意図の聖域

将棋や囲碁などのゲームの世界では人間対コンピュータの対戦が行われ、最近ではついにコンピュータが人間を凌駕しつつあります(チェスはすでに凌駕しています)。

かつて「烏鷺は悲しいドラマである」とおっしゃったのは故・坂田栄男さんでありましたが(「烏鷺」はカラスとサギで黒と白、つまり囲碁のことです)、ひとのまなざしがゲームに見出す「ドラマ」こそが余剰でもあり抒情でもあると思います。


さて。将棋の電王戦を拝見したりコンピュータ麻雀をやったりしながらふと思ったことなのですが、人間の強みも弱みも「型」にある気がしました。

当初は真っ向からのぶつかり合いでしたが、次第に『「型」にハメてボコる』と『「型」にハマってやられる』で勝敗が決まることが増えていったように感じます。

将棋は素人なので想像ですが、人間は多くの「型」をあらかじめ記憶しておくことで「考えるまでもない最善手」の高い土台を築いて思考を省力化し、その上で想像性のある「妙手」に思考力の大半を割いているのではないかと思います。

今までの対人間戦ではこの妙手にいたる「思考力の余裕(と土台の高さ)」が勝敗を決していたのが、対コンピュータ戦では比率が逆転して「土台の高さ(と思考力の余裕)」ぐらいになってるのかもしれません。

これはかつての格闘ゲームにおける対CPU戦での「ハメ」の状態に近づいているかのようです。

歴史はくりかえしますね。

とはいえこれは「最強を目指す」行為とは少し異なります。
もちろんコンピュータの「穴」は経験とともに埋められていきますので、人間側は大変かと思いますが。

また頭脳と肉体のちがいはありますが伝統的な格闘技においても反復練習でカラダに染み込ませる「型」はとても重視されています。

それが実戦やいわゆる総合格闘技戦ではあまり機能しなかったり、異なる格闘技の体系をバックボーンとするはずなのに似た挙動になってしまったりといった現象を散見しました。

コンピュータ相手に限らず麻雀も手役をキチンとつくるより速度重視のが実践的です。

「型」を積み重ねて「ドラマ」に到達するロマンみたいなものが、夢枕獏さんの格闘小説(将棋も)の核にあると思うのですが、それももはや古びているのかもしれませんね。





本の嗅覚

ある一定の期間と読書密度を経たマニアともなると本屋さんで新刊の棚を眺めて「これはおもしろそう/これは危険」と読まずともだいたい察知できるようになります。
この能力を里見は「書痴アンテナ」と呼んでいるのですが、かつてただ手当たり次第に貪るように読むと思われていたマニアたちは、このアンテナの精度の高さによって意外にも効率的に良書を選択していることが最近の生態研究の成果として明らかになってきています。

さてここで過去 Blog や Twitter で里見が翻訳を希望した作品がいくつかあるので答え合わせをしてみます。



Ernest Cline “Ready Player One”
めでたく翻訳されてSB文庫から出版されました。ワーナー・ブラザースで映画化との話もありますので(というかぼくが読んだ時点でもすでに映画化権はワーナーさんが押さえてました)、これからも話題になるかもしれません。内容は翻訳されてるのでぜひ読んでみてください。邦題は平凡な感じになってますが。
アーネスト・クライン『ゲームウォーズ』

Hugh Howey “Wool”
こちらも角川文庫からめでたく出版されました。いまいち話題になってない気もしますがおもしろいので日本語で読めるこの機会にぜひ。まだまだ未訳がありますので。
ヒュー・ハウイー『ウール』『シフト』


Justin Cronin “The Passage”
当時三部作の二作目が出るか出ないかあたりで完結しておりませんでした。ゾンビの独壇場だった終末ものをヴァンパイアでやってて「これはくるね」と思ったのですが、いまだに翻訳されてません。というかですね、それ以前にまさか 2015 年春を迎えていまだに完結していないとは予想できませんでしたよ。
こちらはリドリー・スコットと20世紀 FOX が映画化権を持ってるという話ですから、完結のあかつきにはどこかから翻訳されるのではないかとまだ期待しております。

とにもかくにも完結してほしいですね(Amazon.UK によると今年の夏らしいですが)。


Richard Phillips “Rho Agenda”
陰謀論の王道、アメリカ政府がUFOを隠蔽してたのがほんとだったという設定の世界で、偶然少年少女がもう一機のUFO「セカンド・シップ」を発見してしまうというわくわく冒険感(と背後のオトナたちの陰謀感との対比)がとてもいいなあと思いましたが、こちらも翻訳されてません。前にも書きましたがアニメ向きな気もします。

Seth Grahame-Smith “Unholy Night”
ティム・バートン作品の脚本を手がけていて『高慢と偏見とゾンビ』『ヴァンパイアハンター・リンカーン』(こちらは映画にもなりましたね)と翻訳実績もあるセス・グラハム=スミスなので大丈夫だろうと思ってたのですが、これはまだ翻訳されていません。東方の三博士が実は逃亡中の犯罪者で身を隠した馬小屋でたまたまイエスの出生に出くわしてしまってトラブルに巻き込まれてしまうというおもしろ設定といい、前二作よりもとっつきやすいと思うのですけどね。



というわけで Blog や Twitter は場当たり的なので何を書いたかよく覚えてませんからとりこぼしもあるかもしれませんが、5作中2作が翻訳されていました。


ご紹介するまでもないと思った作品が水面下にあるのでもちろん「書痴アンテナ」の打率ははるかに低くて、しかも「これは翻訳される/してほしい」にしぼってこの割合ですから、「書痴アンテナ」の精度はもう少し上げないといけません。
精進します。

そしてあいかわらず誰かに翻訳していただきたい作品はニール・スティーヴンスンの “The Baroque Cycle” であります(ぼくには歯ごたえがありすぎて読めないので)。

 
アーネスト・クライン
SBクリエイティブ
¥ 842
(2014-05-19)

ヒュー・ハウイー
角川書店
¥ 843
(2013-09-25)

ヒュー・ハウイー
KADOKAWA/角川書店
¥ 864
(2014-07-25)


「わからない」なりに呑む

インタビュアから「地球外生命体の存在についてどう思われますか?」と問われてホーキング博士は



「地球上に“知的生命”と呼ぶに値するものなど存在するんですか?」



と冗談めかしてシニカルに答えておりましたが、まあそんなものです。

世の中のことや他者の考えていることなどほとんど「わからない」というのが正直なところです。

とくにぼくは共感能力がみなさまと較べて劣っているのか、だいたいの場合何をいわれているのかよくわからないのですけど(それでよくプロデューサーなどという調整役をやっているなあと思います)、それでいったいどのように対処しているかというと



「鵜呑みにする」



です。

もう少し具体的に書くと「よくわからないけどあなたがそうおっしゃるのならそうであろう」です。

たとえば誰かの「仕事がつらい」という悩みを分割して「労働時間」や「労働環境」や「心理的負担」やらに区分けして分析していっても、ぼくは「つらい」にも、ましてや「つらいの解消」にもたどりつけないのですね。それは「徹夜がつらい」といった肉体的負担でも同じで、ぼくは徹夜をしてもそれほどつらくないので共感できてるとはいいがたいです。

たぶんひとより「ココロとカラダ」がひとより単純にできてるのだと思います。

そこで単純なぼくは「わからない」ことは「複雑」であるがゆえわからないまま「鵜呑み」にすることにしています。



日々伝えられる「つらい」「苦しい」「残念」「憎悪」「嫉妬」といった(ある種ネガティブな)発信は、必要に迫られておこなわれているものと「鵜呑み」にして、「あなたがそうおっしゃるのならそうであろう」と思うようにして、尊重することにしています。



それはもしかすると差別やさまざまなハラスメントの衝動に呑みこまれずにいられる「姿勢」なのかとも考えています。

もちろん関係ないかもしれません。



ちなみに地球上にいる“知的生命”は一番目がねずみで二番目がイルカで三番目が人類であります。

We still fight, fighting in the ninety

「アイドルアニメ」を語るときに「うたプリ」が抜けがちになるという話題を見かけまして、

「まったくだ。よーし『超者ライディーン』も語らねば」

みたいなことを思ってたら、なんか「抜けがち」なものについて考えてたなあと脳内を検索していて思い出しました。



しばらく前の話です。
夜テレビをつけたらサブカルチャーの歴史みたいな番組をやっていて、黒板の中央に「OTAKU」と大書されていて、左右に「渋谷系」「悪趣味系」、下に「90年代」と書かれていました。

内容はわかってないのでこの配置にどのような意図があるのかわからないままなのですが、 J-POP がメインカルチャーとしてサブカルチャーが「渋谷系」ということですかね。

当時のことをふりかえると「悪趣味系」の位置に「ビジュアル系」がくるとぼくなりにしっくりくるのかなとふと思いました。
なんとなくぼくの印象としての90年代は J-POP 黄金時代であるとともに「渋谷系」と「ビジュアル系」と「テクノ」の鼎立時代で、

「ビジュアル系」<「渋谷系」<「テクノ」

の順で「ファンと会話するとめんどくさい度」が上がってく世界だったのですが、実際はどうだったのですかね。

そういえば当時大学に入学してはじめてカラオケボックスに行ったのですが、知ってる曲がアニメソング以外何もなくて途方にくれてるのにまわりは嬉々として J-POP を歌っていてとても肩身が狭く辛かったことを思い出しました。その後サークルのひとたちとアニソンカラオケができたり、 TAITO さんの X2000 (という通信カラオケ)で曲数が格段に増えたりして多少そのストレスは解消されるのですが。

お前は高校まで何聴いてたんだよと問われると


「アニメソングとクレヨン社だよ」


とお答えするしかないので今でも当時の音楽の話題は肩身がせまい思いですが、90年代の音楽における「ビジュアル系」は「渋谷系」と同じくらいには存在感があったように記憶しています。

それにしても「悪趣味系」ってなんだったのですかね? 電気グルーヴとかかしら(上の分類では「テクノ」の頂点です)。それとも音楽の話じゃなかったのかも。
対立してるものではなかったのかも。
とぼんやり眺めててそんなことを考えてたこと自体忘れてしまいました。



天秤の軽重

里見は仕事柄、創業経営者のかた(つまり起業した社長)とお話をする機会がふつうのかたより多いかと思います。

そんな社長のみなさまを頭に思い浮かべつつ会社を起こすひとと起こさないひとは何がちがうのかというのを考えてみたところ、傑出した能力やバイタリティといったプラス要素というより(そういうかたももちろんたくさんいらっしゃいます)、どちらかというとマイナス要素つまり「欠落」なのではないかというのが現時点の結論となっています。

ぼくもそうでしたがふつう起業時に脳裏をよぎるのは「起業にともなうリスク」と「起業する根拠」、いいかえると「恐怖」と「安心」です。
この「恐怖」と「安心」という誰にも保証できない「天秤」のふたつの重しがあるがゆえに、ビジネスチャンスが目の前にあっても軽々に飛びつくひとはそんなにいないのですけど、そこで起業してしまうひとというのも一定数いらっしゃって、これはリスクの恐怖(と根拠の重さ)をあまり感じていないからなのではないかと思われます。
もちろん社長のみなさまにおうかがいするとリスクを把握し、明確な根拠のもと起業したとおっしゃるのですけど、まあふつうのひとはそこで給与生活者の地位を捨てないですよねと感じることがほとんどです。
リスクの把握というのは危機の可能性を見積もる能力です。これが通常人よりも低く設定されてるのではないかと思います。
ドラえもんのひみつ道具でいうと「オモイコミン」を脳内で自己生成してブロック塀のうえをあたかもたたみのへりのようにすっと歩ける感じです。

そして天秤の反対の片方である「根拠」もほとんどの場合はやってみなければわからないので、かなり曖昧なものです。

にもかかわらずなんかこう動きが自然なんですよね。起業に踏み出す一歩が軽いというか。「人生を左右する一生の大事」に向き合うような重い決断といった感じではなく。

これは里見が常日頃提唱する「優秀な起業家/経営者は『信長の野望』のように経営をする」理論とも合致します。


なのでつまるところゲームのごとく「天秤」そのものが軽いのではないかと推測する次第です。



高徳の人

ひとは自己分析が苦手な生き物ですから、自己評価というものはたいてい誤っています。

評価とは他者を評して価値づけるものですから、「傍目八目」といいまして無関係なほど正しくかつ冷酷になることが多いです(これを履き違えて素人のかたが無垢な視点なるもので専門家を見下してるのを拝見することもありますが、これはこれでご本人の意図とは別に自己評価のむずかしさの例であります)。

さて本日は、お仕事をしていて「自己評価は高いのに周囲の無理解で評価が低い」場合どうすればよいかという話です。

ここにはふたつのケースが考えられて

・自己評価が間違ってる
・周囲の評価が間違ってる

です。
あたりまえですね。

ところが冒頭に書いたようにひとは自己分析が苦手なので、どちらのケースなのかを自分で判断するのは大層困難です。

とはいえどちらのケースであっても放置してよくなることはございません。
簡単な対処法を申し上げますと

「徳を積む」

です。

民話や昔話でも徳の高いお坊さんはとても尊敬され、「衆人環視の下/人知れず」偉業や奇蹟をなしとげます。業務において評価が高いとはつまり偉業ですので、このお坊さんはとても参考になります。
他者から賞賛されたいかただと「衆人環視の下/人知れず」の部分が前後どちらなのかが重要かと思いますが、これはあくまで副次的な産物です。徳さえ積めば賞賛はあとからついてきますのでご安心ください。人知れずといっても民話に残ってるのですから結局知られてますし、そもそも高徳のひとは高徳なのでそんなこと考えません。

では肝心の徳を積むにはどうしたらいいかというと簡単で、徳は「善行をおこなう」と積まれるというシンプルなシステムなので、陰に日向に善いことを日々おこなえば徳が蓄積されて周囲のひとも「徳の高いあなたがおっしゃるのでしたら」と耳を傾けていただけるという寸法です。

そうなればしめたものです。
当初の自己評価の正当性は不明のままながら、周囲の評価が高まってるので結果どちらにしても問題解決です。

めでたしめでたし。





知には平和を

ここのところの世の中のできごとから「本音/建前」を経由して「知識」について考えていました。とりとめもなくとくに結論も出ない話なのですが、最近なんでもすぐ忘れてしまうので、備忘録的にダラダラ書き出しておきます。

地方議会での野次問題や、中東の人質問題にいたるまで起こっている事象は「女性蔑視」や「基本的人権」と表面上はまったく違いますが、傍観しているのは同じひとなので同じような結論が導かれます(そして表面上はともかく本質は同じものであります)。

それが「本音/建前」の話です。

おそらく日本は(巷間伝えられるところと異なり)「建前」が弱く「本音」が尊ばれすぎているように思います。

ほとんどの場合、自身の「知識」の多寡は主観ではわからないようにできていますので、問題の発言をされた地方議員のかたも大臣のかたも雑誌記者のかたも新聞記者のかたも、「知識が欠落していたこと」ではなく「みんな思ってる本音を、建前で語るべき場所で発言したこと」が原因と認識されているかと思います。
「本音」にこそ「正しさ」が宿るとされている社会では同じことがくりかえされます。
なぜなら「本音」は「感情」と置き換えても成立するある意味自然なものだからです。

ある対立する立場があると(それは「オタク/一般人」でも「黒人/白人」でもいいのですけど)、だいたいマイノリティであったり社会認知が遅れている守勢側に「知識」が蓄えられます。
強い「本音/感情」に対抗するには「知識」によって(相手にとっての)「建前」を積みあげていくしかないからです。
そうしてつくられた「政治的正しさ」の価値は尊重されるべきものですが、それはそれとして「本音の正しさ」のほうがより優位であるとされてしまうと事態は改善されないことになります。

ぼくはいわゆる「個人の行為や信条」から導かれる「自己責任論」なるものを採らないですし、ましてそのような考えかたをベースに「日本政府や日本国民が救うべき生命と見捨てるべき生命」を峻別する(ことができると思う)のは傲慢極まりないと考えています。できることは「ともかく救え」なのだと思います。
ところがここでぼくは「陥穽」にはまってしまいます。なぜなら生命は日々あたりまえのように失われているからです。センセーショナルなインターネットの動画が伝えるのも、通勤時にJRのアナウンスが伝えるのも、同じ生命です。そこにちがいを生じさせてしまう自分の「本音/感情」の自然なバイアスは、結局「生存権」という根本的な権利においてすら「本音/建前」の線の引く位置のちがいでしかないということですから、これは「陥穽」にほかなりません。

そして民主主義は国民の意見の総和でものごとが決められていくもので、素朴な「本音」こそがすばらしいとなると「国家」も同じ「陥穽」にはまってしまいます。そうならないためのセーフティもしくは制約が「憲法」であったり結果としての「間接民主制」だったりするかと思います。

なので「自己責任」の反対に「仇をとってやらねばならぬ」から「日本人を救えない憲法なんて、もういらない」という意見があるのもまた「本音/感情」の強さの証左ではないかと思います。
このふたつが組み合わさると憲法が捨て去るのは結果的に「戦争放棄」ではなく「基本的人権」のような気もします。


また守勢側の「武器」として用いられる「知識」は往々にして攻撃的になりがちですので、以下に知識の三原則を掲げておきます。


第一条
知識で人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 知識は人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

第三条 知識は、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

未来の収奪

「オリジナリティは常に未来に奪われる」問題というのがありまして、どのようなものかといいますと「伝説的な名作/傑作」と呼ばれる古典を見たり/読んだりしたときに感じる「あれ? こんなもんなの?」感のことです。

それは『七人の侍』でも『宇宙戦艦ヤマト』でも『Yの悲劇』でも『虎よ! 虎よ!』でもなんでもいいです。

それらは同時代のひとに衝撃をあたえ、そのジャンルの金字塔として不朽の名声を勝ち得たものであると同時に、その影響力ゆえに後続のひとたちにリスペクトされ分析され「模倣」されていきます。

結果、これらを特別なものたらしめた肝心の「オリジナリティ」はありふれたものとなり、当時の鮮烈な衝撃は失われます。

人類ではじめて揚げ物を食べたひとはこの世界にこんなうまいものがあるのかと衝撃を受けたのではないかなあと思うわけですもぐ。

「恥ずかしい」ということ

あるニュースを見かけてふたつのことを思いました。

それは「○○が××に出るのではないか」という予測する記事に対して「恥ずかしいからやめてほしい」とするものでした。

記事に対するリアクションとして「もしそうなったら恥ずかしい」と思い発言するのはもちろん自由です。

でも本人や本人を支援、応援するひとたちからしたら別に何もしていないわけです。

勝手に持ち上げられて勝手に貶められて、してないことをよってたかって批判されたらたまったものではないなあという素朴な感想がひとつです。


もうひとつが、世界に発信すると「恥ずかしい」という考えかたについてです。

これはぼくが片隅に身を置くアニメの世界でもつきまとう問題でして、「世界に誇るべき」日本の文化を輸出して広く認知してもらおうというような感じの名分の下、いわゆる伝統文化や和食やファッションとともにゲーム、マンガなどなども「クール・ジャパン」であるとしてアニメもまたその一端を担っています。

そのようなとき、「欲しい」と思うものを目指す大衆文化の多様性とある種の絞り込みによる洗練がもたらす必然として、ソトのひとに見せて「誇らしい」と思うものと「恥ずかしい」と思うものが含まれます。

別に「クール・ジャパン」はありのままの日本を見せたいという話ではないですし、「欲しい」と「誇らしい」では「ものさし」がまったくちがいますからね。

アニメに限らず「クール・ジャパン」な服を着て「クール・ジャパン」な食事をして「クール・ジャパン」な舞台を鑑賞して日々を過ごしているかたもそうそういないでしょうし、その一方で晴れの舞台での一張羅や、ここ一番での豪華な会食も共存していてあたりまえですので、とくにおかしなことではないのですが、すでにある/いる存在に投げかける言葉として「恥ずかしい」のもつ否定的なニュアンスが少し気にかかりました。



というようなことを思いました。
被害妄想的ですかね。


春来りなば冬遠からじ

昔の古本を読んでいたら巻末の広告で鮎川哲也かなんかに「本格の孤塁を守る」という紹介がついてた記憶がありまして、それはそれで「冬」を感じていた当時の「事実」なんだろうなあと思い、その隣にならんでる作家が(現在では本格ミステリの本流と認識されてる)土屋隆夫だったのも「全然孤塁じゃないじゃん」と印象的でなんとなく覚えています。

という突然の前置きからはじまりますが、「本格ミステリ冬の時代」があったのかなかったのか論争みたいなのがありまして、あったのかなかったのか話が周期的に起こっているのです。

しかもややこしいことに肝心の「本格ミステリ」とは何かというのはマニアであっても(というかマニアだからこそ)決して踏み込んではいけないとされている面倒くさい領域の話になってしまいがちなのです。

個人的な認識として、ミステリにおける「本格」は「ジャンル」よりも「伝統」に近いものでありまして、「この要素をそなえているから本格である」といった客観的なくくりではなく、読者が「これは本格の伝統に則っているから本格である」と判断するものだと思っています。

ではここでいう「伝統」なるものはどのようなものかとなるわけですが、それは「自分や周辺が蓄積した、時間的な好ましい知識の集合」です。
「時間的」というのがポイントで「伝統」はあらかじめ存在しているものではなく、どこかの時点で気づき過去のなかに現在へとつながるルートを「発見」するものです。
さらに本格ミステリには「伝統」を強化しやすい要素が含まれているのだと思います。もともとミステリはその仕組み上、過去作品を踏まえて複雑化していくようになってますので「伝統」を見出しやすいですし、ミステリに限らず「本格」と呼ばれるものの多くは「夾雑物」を嫌う傾向がありますしね。

まあなので「この時期はこういった本格ミステリの傑作がこれだけ出版されてるから『冬の時代』とは呼べない」という反証に対して「だがわれわれは飢えていた」という「あった/なかった」は日常生活にたとえると

「金は充分あった」VS「でもしあわせじゃなかった」

みたいな対立軸なのかもしれませんね。

「社会派の時代」はいわれてるよりも短いし「幻影城」休刊から島田荘司デビューまでは2年しかないしと(別に社会派と本格は対立概念ではないので両立しますし、「幻影城」があったからって本格が守られるというものでもないんですけど)、部数はともかく出版点数的に「冬の時代」の存在を裏づけるのは困難でありながら、でも当時の証言としては「冬の時代」だったということは充分ありえて、それは作品としては存在していたがそれはあくまで個別のもので「ムーブメント」には結びついてなかったとか、「夾雑物」によって「本格」とは認められなかったとか、結局のところこれは自分史のなかでの「伝統」の位置づけのほうが、「現実」よりも強固であろうということです。

というわけで「冬の時代」は寒いといえば寒いし寒くないといえば寒くないという体感の話で「不景気」と似ている、と。


(明確な物証をともなう本当の冬の時代というのもかつて存在していて、それは検閲が乱歩を追い込んだ1930年代後半から1945年までです)


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バーナムスタジオ

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