緒優先で負けても盛り上がって次へ次へと進んで合理的判断をしないので、ふつうであれば「降伏」したり「そもそも開戦しない」だったりという状況であってもなぜか「まだいける。奇跡を信じて」みたいな結論になっていつまでも戦争続行して原爆でも落とさない限り終わらなそうなので、日本と戦争をしたくないなあという感じではないかと思います。
「どうやって戦うか」という問いに「自分らしく」とか、何度負けても「負けられない戦いがある」とか「奇跡を信じて」とか「状況」をまったく踏まえず真顔で答えるところとは、スポーツはともかく戦争はしないほうがいいです。


というわけで強い弱い以前に、戦争に向いてない国民性を抑え込むタガとして憲法九条は結果的に機能していた側面がありますので、現状のいわゆる「解釈改憲」の目指すところはともかく、融通性の高い「解釈」の運用でなんとかするはタガにならないので非常に危険だと思うわけです。

【昭和60年代】という遺産

みなさまご存じのように昭和は64年までしかありませんので、あまり「昭和60年代」という言葉はつかわれてこなかったかもしれませんが、この昭和/平成で前後に分断されたがゆえに見えにくくなっている「昭和60年代」というくくりこそが、実は重要なのではないかと思いつきまして、ためしに「昭和」で表記していってみます。



この10年間は、国内的にはバブル景気とその崩壊(昭和61〜66)を含み、特に象徴的なのは昭和が平成となる昭和64年で手塚治虫、美空ひばり、そしてもちろん昭和天皇が逝去(崩御)しています。

世界的には天安門事件(昭和64)やソ連(をはじめとする社会主義国)の崩壊(昭和66)や湾岸戦争(昭和65)がありました。

さらにわかりやすくするためにセガを例に挙げると、セガ・マーク?(昭和60)からマスターシステムやメガドライブをはさむセガサターン(昭和69)までです。

TVアニメでいうと『機動戦士Ζガンダム』(昭和60)から『新世紀エヴァンゲリオン』(昭和70)の前までだと思ってください。またこの時代はOVA時代でもあり、『機動警察パトレイバー』(昭和63〜64)や『トップをねらえ!』(昭和63)や『ジャイアントロボ〜地球が静止する日〜』(昭和67〜73)などなど記憶に残るOVAはほぼこの時期に発売されています。そしてスタジオジブリ誕生(昭和60)から躍進の10年でもあります(この10年期の終わりに徳間書店から離脱します)。



文章で列挙していってもあまり意味がないですね。ひまになったらそのうちこの10年期のアニメ年表でも作成してみようかと思います。

ざっくりテレビ局/代理店/玩具メーカーさんの公家政権の完成ではじまり、映像メーカー/クリエイターさんによるOVA武家の勃興/群雄割拠から『エヴァ』による製作委員会方式による武家政権の完成までと、ジブリによる天皇制をたどる10年になるとおもしろくなる気がしますけど、ならないかもしれません。







つまり日本にとっても世界にとっても、ぼくのようなぼんくらアニメ少年にとっても「昭和60年代」というのはターニングポイントだったのではないかと思うのです。




日本人と称賛

日本人が世界的に活躍をされると、当然日本では話題になるわけですが、すごいのはあくまで当のご本人であって、称賛されるのは日本という国ではないので、


ソフトバンクの孫さんがたまたま同じ部屋に入ってきたとたんに

「やっぱおれらの平均年収すげえよなあ」

とつい自分たちが誇らしくなってしまうようなおさまりの悪さを感じてしまったりもします。

お勧め本について

「自分の好きなもの」と「他人に勧めるもの」って同じようで違いまして、その区別がつかないひとは、自分勝手なふるまいをしているように見えてしまいます。
肉が嫌いなひとに「俺はステーキ好きだから食えよ」と押しつけたりしてはいけないということですね。
このブログでもたまに本について書くことがあるのですが

『これは「自分の好きな本」なのか「他人に勧める本」なのか』

の判断は常に迷います。

それはこのブログを読んでいる奇特なかたがたが期待しているのは、ぼくのアニメプロデューサーや経営者の側面「ならでは」のものではないかという予想もありますが、それ以前にぼく自身「好きなもの/勧めるもの」の差異がよくわからなくなっているのが大きいです。

書籍のヒット作を「ミリオンセラー」と呼びますが、これは100万部なので日本の人口の1%以下です。さらにぼくが読んで喜んでいる本は海外翻訳やジャンル小説のことが多く、つまりぶっちゃけ部数が少ないことが多いです。
なのでよく考えたら読書を愛好するひとがそもそも好事家で、そのなかでもさらに選りすぐりの好事家向けのことしか書けないということです。

ここで里見が学生時代に選んだ国内ミステリのベスト12の写真が出てきたのでせっかくなのでダメなマニアがどれぐらいダメなのかを示すためにあげておきます。誤植は気にしないでください。



こんなひねくれた人間がまともな本を他人にお勧めできるはずがないという見地から、あまり本について書かないというスタンスでやっています。

いやそうじゃない。今日書きたかったのはシリーズの途中でおもしろい作品に出会ったらどうするのか問題です。
たとえば谷甲州の傑作SF『軌道傭兵』シリーズ(リンクはKindle版)を読んでいたら途中のある巻で、突然ミステリものに出くわしたとしましょう。しかもそれが「史上最小の密室」という意欲的な試みだったとしたら、それはミステリ好きの知り合いに勧められるのかどうか。当然シリーズものなのでそこまで語られてきたいくつもの事件を経てのキャラクターの配置や人間関係は知っておいたほうが楽しめます。
たまにそういう作品に出くわします。

また「シリーズものを読み続けてきたことのご褒美」みたいなケースもあります。長いシリーズだと大変なので2作でわかる例を挙げると、七河迦南『アルバトロスは羽ばたかない』のおもしろさは『七つの海を照らす星』を読んだ後のほうが絶対にいい、というようなことです。

こんなことを突然考えてたのは、マイクル・シアーズの『秘密資産』というのがとてもおもしろくて「これはひさびさにブログでみなさまにお勧めせねばなるまい」と思ったけどこれ『ブラック・フライデー』の続編だ、と躊躇してしまったのです。
前作の『ブラック・フライデー』ももちろん安心してお勧めできるおもしろさなのですが、ちょっと最後のまとめかたが好みではなかったのでスルーしてました。
で、前作を読んでいないと『秘密資産』のおもしろさは減じてしまうので、ぜひあわせて読んでいただきたいのですが、みなさまもお忙しいわけでそれもハードル高いかなあとか思うわけですね。

そんな多忙なみなさまにお勧めなのがロジャー・ホッブズのデビュー作『ゴーストマン 時限紙幣』です。ぜひお読みください。

 
ロジャー ホッブズ
文藝春秋
¥ 1,944
(2014-08-08)


ゲームと書籍と未来の歴史

いわゆるゲームがソーシャルゲームに、書籍が電子書籍になっていく流れを「文化」として語るとはどういうことかという話です。

「文化が続く」とは何かを里見なりに突き詰めていくと最終的に「過去の参照が可能であること」となります。

ちなみにぼくのいる映像業界も世の趨勢には逆らえず、すでにフィルムを捨ててデジタルデータになってるのですが、なんかいつのまにか一周してまた長期保存用にフィルムが使われるような流れになっています。富士フィルムのETERNAですね。
一方で過去のフィルムはどんどん朽ち果てていってるので問題は山積みではありますが、なんとか映像を「未来への遺産」として残す技術は開発されています。

さて本題。
ゲームには大きくふたつの「保存方法」があって、ひとつは「デジタルデータを保存する」でもうひとつが「物理実体を保存する」です。前者はようするにエミュレータですね。後者は博物館です。

http://www.asahi.com/culture/update/0921/OSK201309210002.html
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/1403/12/news025.html
http://www.pcworld.com/article/248571/why_history_needs_software_piracy.html


ではこれからどうなっていくのか。日々サービスインしクローズしていくソーシャルゲームを歴史としてどう残すのか。実体のないデジタルデータは「同時代での共有」において最強ツールですが、時間経過に対してはとても脆弱にできています。
今はまだ「記憶」で歴史を参照できるかもしれませんが、10年後そして100年後になって「今」が「歴史」として「過去を参照」できるのかというのが問題です。

そして電子書籍にも同じ問題が起こりえます。
紙はいろいろいわれますが経年に比較的強いので、平安時代を生きた藤原道長の日記、それも本人直筆の現物が1000年経った今でも読むことができます。これはすごいことで、西暦3000年に現在のデジタルデータとして保存された文書を伝えられるのかというと微妙な気もします。
今は書誌学派のみなさまががんばっておられるので大丈夫ですが、これから先は電子書籍の保存を考えていかないといけない時代が到来しそうです。

里見は産業構造の変化に対して「○○は文化だ」とか「文化を守れ」とおっしゃるかたがたにはどちらかというと冷ややかな立場なのですが、かといって無邪気なデジタル礼賛でもありません。
その理由は実体の有無や愛着ではなく、時間を超えられるかどうかにあります。


(※元は長文だったのが書いてる途中でアプリが落ちて全部消えたので、ざっくり記憶で書いて推敲しないでアップしますよ。しょんぼり)

国家という名の虚構機関

自分の好きな小説の傾向を分析すると「虚構度の高さ」がかなり重要で、だから虚構のカタマリのようなSF、とりわけ「ワイドスクリーン・バロック」なんかに惹かれるのだと思います。

個別の作家だとマルグリット・ユルスナールやスティーヴン・ミルハウザーやリチャード・パワーズやニール・スティーヴンスンやガブリエル・ガルシア=マルケスなどなどになるのですが、

同様に国家レベルでの「虚構」を構築しているケースがあって、アメリカの「グレート・アメリカン・ノベル」や南米の「幻想文学/マジック・リアリズム」やフランスの「ノワール」、ソ連/東欧の「SF」など……
その「社会」の(独裁や失政や社会主義といった)歪みや異質性の産物としての「小説」は、作家が所属している社会の(ぼくからみた)虚構度が高いので、おそらくその社会の必然であるにもかかわらず何もかもが「強靭な虚構」のカタマリ、つまりふつうにありのままの社会を描写するだけで「虚構」になってしまうのでとても好ましいわけです。

この「社会」の下駄を履かされた状態でくだされる作家/作品評価は適正かというと微妙なのですが、作家の才能の半分は「環境」なのでいたしかたありません。


まあもしジャパンがクールに見えるというのであれば、そういうことなのかなと思います。

たまたまのたまもの

フリーランスのアニメプロデューサーなんてことをやってると「どうやってなったのか?」と訊かれたりします。自分の現在の居場所が他人から羨まれるような立場なのかというと個人的には首肯しがたいところではありますが、アニメが好きでアニメの現場にいるのは事実です。

実はこれ本来不要な職掌ですので、同業のかたから見ても弊社が10年以上にわたって成立してる不思議な現実に首を傾げるのは理解できます。
これには業界でささやかれるふたつの仮説がありまして、ひとつは「親が金持ちである」でもうひとつが「金持ちの親の遺産を相続した」で、このふたつの違いはぼくの親の生死だけなのが少々気になりますが、今後の検証が待たれます。

さて「どうやってなったのか?」はアニメのグッズ屋さんにたまたま入社してたまたま転職したらたまたまアニメをつくることになってたまたま独立してみたら意外と仕事をいただけてたまたま10年以上続いてしまっただけなので「運」以外のなにものでもなかったりします。

そして「運」はだいたい「ヒト」と「タイミング」でできてますので、もう一回人生をやり直したらまったく違う職業に就いているだろうことは想像にかたくありません。

「ヒト」と「タイミング」がズレるとあのラオウやトキですら北斗神拳の継承者になれないわけで、これはもう「運」としか申し上げようがありません。

現状から過去を眺めてそこに何か一貫した目的とか筋をあたかもあったかのようにならべることはできても、自分で自分の未来の人生をデザインするというのはおよそ不可能です。

あえて言うならなにごとも「深く検討しない」ことですかね。即断即決で。



なんでもかんたん刑

※半年ぐらい前に書いてアップし忘れてたエントリーを見つけました。特に書くこともないのであげときます。



最近いろいろ考えまして、なんでもかんたんなこととしてお話することにしました。

「こういうことってできますかねえ?」
「かんたんですよ」

「大変申し訳ないのですがこういった追加作業をして欲しいのですが」
「かんたんですよ」

といった感じです。
なんでもむずかしそうに語るほうが仕事的にはよろしいというのはこのブログで以前「いつも心に黒い箱」の中で申し上げたことですが、これは器の小さいクライアントが多いことが原因とはいえ自分も同じレベルで対抗措置を取るのは器が小さいなあと思い直しまして、ここしばらく「なんでも安請け合い」を実践しています。「おたがいガードを下げたほうが楽しいよ」派としてはまず自分からガードを下げないといけないですからね。

というわけで内容の難易度にかかわらず「かんたんですよ」とお答えしております。
まあだいたいの作業はステップをかんたんになるまで分割してご説明するので、ほんとにかんたんなんですけどね。


どうしたらアニメの仕事に関われますか?

というご質問を学生さんからいただく機会なんかがありまして

「とりあえずどこでもいいから就職して『アニメに関わりたいです』と言い続けること」

とお答えしました。
それでよかったのかどうかわかりませんし、学生さんたちはまだ選択肢も多いですから何を選ぶかもわかりませんが、とりあえずぼくの意図としては、

その就職先がアニメに関わるメリットがあれば(会社は利益を求めますので)そのうち願いはかないますし、それがダメでも気づかぬうちに社会経験はプラスになっていて、「社会経験を持ったアニメ業界就職希望者」にクラスチェンジしてるので、まあ無駄にはならないのではないかということです(これが「アニメプロデューサーになりたい」とか「アニメ監督になりたい」と具体的な目標が設定されてるなら別ですが)。

ぼく自身とてもふわふわした立場でアニメ業界を漂っているのですが、たまーに面接なんかをする機会もあります。
ところが学生さんの場合みんな「学生」という同一線上に並んでるように見えるのですね。それはそうですよね。ごく一部のかたをのぞいてはじめて就職するのですから。
で、みなさん薄々お気づきかもしれませんが、面接の弊害は話術がたくみなかたが有利になりがちなことかと思います。
これを面接官のかたがたは脳内で是正しながら採用した場合の戦力分析とかをしてるのではないかと想像するのですけど、面接を受ける側の対策として「どこかの会社で1〜2年働けてた」という実績を示すのはとても大きなプラスではないかと思います。
少なくともぼくはそうです。

アニメスタジオも一応会社なので「会社員ができる」ことがある程度保証されているのはとてもありがたい話です。ましてアニメを仕事にしたいほど好きだなんて。
もう何もいうことがありません。

その後、イメージとちがったとか適性がなかったとかいろいろあるかもしれませんが、これでスタートラインに立つことはできるのではないかなあと思います。

がんばるは一時の恥、がんばらぬは一生の恥

「一所懸命がんばること」がカッコ悪いとされる時代や場所がありまして、ぼくはそんな空気にどっぷり漬かってきたので勉強も仕事もあまりがんばらない人間になってしまったのですが、この歳になって深夜に『アオイホノオ』とか観てると「周囲の目なんか気にしないでガムシャラにがんばればよかったなあ」と思ったりします。
人生において、周りのひとたちはどんどん入れ替わっていきますが自分は変わらないので、たとえがんばる(ことを見られる)ことが恥ずかしくても、しょせん一時の恥でしかないので気にしなくてもよかったのですよね。

何をがんばればいいかわからないというのもありますが経験上、手段が先にあって「目的があとからついてくる」ことが多いので、なんでもいいから動くのがよいかと思います。あたりまえのことですが、手段という道具/手札が多く深いほど、いろいろな目的に到達できます。そして周囲の目はつまるところ多数決原理ですので、ひとを平均化していきます。
だからいつの日か「目的」がなんだったらわかるぐらいがちょうどいいですね。

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バーナムスタジオ

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