里見が Facebook に書いてた安倍首相にまつわる文章を抜き出してみました。

Facebook にてきとうに書き連ねていたものから安倍首相にまつわるものをここ1年ほど抜き出してみました。下にいくほど古いです。ニュース等を拝見して思ったことを書いているので現時点とは状況が変わっていたりもするのですが時間が経つほど検索しにくくなるしそのうち忘れてしまうので備忘録的に。

過去をふりかえって語るとどうしても記憶を上書きして「あのころからおれはわかってた」になりがちなので「そんなことないよリアルタイムではこんなもんだよ」を残しておこうと思います。

 

1-1

評価はいろいろあるでしょうし辞任理由が病気なのでこのタイミングは本意ではないのでしょうが、安倍首相は最後の1年(消費増税からコロナ対策)以外はおおむねうまくやってたと思うので、前回の任期で退陣してたら偉人になれてたんじゃないかしら。

 

引き際って大事だなあと思います。

 

1-2

組織ぐるみで公文書の改竄・捏造・隠蔽に公金ぶちこんでの官製株式相場と後始末しにくい爆弾をたくさんつくりましたけど、結局「長期政権」の存在そのものがもたらした安定がメリットだった気がします。あと何度でも書くけど安倍首相の最大の功績は北方領土問題を解決したことだと思うよ。

 

1-3

ぼくの安倍首相/政権に対する印象は、速水螺旋人さんのブログがとても近いです。 https://rasenjin.hatenablog.com/entry/2020/08/29/054658

 

1-4

まあこの長期政権下で完全に崩壊したのは「官僚」と「マスコミ」なのでこれがまだ致命傷じゃないとよいですね。

 

2-1

黒川検事長の定年延長をめぐる一連の騒ぎには悪をなす黒幕がいてなにかしらの意図に沿っておこなわれてるといった陰謀論に陥りがちですけど、安倍首相にも内閣にもその背後にも、たぶんそんなものはなにも存在してないです。

きっかけは「定年をちょっと延ばせばおたがいにとってうまくいく」状況で、おそらく内閣のだれかの「やさしさ」からいつものように希望をかなえるために押し通そうと思ったら、それが違法行為だと発覚したので、あわてて法解釈の問題にすり替えて法務省に押しつけたことです。

もちろん突然の思いつきですから存在しない議事録はいくら探しても見つからないので、法相は「口頭決裁」をくりかえして耐えるはめに陥るわけですが、これは法務省にとって屈辱的です。同じあやまちはなんとしても回避しなければなりません。

そこでたまたま同時に動いていた検察庁法改正に今回のケースをクリアする内容が急遽盛り込まれたわけです(ほんとはこの法案が黒川氏の定年より先に成立してるはずの予定だったのかもしれませんけど)。その意味で黒川氏の問題はきっかけではあるが直接黒川氏を正当化するためのものではありません。あくまで今回法務省に起きた「惨事」をくりかえさないように、また今回のような事態が起きても問題ないように「合法化」しただけだと思います。

だれも先を見通してないし、悪意も存在してなくてただその都度場当たりで動いた結果です。

見通してたら仮にも法務省と呼ばれる組織が「法解釈の変更」の名の下に違法行為に手を染めたうえに、何度も騒ぎになるような段取り組まないですよね。

ふつうに回避する手段はいくらでもあったわけで。 ただただまんべんなくものごとの遂行能力が低かったのだと思います。

 

2-2

安倍首相は説明能力が低いだけな気がします(奥さんは変ですけど)。ほとんどのことが説明できないので質問されるとどんなことでも「隙になっちゃう」のだと思います。たぶん安倍首相に「昨日の夕飯は?」みたいな質問をしても(ご本人がすぐ思い出せないと)答えはダラダラ長いが何を食べたかわからない、になると思います。これは「頭の中で自分の意見をまとめようと時間を稼ぎながらがんばってる結果」なのですけどあまりにしどろもどろなので、「質問に答えられないのは何かうしろめたいことがあるにちがいない」ように見えるのだと思います。

 

2-3

政治家が残念な能力なのは選挙の結果なので国民に似つかわしいかたたちが選ばれてるからしかたないとして(安倍首相の長期政権を強く支えてるのは野党だということも含めて)も、 その残念な政治のつじつま合わせに虚偽発言や公文書破棄を辞さず、「ファクスで集計」や「エクセル関数計算禁止」といった反知性的なオーダーにも愚直に応える官僚組織はおそらく世界的に見ても能力は優秀なのだと思うので、ポジティブにつかいこなすトップに恵まれるといいですねー。このままだと優秀な人材はばからしくて官僚にならないですからね。

 

2-4

安倍首相ってたぶん本質的には「自分のやりたいことは憲法改正以外そんなになくて、周囲のみんなの希望をかなえようとするいいひと」なんだと思うのですよね。だから桜を見たいひとがいればどんどん受け入れるし、北方領土もほしいといわれればロシアにあげちゃうし。今回のも安倍首相の希望ではなく周囲の誰かの希望なので、ちゃんとかなえようとすると思います。

 

3-1

首相の言動に合わせて書類が消えたり現れたりちがう意味になったりするの「ニューイヤー星調査行」みたいだなとちょっと思った。

 

おまけ(このブログで触れてたもの)

 

感情的な数字

http://blog.barnumstudio.com/?eid=1303922

 

痴性化戦争

http://blog.barnumstudio.com/?eid=1303918


(たぶんみんなの予想とちがう)『レディ・プレイヤー1』のすすめ

里見はたまに英語の本を読んで感想をブログやツイッターに書いたり書かなかったりしてますが、別に英語が得意なわけではなく能力的にはおそらくみなさまと変わらないかむしろ劣るレベルではないかと思います。アメリカに行くとちんぷんかんぷんなのでまわりのひとがなんとかしてくれるまで辛抱強く耐えるスタイルです。

それなのになんで英語の本を読むのかというと日本語と較べて「早さ」と「広さ」が各段にちがうのでしかたなくです。

「早さ」の例を挙げるとぼくのブログでちょうど今話題の『三体』と『三体 黒暗森林』の感想を書いているのですが、こちらの日付が5年前です(翻訳されないと思って読んでたので、翻訳されたうえに日本でも売れていて非常にめでたいです)。

「広さ」というのは好きな作家を幅広く読める、という意味です。たとえばぼくが「原書で読まなきゃ」とはじめて手に取ったペーパーバックは、当時未訳のレイ・ブラッドベリでした(今はだいたい読めるようになりました)。
そのころ翻訳された作品群をほとんど読みつくしてしまいゴールしたかなと思ってふと遠くを見たら、読んだことのない作品が(英語だけど)あんなにたくさんあるなんて……と辞書を片手にひたすらがんばりました。

とはいえよほど好きじゃないとそこまでの情熱は抱けないものです。
なのでぼくは今もそんなに英語の本は読みません(読めません)。
ちなみにぼくの選定基準は「早く読みたい」か「翻訳されそうもない」で、その条件にあてはまるとしぶしぶ購入しています(読むとは限らないけど)。


ただそうはいっても最初の1冊を手に取る心のハードルが一番高いですよね。

そこで「最初の1冊」におすすめなのがスピルバーグ監督の大ヒット映画『レディ・プレイヤー1』の原作 "Ready Player One" です。
もし「原書(英訳)読めたらいいけどむずかしそうだしなあ」と考えているかたがいらっしゃって、われわれに近しい趣味嗜好をお持ちでしたらまずこれから試してみるのがよいのではないかと思います。
邦訳は『ゲームウォーズ』というちょいダサめのタイトルで出ていますが、原書を読むうえでさしあたって読む必要ないです。映画を観てだいたいこんな話かぐらいの知識で充分ですし、もしかしたらそれすらもノイズかもしれません。

何も考えずに kindle で購入して勢いで読みはじめるのがよいと思います。

さて準備はよろしいでしょうか。 "Ready Player One" がなぜおすすめかというと、長さが手ごろなのもありますがなによりも大事なのは、作者もキャラクターも世界設定も何もかも「アメリカのおれたち」でできているからです。映画をご覧のかたには薄々伝わっていると思いますが英語なのに

なぜか単語を知ってます。

そしてどういうわけか「おれはエスパーか!!」というぐらい彼らの行動や選択に共感できます。なので多少読み飛ばしても理解できてしまいます。ともかく勢いとリズムでなんとかなります。
たぶん趣味嗜好によって最適本はたくさんあると思いますが、ゲームやアニメや特撮系ならこの "Ready Player One" が現時点最強の1冊ではないか考えます。

で、英語で400ページ弱を読み切れれば次もなんとかなります。
「好きな作家」か「好きなテーマ」か。ともかく自分にとっての読みやすさを軸に何冊かチャレンジしてみると「まあなんとかなるかな」レベルで読むことはできるようになってると思います。

今のタイミングだと次は劉慈欣の『三体 死神永生』の英訳 "Death's End" あたりでしょうか。日本語でも中国人名・地名は覚えにくいと思うでしょうが、それが全部アルファベットで表記されるとその比ではないぐらい頭に入ってこないのでそこだけ覚悟しといてください。「最先端に躍り出たワイドスクリーン・バロック」ですので、おもしろさは保証します。

ではみなさまよき読書ライフを。



『影を呑んだ少女』を読みました


フランシス・ハーディングの『嘘の木』『カッコーの歌』につづく3作目の翻訳になります。

イギリスを舞台に毎度時代は異なれどハーディングが描いているのはいつも「あらがいようのない圧倒的な現実世界と対峙しあらがう少女」です。本作では清教徒(ピューリタン)革命を背景に少女メイクピースが頭の中に幽霊を住まわす「能力」によって過酷な運命に巻き込まれ、立ち向かいます。それは今を生きる少女(もちろん全人類にも)に現実と向き合う勇気をあたえる強靭なファンタジイで、既訳作品すべてを貫くハーディングの意志です。

どなたかの感想で見かけたのですが本作はエドワード・ケアリー(特に特異な一族の物語「アイアマンガー」三部作)と似た手触りがあります。あのケアリーの幻想とハーディングのストーリーテリングが組み合わさったらどんな小説になるのか。それが本作を読めばわかります。


前作『カッコーの歌』がよすぎてぼくがハーディング作品に求める水準を引き上げてしまったのでちょっと心配していたのですが杞憂に終わりました。フランシス・ハーディングは全人類に読んでほしいですね。


『女帝 小池百合子』の感想。

素直に力作と感じました。

ホラー小説的なおもしろさですけど。小池さんご本人の半生ももちろんホラーなのですが、とくに政治家として転身をくりかえす後半部は取材をしなくても世に出ている情報でかなり描き出せる内容にもかかわらず、(一部雑誌メディアをのぞいて)報道されることなく今に至っているメディアの現実も含めて。

 

ぼくは先日ブログにも書きましたが「今の状況はほぼメディアが用意した」と思っています。

といってもメディアや政治を構成する個人の問題ではないです。

視聴率や部数や投票数や支持率といった複雑なものを〇✕で抽出する手法に原因があります。

そんな粗く感情的な数字を獲得するのに特化した結果、本来のメディアや政治の「物語」が衰退して、さらに数字獲得に特化しまた「物語」が薄まり……という悪い連鎖の果てが今をつくっています。

小池さんはあらゆる局面で「数字になる/ならない」に忠実に判断しているだけなので、おそらくご本人のなかで嘘や裏切りへの葛藤もないと思います。そういう意味でこの数字特化の典型なのだと思います。

 

描かれた内容の精査は今後なされていくでしょうが、大枠はゆるがないだろうと思います(小池さんもよっぽどの切り札がなければ否定は数字にならないので無視かうけながすかでしょうし)。この悪い連鎖のなかその中心的人物に向けてこれだけ直接的な著作をものした筆者の姿勢に敬服します。

 

あとは「報道の使命」だとか「社会の木鐸」といった「物語」を喪失したメディアがこの著書の記述を「数字になる」と思えば動き出すのですがどうなるか。

 


感情的な数字

政治家を選ぶ「選挙」というのは得票数が大事で、その後は支持率が大事になります。
テレビだと視聴率です。

この当たり前のように受け入れてる数字が問題なのではないかというお話です。

今挙げた数字たちはどれも本質ではなく、なんとなくの指標であるところが共通しています。

ぼくはテレビ(を中心とするメディア)が「報道」や「メディア」といった「物語/建前/モラル」を失ったことが現状の日本を用意したと考えているので先にご説明しますと、視聴率というのは「テレビを持っているひとのうち何人がその番組を見たか」というものです。
ご存知のように「よい番組をつくると視聴率が上がる」ものではありません。それが先ほど申し上げた「本質ではない」ということです。
にもかかわらず数字を追い求め続けるうちに番組の前提であった「物語/建前/モラル」が失われ、視聴率だけが指標となった結果が今であろうと思います。
具体的には、ニュースから「報道」の精神が抜け落ち、視聴率を求め続けて洗練されていった最新の番組フォーマットがワイドショーになる、のだと思います。

政治も同様で、「政治」という「物語/建前/モラル」を無駄なものとして排除し、得票数と支持率だけを考慮するのが今の政治家的なありかたです。
「このひとに政治をまかせたい」「このひとが一番マシだな」という投票者の集積が得票数ですから、もっとも効率的な動きは選挙の瞬間に「まかせたい」「マシ」と思わせることであって、つきつめると政治が不要になります。

小池百合子さんはおそらく選挙の公約をひとつも果たしていませんが、次の都知事選も「まかせたい」「マシ」と思わせて開票と同時に当選するでしょう。安倍晋三さんとならんでとても現代的な政治家だと思います。
つまり得票数も支持率も視聴率と同様に本質ではないということです。
分母である投票率を下げ、投票者を敵と味方に分断し、必要な数字を確保する現代的でスマートなやりかたにくらべて、政治を語り支持を集めていく旧世代のやりかたはとても非効率です。


この視聴率、得票数、支持率といった数字たちの共通点が「感情的」です。

かつて小池都知事が築地市場の移転に際して、安全は確認されたが安心が得られていないという意味のことをおっしゃって移転時期を延期していました。これがここで申し上げる「感情的」です。
おそらくかつては政治にも報道にも「物語/建前/モラル」で彩られたいわば綺麗事があったはずなのですが、指標とする数字と重なっていない、どころか今となっては数字を獲得するうえでむしろ障害となるため失われていったのだと思います。

そうして残されたのが、ひとの変化しやすい感情を煽り瞬間的に自分に集める「いかに効率よく数字を稼ぐかゲーム」です。



というようなことを「感情的な数字」というワードでつらつらと考えています。
ほんとはもう少し丁寧にちゃんと書くほうがよいのですけど、めんどうなのでまたそのうち。

劉慈欣『超新星紀元』("Supernova Era")を読みました。

Cixin Liu
Tor Books
¥ 2,981
(2019-10-22)

今回デビュー長篇『超新星紀元』が "Supernova Era" として英訳出版されたことで、おそらく劉慈欣さんの長篇英訳がほぼ出揃ったと思うので、この機会になんとなく思ったことを書いておきます(ぼくは中国SFにくわしいわけでもないので推測まじりの備忘録程度です。まちがいがありましたらご指摘ください)。
すぐ忘れるからね。

今回訳出された『超新星紀元』は、

超新星爆発の影響で「13歳以上の人類は1年以内に死ぬことが確定している」という極限状況下で、死にゆく親はこどもたちに何を伝え何ができるのか、こどもたちはおとなたちから引き継いだ世界で何をなし、おとなのいない時代にどのような世界をめざすのか……

というちょっと着想の時点でこれはもう勝利確定みたいな話なのですが、それは最初の3割ぐらいで終わって、例によってちょっとジャンプする方向がズレて南極大陸に到達するびっくり展開になります。ちなみに今回「びっくり展開」パートが全体の5割ぐらいでしたでしょうか(これが次作『球状閃電』では3割ぐらいに減ります)。あとがきを読んだらそのびっくり南極大陸パートこそが本作の着想の原点だったことが判明しましたので、おそらく劉さんの「これがやりたい」という意志によって物語が強引にシフトチェンジする感覚が「びっくり展開」なのだと思いました。「びっくり展開」と書いてますけどぼくのなかでは『三体』の「古箏作戦」みたいなのも含むので、あくまで里見の思う劉慈欣SFの特徴ということで必ずしもネガティブなだけではありません。そしてあとの作品になるほど驚きは変わらず無理筋感は減っていきます。今回については(よくいえば)小松左京を読んでたはずなのにいつのまにかかんべむさしか筒井康隆になってたような印象です。別々の作品だったらよかったのですけど。
本作のあとがきの記述によると発表こそ2003年ですが1989-1991年あたりですでに書き上げていたようです(ご本人の認識としては「30年前の作品」となっています)。そのためちょっと科学技術面や国際情勢まわりが古く感じるところもありますが、今までで一番小松左京ライクな作品になっています。上記のあらすじだけでも『復活の日』や『日本沈没』を、そして何より「お召し」をイメージしますよね。
あと米中関係がメインのため本筋にはほとんどからまないですが日本人のあつかいがひどくて大変よかったです。

さてこれで長篇がそろったと書きましたが発表された時系列でならべると以下になります。

2003年 『超新星紀元』("Supernova Era")
2004年 『球状閃電』("Ball Lightning")
2007年 『三体』("The Three-Body Problem")
2008年 『黒暗森林』("The Dark Forest")
2010年 『死神永生』("Death's End")

ほかに Wikipedia で未訳長篇とされてる『中国2185』『魔鬼積木』というのがあるのですけど、前者は(『超新星紀元』の原型を執筆したのとほぼ同時期の)1989年作品で当時は未発表。後者はジュブナイルなので長篇ではなくたぶん長めの短篇か中篇ぐらいの長さなのではないかと思います(中国で本作と合本になっている『白亜紀往事』は "Of Ants and Dinosaurs" というタイトルで訳出されてますがそれぐらいの長さで、短篇集 "The Wandering Earth" に収録されています)。
で、残念なことに『死神永生』以降、劉慈欣さんの長篇作品はないので、長篇デビュー作品である『超新星紀元』を読んで、ぼくとしてはようやく追いついた感じです(まだまだ未訳短篇が残ってるのでしばらくは楽しめますが)。

で、長篇を発表順にならべてみると(おこがましい書き方ですが)成長著しいというかずっと成長し続けているという印象です。長篇作品が少ないとはいえ、常に次作が前作を上回る傑作になっています。翻訳の順序が

『三体』→『黒暗森林』→『死神永生』→『球状閃電』→『超新星紀元』

だったため、『超新星紀元』『球状閃電』に「三体」三部作の「萌芽」を見出しやすくなったので、それはそれでよかったのかなとも感じますが、(結果としてここ2作品が『死神永生』の先として期待してたレベルではなかったのもあり)『死神永生』で最長不倒距離の大ジャンプを見せてくれたまま新作が途絶えてしまったことで、はたしてぼくたちは劉慈欣さんのピークを見届けたのか、はたまたいつかもっと遠くへ連れて行ってくれるのかと新作を待ちわびてしまいます。

大長篇が出ないかなあ。


関連記事
劉慈欣『三体』(Cixin Liu"The Three-Body Problem")を読みました
劉慈欣 "Death's End" を読みました。


追記
『球状閃電』と『三体X・観想之宙』(著者:宝樹)の感想を書いてなかったことに気づきました。
『球状閃電』は球電現象の正体をつきとめる中盤ぐらいまでとても快調でした(『超新星紀元』の快調さはおとなたちがフェイドアウトする1/3ぐらいまでだとして)。後半はあまり乗り切れなかったですが『三体』と重なり合う部分もあるしエピローグはいい雰囲気なので読んで損はないです。
『三体X・観想之宙』は宝樹さんという「三体」シリーズの大ファンが書いた「外伝」(というかファンフィクションです)。こちらは読んだときの感想が残ってたのでいまさらですけどせっかくなのでアップロードしときます。

宝樹『三体X・観想之宙』 "The Redemption of Time" を読みました

宝樹『三体X・観想之宙』 "The Redemption of Time" を読みました

日本で『三体』ブームが吹き荒れる中、アメリカでは『三体X・観想之宙』(宝樹)が "The Redemption of Time" として英訳されたので読みました。
翻訳は今回もまかせて安心ケン・リュウです。

これはいわゆる「ファン・フィクション」です。
熱烈な劉慈欣ファンによる二次創作が公式に(?)認められて『三体』と同じ出版社から発行されてしまったというものです。

「三体」シリーズ3作目にして最終巻『死神永生』を読んだ2日後に第1部を書き上げ、3週間後には全編ネットにアップロードしていたというのですからとてつもない情熱です(英訳版にあたって作者の宝樹さんが、序文を寄せているのですが、中国で『三体』がどれほどの熱気に包まれていたか伝わってくるとてもよいものでした。宝樹さんは発売当時ベルギーにいて購入できず、あまりの読みたさに友人に全ページ写真に撮ってメールで送ってもらったそうです)。

さて肝心の内容なのですが、ぼくがあまり事前情報をいれてなかったので驚いたのですが、意外なことに長編ではなく3作の中・短編プラスアルファという構成でした。
共通点はどれも『死神永生』にまつわるエピソードなのですね。
以前ぼくが「最先端に躍り出たワイドスクリーン・バロック」と評したように『死神永生』は驚天動地の物量大作戦な内容で、当たり前なのですが結果として書かれなかった謎や設定が大量に存在しています。
それを補完するのが本作『三体X』の第1部、第2部(小説の形式ではありますが、どちらもほぼ対話だけで構成されてます)と、「実際のところ全宇宙を巻き込むレベルの戦いってどんなのよ」をほんとに書いた第3部、そしておまけに「『死神永生』のあとってこんな感じなのかな」の「コーダ」と、さらにおまけでその先を断片的に描いた「ポスト・コーダ」にわかれていていちおうつながってるのですけど、長編という感じではないです。

読みながら「なるほどー。こういう設定だったのね」「あ、実はそんな理由だったんだ」と読みながら、あまりに緻密に練られた『死神永生』の構造に目からウロコが落ちまくるのですが、最初に述べた通りこれは「ファン・フィクション」なので、信じられない説得力にもかかわらず



すべて後付けです!



マジかよ。納得しちゃったじゃん。
ぼくが『死神永生』を読んだのは発売直後だったので

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「光速」や「次元」といった「普遍の物理法則」や、「歌者(Singer)」や「二重のメタファー」そして何より「主人公の(あまり納得のいかない)判断力」をはじめ書きたいことはたくさんあるのですが
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

と、当時あまり踏み込めずに羅列にとどめていた疑問点にはすべて解答が書いてありました。
それどころかなぜ「智子」があのようなことになったのかまでしっかりと説明されています(しかもこれがまさにバックグラウンドまで「オレたち万歳」なものなので日本人は必見なんじゃないですかね。劉慈欣さんはこれOKしちゃダメだろとは思いますが)。
これがすべて後付けだなんて。

『死神永生』のアンサーみたいな小説なので単独では成立し得ないのですけれど、ここまで高度に組み立てられてしまうと感動すら覚えます。かといってまじめすぎず、ファンならではの遊び心もふんだんに入ってます(それがどれもあきらかに劉慈欣さんよりも若い世代なのが伝わってくるもので、作中に出てくる日本のイメージもだいぶ異なって、ああ作者若いんだなと思いました)。

まあ、とはいえファンゆえにあのラストが書きたかったのもわかるけど「ポスト・コーダ」は蛇足だったかな。

痴性化戦争

憲法改正が話題になっています。

ぼくは以前から申し上げているように反対の立場です。
なぜかと申しますと日本の社会が「知能が低いほうが合理的な社会」だからです。
憲法改正といっても実際には第9条が目玉かと思うのですが、ここの変更で大きな影響があるのは政治家と官僚です。ところが両者とも典型的な「知能が低いほうが合理的」な職業で、それはどういうことかというと具体的には嘘をつこうが証拠を隠滅しようが「そのような意図はなかった」と答えるのが「正しい」職業ということです。
どちらもかつては「公正にふるまう」ことを目指していたのが、それは非常に困難なので「不正に気づいていないようにふるまう」ことで代替してきた結果なのだと思います。
気づくことができず「たまたまそうなったこと」は免責されるので(公正であるよりも安易な道だったため)この流れは強化されていくことになります。
今となっては証拠書類をシュレッダーにかけても「隠滅の意図はなかった」、ひとを殴っても「傷つける意図はなかった」と平然と答えるのが「正しい」ところまで到達しました。

知能を低下させることで一見不可分としか思えない行為と意図をどこまでも分離できてしまうのです。
そうやってどれだけの書類が破棄され、どれだけの嘘を積み重ねられたかわかりませんが、それらすべてになんら「意図はない」と答えるようになりました。

現在我が国の首相は原稿がなければ会話もできないですし、質問にまともに答えることもできません。
それが処世術としての佯狂なのかほんとにおかしいのかわかりませんが、そのようにふるまうことが「正しい」とされているのはまちがいないかと思います。

話題が憲法についてなので政治家と官僚を挙げましたが、原発から最近の7payにいたるまで、危機に対しての最善の対応策は「危機管理をする」ではなく「危機を認識していない」と宣言することです。
つまり危機を認識していると思われる行動は宣言と矛盾する悪手ですから「危機管理をしない」が「正しい」行動として導かれます。
そのような社会において憲法改正をおこなうのはおよそ正気の沙汰ではないと思うのです。

書いておいたほうがよいのかなと思うのでいちおう書いておきます

幻冬舎さんが文庫化の決まっていた津原泰水さんの作品の出版を土壇場でキャンセルされていたことが発覚しました。理由は昨年幻冬舎さんが発売した百田尚樹さんの『日本国紀』を批判したからだそうです。

昨今のスタンダードなやり口ですと「批判にはあたらない」「総合的な判断」とバカのふりに終始して追加情報ゼロのまま鎮火するのがセオリーなのですが、幻冬舎さんと社長の見城徹さんはある意味正直に実売部数を挙げて津原さんを攻撃しはじめてしまいました。
これはどちらか二択だとすると後者のほうが理由を説明しているだけまだ誠意があるのですが、キャンセルしたあとに作家を貶める行為なので、道義的に許されるものではありません。少なくとも第三者の目に触れる場でいきなり公開する内容ではないです。

解決したはずなのになんで今さら、と見城さんサイドがこぼされてましたが、幻冬舎さんが絶縁した津原さんに対しておこなった行為からすると、津原さんが早川書房さんでの出版を確定してから公表したそのタイミングの正しさが結果的に証明されてしまいました。

これは出版業界の特殊性などが原因であるかのように語られたりしますし、その要素もあるかと思うのですが、企業とフリーランスで取り交わされる一般的なビジネスでもあまり変わらないです。 二者間でもう少し話し合えれば世に出ないままだったのではないかと思います。

それにしても幻冬舎さんというか見城さんのツイッターやめる宣言での幕引きは、問題点への対処ではなく問題点を表面化させないための対処なので、ふつうに考えるとよくないなあと思うけど、それが「正しい対処」になるぐらい病は深いともいえますよね。

おそらく幻冬舎さんは問題点が認識できていないので、考えられる次の手はNDA(守秘義務契約)の強化なのではないかと思います。今回の津原さんの行為が契約違反になるようにして、二度と表面化しないようにされるはずです。

これは幻冬舎さんが特別な判断をされる会社なのではなく、勤勉な現場スタッフと決断力のある経営者を抱える世の中の企業が同じ状況に陥ったら同じことをするのは想像に難くないです。

発行部数が多かった時代では、編集者さんは作家さんの側に立つものと当たり前のように考えられていて、マネージメント全般を編集者さんにゆだねててもあまり問題にならなかったのですが(ほかに手段もありませんでしたし)、今はそうではなくて「どのように自分の身を守るか」を編集者さんが第一優先に動く想定で、作家さんも同様に自分の身を守る手段を持っていなければならないのかもしれません。

もちろん過去水面下で何が起きてたかは知る由もないですけど(というかほかに選択肢がない以上もっとひどいこともたくさんあったはずです)。

出版業界は大きな変動期です。紙から電子への移行は、出版社や編集者のありかた、流通、小売、再販制度にいたるすべての変化を求めています。
今回の件もこの大きな変化の流れのなかに生じた齟齬のひとつとなっていきます。

ぼくは本が好きなのでよい方向に流れていってほしいと思います。

沼の王の娘

カレン・ディオンヌ『沼の王の娘』を読みました。


最近とみに集中力が落ちてきてなかなかフィクションが読めなくなってきてるのですが、『魔眼の匣の殺人』だったか『カッコーの歌』だったかあたり以来、ようやく娯楽文芸にたどり着きましたよ(ちなみに今のところ今年のぼくのベストは『カッコーの歌』です)。

 

『拳銃使いの娘』に続く本年2冊目の「犯罪者の娘」ものです。『拳銃使いの娘』(これはすばらしい出来です)とだいぶ趣きは異なりますが、こちらもとてもおもしろかったです。
前者は脱獄した父と逃避行に出る娘ですが、本作は脱獄した父を狩る娘(もちろん父のハンティング技術は英才教育ですべて習得済み)です。

 

ほらこの設定だけでもうまちがいないでしょ。

 

あえて不満をあげると、現在と過去が交互に語られるのですが、過去の比重が高く感じたのでもうちょっと後半の父娘の駆け引きが長くてもよかったかも。
それにしても最近現在と過去のザッピングで進める形式をよく見かけるのですけど、どうなんですかね。なんらかのしかけがほどこされてる場合は別ですが、著者の作意というか情報コントロールの都合が透けてる感じがしてあまり好きではないのですけど。はやってますよね。

 

なので、本作だと現在パートのターニングポイントまでを第1部、過去パートを第2部、現在パート残りを第3部だと完全にぼくの好みになります。

 

とはいえこれだけヘビーな内容にもかかわらずあっという間に読んでしまいましたので、おすすめです。

 

なんとか仕事に活かせそうな(?)読書ができましたが、広い心で解釈してもやはり10冊に1冊ぐらいなのかも。とほほ。

 


| 1/169PAGES | >>
バーナムスタジオ

categories

archives

links

profile

others

search this site.