検閲とミステリ

以前 tumblr に書いたものです。


“日本が戦時体制を強化していく1937年(昭和12年)頃より、戦時においては不適切なものの一つとして、探偵小説は内務省図書検閲室によって厳しく表現が規制されるようになった。一説では、内務省のブラックリストに載っていたという乱歩は、その文章表現が厳しい検閲にさらされることになった。1938年(昭和13年)9月より刊行開始の新潮社「江戸川乱歩選集」においては、特に1939年(昭和14年)以降より検閲が激化し、無茶な削除訂正が頻発するに至った。また、この1939年(昭和14年)に「芋虫」が発禁になっている。結局1941年(昭和16年)に入ってからは原稿依頼も途絶え、旧著もほぼ絶版という状態に立ち至ったのである。
太平洋戦争に突入すると、もはや探偵小説は少年ものですら執筆不可能となり、乱歩は小松竜之介の変名で子供向きの科学読み物「知恵の一太郎」等を書くに至った。”
江戸川乱歩 - Wikipedia


ミステリ史における国家の「検閲」だとこの「乱歩全滅」が最大の損失だったと思います。

人気作家だった江戸川乱歩は検閲によって執筆活動の継続が困難になり息を潜めて戦後を待つことになるのですが、乱歩本人の言葉を引用すると

『昭和十六年には、僅かにお目こぼしに預かっていた私の文庫本や少年ものの本が、全部絶版にされ、印税収入皆無になっていた。政府の情報局の意向に脅えて、本屋が私のものを全く出さなくなったのである。[中略]私はいくらかでも収入を得ようとして、とうとう妥協したのである。「筆名を変えて、健全な教育的な読み物を書いて見ませんか」という「少年倶楽部」の勧めに応じたのである。』

てな感じでこども向けの『新宝島』(あんまりおもしろくない)のあとに小松竜之介名義で『智恵の一太郎』(乱歩らしくないけどまあまあおもしろい)を書くことになるのですけど、検閲問題は当然、乱歩だけではなくて。

常々理想のミステリガイドは「10年ごとのベストの選出」と申し上げて10年単位でジャンルの盛衰を見守るぼくですら、こと戦争に向かい敗戦にいたる昭和11〜20年では、久生十蘭『魔都』、蒼井雄『船富家の惨劇』、海野十三『深夜の市長』、木々高太郎『人生の阿呆』、角田喜久雄『髑髏銭』ぐらいしか候補作を満足に提示できません。しかも発表時期は10年代前半に偏ります。検閲がはじまるんだからあたりまえですけど。
さかのぼれば日本初の長編ミステリである小酒井不木『疑問の黒枠』(あんまりおもしろくない)が書かれた昭和2年からほんの10年足らずで、江戸川乱歩『孤島の鬼』、浜尾四郎『殺人鬼』、夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』などを生み出してしまった日本ミステリはその豊饒なまでの異形の進化の途上、エロ・グロ・猟奇に対する良識ある検閲に(時節にそぐわないという理由で)一度殺されたのだと思います。

というわけで、ほんと戦争も検閲もよくないですね。


似たような過去の記事。

四ッ谷とインディアナポリス

娯楽レギュレーション

空気検閲の時代


 

聖闘士伝奇

最近ずっと『聖闘士星矢』の Blu-ray BOX を観てるのですけど、やはり黄金聖闘士はカッコイイですね。これは今まで登場してた聖闘士の聖衣以上に黄金聖衣の聖闘士全身を覆う面積が広いことと、聖衣の色がシリーズ通して「黒/影色/ノーマル色/差し色」と最低でも4色つかった塗り分けで色差を強調して描かれていて、なかでも黄金聖闘士は「黒/黄系4色/差し色」と狭い範囲で階調のメリハリをつけることによって、黄金の輝きがひときわ眩しく感じるしかけがなされています。

全身を覆うフォルムは直線/曲線が入り交じる高度なデザインで、どちらかというとロボットアニメの領域です。

また当時のアニメはセル画でつくられていますので、彩色はセル画に裏から絵の具で塗っていきます。つまり色が増えると絵の具を塗る時間/手間はもとより絵の具を乾かす時間も加わります。この手間と時間を費やす彩色を、聖衣のように登場頻度が非常に高いアイテムであえて選択しているのは、その結果として課せられる作業量よりも完成時の見栄えを優先したということで、これはとても大きな決断です。そしてその決断が黄金聖闘士編の映像ですばらしい成果を上げています。

これは労苦の多い方を選び取ったスタッフはもちろん、お金と時間を費やすわけですから制作スタジオの東映動画(現・東映アニメーション)さんも含めて、永年積み上げてきた叡智に基づく大英断と申し上げていいと思います。


さて話題変わって。

処女宮(ヴァルゴ)を守護する黄金聖闘士はシャカさんといいましてギリシャ神話の女神アテナ様を護る存在なのに仏陀様の生まれ変わりという設定があったりするのですけど、仏教的なネーミングの必殺技をいくつも持っていてやたらめったら強くてもっとも神に近い男と呼ばれててもはや反仏教の領域に突入しています。たしかに仏陀様を戦闘拡大解釈したらここまでいくよなあ、まさに仏契(ぶっちぎり)!

とかくだらないことを考えてるうちにふと思いついたのですが、

世の中には「偉人さん大集合」というジャンルがありまして(うそ。今ぼくが考えました)、小説だとフィリップ・ホセ・ファーマーさんの「リバーワールド」シリーズや山田風太郎さんの『魔界転生』、マンガだと平野耕太さん『ドリフターズ』、アニメだとOVAの『R.O.D』あたりが代表作でしょうか。
時空を超えて実在の偉人が集結して戦ったり冒険したりするジャンルフィクションです。

そんな綺羅星のごとき作品群のなかに、乱歩賞受賞の『写楽殺人事件』や大河ドラマ『炎立つ』で知られる高橋克彦さんの『総門谷』というオカルト伝奇バトル小説があります。これがキリストさんやらプラトンさんやら串刺し公ブラドさんやらが復活して謎の総門様の部下として大暴れしたりあっさり退場したりするまごうかたなき典型的な「偉人さん大集合」! しかもそのなかでも花形の「スーパー偉人大戦」ものです。ちなみに本作はオトナになればなるほど楽しさが減っていくタイプなので「中学生のうちに読んでおきたい本ランキング」でも毎回上位にランクインしています(まあこれもぼくの脳内ランキングなんですけどね)。
ぜひ畑正憲さんの『青い闇の記録』や西村寿光さんの『化石の荒野』とかとまとめて角川つばさ文庫に収録されてほしいものです。

『聖闘士星矢』と『総門谷』

これらがうまく組み合わさるとなんかおもしろい企画になるような気がするんですよ。



「いいやつのはずなのに敵対する最強の黄金聖闘士たち」

カチャッ

「悪の偉人バトルもの『総門谷』」

カチャッ

「リバーワールドを伝奇的に咀嚼して」

カチャッ


これでなんとかいけそうだ。



いってきまあす(ドラネコとポロンちゃんを見たときのF先生のまなざしで)。



おわり。

継ぎ足し続ける「場」の知性

知性は個人に備わったものだと考えられがちですが、実際は「置かれた環境」や「所属する集団」に大きく依存していてしかもその環境/集団で平均化される、という話です。

簡単にいうと頭のいい/悪い集団に所属してるとつられて頭がよく/悪くなる……まあ「朱に交われば赤くなる」というやつです。

ここに「影響力」という考えかたを加えます。
その環境/集団の知性に働きかけるチカラです。たとえば会社という組織の体質を改善したければ、社員を大量リストラするより、組織への影響力が強いトップ数人をすげ替えたほうが効率的に変貌を遂げるわけです。

ひとはもともと変化を嫌う生き物ですけど、この「平均化」と「影響力」が「環境/集団=場」の知性を硬直化させ一定のレベルで推移させる原動力となっています。

これが、構成する人員が入れ替わっても継続する「校風」とか「企業文化」なのかなと思います。老舗の「創業以来継ぎ足し続けたタレ」みたいですね。

知的に真夜中の野次さん

国や地方の議会で野次を飛ばすのは常に行われてきた行為なのだと思うのですけど、最近いろいろ野次の内容を掘り起こすブームが到来して、どのような意図で発言されてるかというのが判明しつつあります。

ざっくりまとめると、

少子化問題への思いが野次につながり、結婚できないひとや産めないひとへの配慮が足りなかったので謝罪する。これからもライフワークである少子化問題にさらに一層の努力を続けていきたい。

というような定型の解答が誕生しているみたいです。

大変遺憾ながらここで足りていないのは「配慮」ではなく「知性」なのですけど、それを本人が理解するには「知性」が必要なので決して分かり合えないという残念な構造です。しかもその「知性」の足りていないひとが今後も「問題解決に努力する」という最悪の結論で結ばれるところがポイントかと思います。問題解決能力のないひとの場合、解決しようと邁進するよりも、ふだんは議会で寝ていて退屈したら野次を飛ばすほうが実はマイナスを発生させないことによって貢献できますので、結果的に今まで以上に道程が険しくなったことは残念でなりません。

ただなぜ今までうまくいかなかったのかは「このようなひとたちが取り組んでいたから」だとわかったのは、今回唯一の収穫かもしれませんね。

「知性」というのは個人の問題のように思われがちですが、「場」の知性ともいうべきものがありまして、その空間(今回だと議会)の知性レベルというものがあります。それは野次を許容し笑いあう空間です。「知性が足りていないことを知性が足りないために自己認識できない」のは個人の知性と同様なので、内部で水準を引き上げるのは困難だと思います。

で、解決策としては「場」の知性を外側から引き上げるしかなくて、ここで「選挙できちんとひとを選ぼう」的なまとめでもよいのですけど、どんなに優秀なひとを選んでも、議会という「場」の知性が低い以上、合わせて能力を低下させざるを得ないのであまり意味がないです。
ほんとに解決したいのであれば「(法律で)強制的に議会の男女比と年齢構成を均等にする」のがよいかと思います。
それだけでだいぶまともになるのではないかと。

アポカリプスナウ!

網野善彦さんに『異形の王権』という日本史学に燦然と輝く記念碑的な著作がございまして、遙か昔学生時代に読んだきりのぼくがうろ覚えでどんな内容かを申し上げますと、「建武の新政」の後醍醐天皇の前後で日本人の聖/卑の価値観の大きな転換点となっていたことを解き明かすものでタイトルの「異形の王権」というのは後醍醐帝の政権を指しています。

そのなかで今でも特に印象に残っているのがこどもの在りかたです。後醍醐帝以前の鎌倉時代ぐらいまで、こどもは神に近い存在として社会の外に置かれていたそうです(これは宮本常一さんなんかも書いてましたよね)。権力に対する悪口はこどもの口から語られるとかなんとか。そして「京童」のように童形のままいることで「こども(のふるまい)」であり続ける存在なんかもあったようです。

ここらへんが社会的に「天使」と呼ばれて祝福されていたこどもが次第に圧迫されて少子化が進んだり、女性が女子力とかアンチエイジングとか少女であり続けたり、あとおとなになっても匿名を護持することで「こども」のふるまいを可能にしてたりする現代に通じるんじゃないかなあと。

まあうろ覚えなんで『異形の王権』の内容自体間違ってるかもなんですけど、それとは関係なく日本人の価値観が大きく変動してるんじゃないかというのは最近よく感じていまして、後世、今が南北朝以来の「日本人の価値の転換点」だったと語られるようになるのではないかと思うのですよね。

労働生産性の敵

どうも「日本は労働生産性が低い」とよくいわれます。これはどうしたら改善するのかなあと考えてみたので書いておきます。

まず前提として、人間の能力差というのは集団単位で較べたらたいして大きくないので、どこの国もそんなに変わらないはずで、ということは問題は日本の会社組織にあると考えるのが正しいのではないかということです。
具体的に述べると、世の中の認識とは反対に、労働生産性の低さは(労働者ではなく)経営側の能力の低さとイコールなのではないかと思います。なぜなら人間の能力差はたかがしれているからです。同じような戦力で効率の良し悪しが出るならそれは経営能力の差としか申し上げようがありません。

で、ぼくがここが主たる原因かなあと思うのが会社組織の「決済システム」です。

作業と判断という本来不可分なはずの業務が、組織の拡大とともに縦型ピラミッド構造化が進んで分業化が進み、今の会社の「決済ライン」ができあがったところに不幸があるのではないかと思います。

といってもわかりづらいので仕事ではなく日常生活でたとえると、たとえば「お昼ご飯なに食べようかなあ」というとき会社組織風に、候補の飲食店それぞれから見積もりを取って、栄養価や過去実績の長所短所をまとめて上司に報告し、内諾をとったうえでパワポで資料を作成して会議で承認をもらって決めるという決済ラインを経由すると、なんか効率が悪そうに感じます。

この決済にかかわる「人数」の多さと費やされる「時間」の長さこそが、労働生産性の低下の正体です。つまり逆に、可能な限り少ない人数で、可能な限り短い時間で物事をなしとげるのが労働生産性の向上につながるのではないかと思います。

里見は常日頃申し上げているように反ホウレンソウ派で「報告・連絡・相談」の有用性を信じていないのですが(ex.水掛けほうれん草)、これも原因だったのかもしれません。



どうしても経営側はより多くの情報を求めがちで、決裁権を集約することで組織をコントロールしようとしがちですが、それは労働生産性とのバーターだという自覚は持っておくぐらいでちょうどよいと思いますし、「お昼ご飯」ぐらい自分の判断ですぐ食べられるような組織をつくるのがよいですよね。


※似たような過去のエントリー
上を下への自利利他

半袖シャツの悲哀

伊勢丹でも三越でも高島屋でもいいのですけど、デパートに入っている高級な海外ファッションブランドのテナントを眺めてみると、ほとんど「半袖シャツ」が置かれていないことに気づきます。
これはシャツが基本的にフォーマルなものなのでまくることはあってもカジュアルな半袖にはならない、という欧米の服飾やマナーの考えかたに起因してます。
翻って日本に限らずアジア圏では充分普及しているので今さら奇異に思うひとはほとんどいないでしょうけど。
といったわけで高級な海外ブランドではフォーマル/カジュアルの「矛盾」した混合である半袖シャツは最初からラインナップされていないのです(半袖はTシャツかポロシャツですかね)。もちろん絶対ではないですが原則として。

でですね、この前ソレ系のデパートのソレ系のブランドショップで「お。めずらしく半袖シャツあるじゃん」と手にとってためつすがめつして最後に値札を見たら SurfacePro3 が買える値段だったのでそっと戻してネットで SurfacePro3 を予約しました。

早く届くといいな。


私たちは、たぶん、知識と経験が切りはなされるマニアの、最初の世代だ

かつて「知識」を得るには「経験」するしかなかったのでこのふたつを分かつことは不可能だったのですが、最近はネットのおかげでおおよその「知識」は手に入るようになりました。

そこで問題が起こります。「経験」とはすなわち「時間×密度」ですので、せいぜいガイドブックぐらいしか存在しなかったころは「先輩」のほうが常に「知識」を多く持っていて尊敬を集められたものですが、このシンプルな上下関係は Google さまの到来とともに崩れさりました。

最終的に「先輩」のよりどころは「知識」から「経験」にシフトせざるを得なくなります。これが「リアルタイム崇拝」です。知識量に差がなくなったら今度はリアルタイムで「あの瞬間/あの時代/あの場所」を「経験」してるほうがエラいわけです。

それはいいんですけどネットに無料で転がっているがゆえに「知識」の価値がつられて下落したことに今の「先輩」の不幸がある気がします。




『聖闘士星矢』について〜テレビ番組としてのアニメ〜

アニメの需要のしかたも映画やネット、ビデオグラムと多様ですが、常に最も重要であり続けたのは「テレビ番組」としてのアニメなのではないかと思います。
毎週1回30分放送という強固なフォーマットは大きな制約でありつつも、アニメの娯楽強度を高めるたしかな手法として確立しています。これはマンガが連載形式でならではのおもしろさを獲得したのと似ています。

アニメビジネスはその黎明より映画による興行と、テレビによるスポンサードの両輪でまわっていました。

テレビ番組としてのアニメの背後にどのような制作費捻出の仕組みがあるかというと大きくふたつありまして、「視聴率」によってまかなわれる場合と、「商品の売り上げ」でまかなわれる場合です。
前者はたくさんのひとが見てくれればそれだけ商品の認知度があがる/企業イメージがよくなると考えるスポンサーのかたがいらっしゃると成立します。
後者はおもちゃやゲームなどアニメによって購入意欲をかきたてることで販売につなげられると考えるスポンサーのかたがいると成立します。
具体的に申し上げますと『サザエさん』は前者で『プリキュア』は後者です。
最近の映像そのものを売るビデオグラム主体のビジネスも広くは後者に属します。かつてはおもちゃメーカー単独だったものが、アニメをマルチユース化して映像パッケージも売ります、書籍も売ります、音楽も、ゲームも、パチンコも、ソーシャルゲームも……と損益を共有する各社がその規模に応じた比率で制作費を出し合ってつくるのがいわゆる製作委員会方式と呼ばれるものです(ここが肥大化して今のアニメビジネスがあります)。

そしてアニメに限らず映像には「常にひとに見られたがる」本能がそなわっています。これは映像をもっと情報のレベルまで還元していくと「情報は常に自由になりたがっている」ということになるのですが、この「見られたがる」のが映像の本質です。

そしてその本能に最も親和性の高いメディアこそが、ほとんどの世帯に普及し無料で視聴できるテレビなのです。

老舗のアニメスタジオには各社それぞれサンライズの『機動戦士ガンダム』や東映アニメーションの『ドラゴンボール』やガイナックスの『新世紀エヴァンゲリオン』などなど、その本能がテレビと結びつくことで奇跡的な開花を遂げた作品が必ずあるものなのですが、その中でも里見が「最強のテレビアニメ」だと思っているのが『聖闘士星矢』です。

これはもう素晴らしいひとことです。

「テレビ番組である」とはどういうことかというと限られた期間、限られた予算、限られた表現の中で追及する最良の表現です。リミテッドな環境で考え抜かれた演出・作画・彩色・背景……どれをとってもアニメが見られることに耽溺しています。
しかもその後の萌芽を感じさせつつも「ふつうのアニメ」としてはじまったのが、エピソードを追うごとに熱を帯びてくるのがはっきり感じられるのです。
これは人気次第で放送期間が延びていくテレビ番組ならではです。
おそらく映像が完成するたびにスタッフが「監督たちヘッドチームが何を作ろうとしているのか」に気づき、「視聴者が何を見たいか」を取り入れて、放送期間のあいだあたかも制作者と視聴者の共同作業のように洗練され高められていったのではないかと想像します(東映アニメーションで双璧をなす『美少女戦士セーラームーン』もおそらく同様です)。

これだけ『聖闘士星矢』に特化したレイアウトやパースやタイミング……がシリーズを通してどうやって貫けたのか、とにかくすごいことが当たり前のようにおこなわれています。

これは機会があるたびに発言させていただく所存なのですが、日本のテレビアニメ史が産んだ最強のアニメーターはこの『聖闘士星矢』のキャラクターデザイナーをつとめた荒木伸吾さんだとぼくは思っています。

今回 Blu-ray BOX が発売されたことでその業績の結晶(しかも迷いながら深化/進化していくさまがシリーズ中に刻まれている)が輝きを失っていないことを確認できるのはまことに喜ばしく、願わくばその本能が満たされるほど多くのひとに見てもらい、永く愛されてほしいものと思います。

少子化伝奇

日本の少子高齢化は「人工抑制政策がうまく機能している」のだと思います。

親世代の労働環境を厳しくする
今も「育児休暇」どころか「残業代ゼロ」が議論されてますが、子育ては長い時間をかけておこなうものですから暗い未来を予想させ続けることの抑制効果は大きいです。
親世代の収入を低く抑える
子育てをお金のかかる状態にしておくのに加えて、独身でも夫婦でも、扶養家族を持てないレベルに賃金を抑えておけば経済的に抑制できます。
出産できる環境を用意しない
現状では妊娠8週目までに産婦人科を決められないと都内での出産はむずかしいそうです。実家が地方のかたには里帰り出産という選択肢がありますが、都内在住のひとの意欲を減退させる効果は高いと思われます。
乳児を受け入れる施設を用意しない
待機児童問題は相変わらずで、「母親が育てろ」と経済的に困難な解決策を為政者のかたがたが発言することで萎縮効果は倍増です。

まあほかにも「社会環境がこどもを排除している」とか「女性の問題に矮小化してる」とか政治や国民の考えかたなどいろいろありますが、本題ではないのでこれぐらいで。
ともあれひとには「未来」とか「希望」を予見する能力がそなわっていますのでそこらへんを暗澹としたものにしておくとそうなる、というお話です。
もちろん少子化よりも東京オリンピックとかのが重要な議題であると考えるひとが多いのは別にとりたてておかしなことではないのですが、「少子化政策を推進してるのにどうして少子化が止められないのか」というのは議題の立てかたがおかしいだろうことは明らかです。

そして青少年を健全に育成する都条例やダンスをはじめここ数年の性的(表現)の締めつけの流れを傍観していると、本来連動しているはずの性と出産が反対方向に切り離されているようにも感じられます。

さてここから本題。

最近ある脚本家さんから「聖書伝奇」という言葉を教えていただきました。この単語によって今の状況をうまく説明できる気がするのです。

つまり乖離矛盾しているように見える流れのすべてがひとつの意思で動いているとしたら、どのような結論になるのかといいますと。

かつて人類の歴史上でたったひとりだけ、性から切り離されて誕生したこどもがいました。きっとここが目標にちがいありません。

こどもの母は処女で懐胎して神の子を産み、その子は神の国を説き人類の原罪を背負い十字架にかけられました。

なので、今おこなわれているのは壮大な1億3000万人の人口を誇る日本を舞台とした「性の隔離」と「出産への圧力」による強制的な救世主の出現実験です。
人口9000万人と推定されているローマ帝国全盛期よりも人口が多いのはたぶん平均寿命が延びてるためで、実際の若年層の人口はほぼ同規模なんですね(知らないけど)。
そして2000年前は神の摂理のままに救世主が誕生したわけですが、今回は神になりかわった国家の確信的な誘導によって救世主の再出現をうながしているのです。

と、こう考えると性の隔離と出産がなんら矛盾なくつじつまが合います。

で、現在すでに救世主は馬小屋かガレージあたりでひっそり産まれてて、2030年の東京で12使徒を率いてテロを起こして、表向きはオリンピック名目でつくられた「新国立競技場」が実は政治家のための「方舟=宇宙船」として建設されてたことが判明し、使徒とともに奪い取って発進させるところから物語ははじまるんですね。ここから救世主対人類の戦いがはじまるかと思いきや実は本当の敵は神で、近い将来神による人類滅亡プロトコルが発動することを知った政治家たちが「神罰」に対抗するために人類の救世主「人の子」を強制生誕させる計画をおこなっていて、自分がつくられた存在だったことに悩む救世主でしたが、神の防衛機能によって顕現した「神の子」との出会いと戦いの中で人類の大半は滅び、木星は第二の太陽となり、そしてついに神の正体を知ります。その人類が崇め続けてきた神の意外な正体とは……。






おわり。






モンテルオーニの『聖なる血』を代表とする、クローンのような科学技術で救世主を「復活」させる物語はいくつもあるでしょうが、社会実験でよみがえらせようとしたフィクションはまだない気がします。このプロットは権利放棄しますので、みなさまどうぞ遠慮なくご自由にお使いください。タイトルは『神帝都物語』とかでどうでしょうかね。

ほんとにおしまい。

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バーナムスタジオ

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