「怒りっぽい」問題

よく怒りっぽいかたっていらっしゃいますよね。

 

あれはなんなのかと思っていたのですけど、ふと気づきました。

 

「怒りっぽい」は単独で存在しているのではなくて、すべての感情が豊か(悪くいえば制御不能)なのですね。で、それはおそらく人間の本来の姿なのだ思いました(酔っぱらいのかたがたも拝見してると怒ってたり笑ってたり泣いてたりするので理性のタガがゆるむとそんなものなのだと思います)。

 

「感情」は自分の気持ちをあらわにすることで他者に影響力を行使する原初的な「伝達」です。

そして「支配」でもあります。

 

乳児はだいたい泣いて気持ちを伝達していると同時に、自己の欲求をかなえさせるよう周囲を支配します。少し成長して幼児になると泣くか怒るか泣きながら怒ることで周囲を支配するようになります。

どこかでほとんどのひとは自分が世界の中心ではないことに気づいて世間と折り合いをつけて、あんまり泣いたり怒ったりしなくなるのですが、いわゆる「怒りっぽい」ひとはそのころと変わらず「自己の欲求をかなえさせるよう周囲を支配」するもっとも簡単なソリューションを採用し続けているのではないかと思います。

それ自体はいいも悪いもなくて、偉人と呼ばれるかたがたなんかむしろそっち系のひとのほうが多いのではないでしょうか。たとえばスティーブ・ジョブズさんやヨシユキ・トミノフスキーさんなんかも怒りっぽい伝説がたくさんありますし、単にそのひとの個性の範囲です。

 

とはいえ単なる個性であり、さらにいえば「怒り」だけでなく「喜び」も「悲しみ」も豊かなはずのになぜ感情の中で「怒り」だけがピックアップされるのか(「怒りっぽい」はあるけど「喜びっぽい」とか「悲しみっぽい」はないですよね)、そしてなにより怒りっぽいひとはなぜめんどくさいのかという問題があります。

根本的に感情は自己の欲求と強くつながっていて、「感情があらわになっている=本人が感情のコントロールを失っている」ということです。

「怒り」は自分の要求がかなわない不満を他者にぶつけて、他者の行動や変化を支配することでかなえさせようとする感情の発露です。

 

ここで不幸なのがふたつあります。

ひとつめは「知識は知性に影響を与えない」ことです。 里見が折にふれて申し上げている「バカに知識をあたえるとかしこくなるというのはまちがいで、単にめんどくさいバカになる」の法則と同じです。

「知識」は「情報」であり「情報の受容」は実に「取捨選択」ですから、どうしても偏りが生じます。すると知識が人格をおだやかにすることは原理的に不可能で、自己の都合のよい武装を強化する方向に選択されていきます。

つまりどういうことか今回の「怒り」でご説明しますと、知識が「怒り」をなだめることはなく、「怒り」に正当性をあたえるだけだということです。そのような知識だけを選別してますからあたりまえです。

 

もうひとつは「怒りっぽいひとは我慢強い」ことです。 はたからは怒られてるひとが被害者で怒ってるひとは加害者なのですけど、そこが実は正反対で、怒ってるひとは常に「被害者」なのです。幼児でも酔っぱらいでもクレーマーでもモンスターペアレントでもみんなそうです。

なぜなら怒りっぽいひとは100回の怒るべきシチュエーションを我慢強く耐え抜いてそのうちの30回ぐらいしか怒っていないからです。ふつうのひとはそのうちの10回ぐらいが怒るべき状況で、さらにそのうちの2〜3回で怒っています。

ここからもわかるように、ふつうのひとはたった7〜8回しか我慢していないのに対して怒りっぽいひとはなんと70回も我慢をしているのです。 なのでその我慢強さを凌駕する「不快」は決して許せないものになり「怒り」の正当性はゆるがないものになります。そこにいたるまでにたっぷりと耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでいるのですから、怒ってる側が「被害者」になります。

だから怒ってるひとを説得するコストは異常に高くなるし、多くの場合は徒労に終わるし、主張がくつがえらなかったことでより先方の怒りの正当性を強めることになります。

 

かくして怒りっぽいことは成功体験として人格に定着していったのではないかと思います。

 

そんなわけで以上ふたつの理由により、他者にとっての「感情のコントロールができない」ひとは、本人にとっては「論理的で我慢強い」ひとになります。

 

まあ「怒りっぽい」かたがいちばん理解できてないのは「怒りっぽいひとが怒らなかった」というのは、本人にとっては「広い心で我慢した偉大な自分」ですが、周囲のひとにとっては「地雷原で地雷が爆発しなかった」だけだということなんですけどね。


善悪の悲願

法務上、「善意」と「悪意」は日常用いられる善悪ではなくて「知らなかった」か「知ってた」かの意味になります。
まあ同じ行為でも「知らなかったならしかたないけど知っててやったならダメよ」となりがちで、知らなかったほうが有利なことが多いので(なにしろ善意というぐらいですから)、シラを切り続けることが適正な対処になります。

この「知らなかった」「予期できなかった」のたぐいは、ことの大小を問わず謝罪会見なんかでもよく用いられる話法ですが、予測できないほうが結果の責任を負わなくていいので正しい対応といえます。
責任者としてどうなのよと思うこともしばしですが、この世の中はそんな仕組みで動いています。

それはそれでよいのだと思うのですけど、責任の重さを理解するひとはその重さに応じて思慮深くありますので、副作用として「そもそも重さも理解できず責任も取れないかた」か、もしくは「有事の際は理解できないふりをして責任を回避するかた」が責任者の地位を占めるようになります。

対処法が「予測不能の不可抗力でした」と表明することである以上、予測不能の範囲が広いほうが有利、なんなら何も予測できないかたこそが最強ですから。

そんな理路なのではないかと。
結果は同じでも「知ってた/知らなかった」ことで周囲の判断が変わるというのは、法律として成文化するまでもなく感覚的に共有されているものなのだと思います。たぶんね。

なんかうまく超えられる仕組みがありそうな気もするのですが。

燃える傾斜

またパワハラ、セクハラが話題になっています。
パワハラとかセクハラというのは、「権力の位置エネルギー」の差こそがその源泉です。
加害者と被害者の間にはなんらかの権力の傾斜が存在していて上から下へと一方的に流れています。

人間は被害を大きく加害を小さく見積もるようにできていますので、どうしても被害者だらけになってしまうのですが、里見ももういい年齢で、それなりにキャリアも積んでしまった以上、加害者としての立場で考えてしまいます。

権力的に高い側は位置エネルギーをつい活用してしまうというかどうやっても活用せざるを得ない立場であるため、加害性は本人に自覚しにくくなっています。

自覚がないのでなんら後ろめたさを感じずに他人のハラスメントを糾弾できますし、その糾弾したのと同じ口でハラスメントを遂行できてしまうという恐ろしい構造です。
それは坂道を転がる石ころのようなものです。上側からはそんな小さな石ころどうってことないじゃんと思うのですが、傾斜があればあるほど下側の痛みは強まります。

この手のハラスメントは「アウトかセーフか」みたいな次元であればほんとはすべてアウトなんですけど「これぐらいはセーフ」「これはイジり」「愛情を込めてる」と大のおとながまるで小学生のような言い訳をしてしまうものです。

物理的な暴力に置き換えて「胸ぐらをつかんだだけだからセーフ」「愛情を込めて小突いた」「成長を促すためにかわいがった」としたらどれも許されないですから、そこにアウトとセーフの閾値などないことは自明なのですけど。

加害者にならないための対処法は、権力の傾斜を「恐れ続けること」しかありません。

鈍感なひとでも理解できる「恐怖」、たとえばネットでよくいわれる、何がセクハラかわからないかたに説明する「相手が上司のお嬢さんだったら」のような権力の枠組みを逆転させる思考装置を想定するのも手だと思います。

ほんとうにひとは他者の痛みには鈍感なのです。まして自分に快楽がともなう場合その傾向はより顕著になります。

今まで権力のある側は、鈍感なかた、もっと踏み込むと権力で他者を従わせることに快楽を感じるかたのほうが楽しく生きられる世の中でしたが、そんな時代はもう終わろうとしています。

というか終わらせないといけません。

でも残念なことに決して終わらないのですね。権力の傾斜がある限りは。

だから常に内部か外部に「恐怖」を抱き続けないといけないのです。

政治的正しさが後ずさりするとき

また年を取りました

恐ろしいことに気づいたのですが、加齢はひとの好奇心や集中力を減衰させ、いろいろなことに興味を持てなくさせます。
そもそも興味がないので、とくに不都合がないのがかなりヤバいです。 今までの人生で受容したものでなんとなく満ち足りてしまっていて、その順列組み合わせで日々過ごしてしまっています。

これでプロデュースとかディレクションなんかできるかよと思うのですが、すでにあるものだけで判断するのでなにも迷いなく「答え」を導き出せてしまいます。

周囲もこちらの年齢やキャリアに忖度して迎合されてしまいます。

もっと迷わないと。もっと恐れないと。

説得納得大冒険

ぼくのような何も産み出さない仕事の大半は説得と納得でできています。
昨今はスティーブ・ジョブズやイーロン・マスクやドナルド・トランプなどなど声高に説得するほうが流行りですが、あれは「規格外のバケモノ」どもですのであまり参考にはなりません。われわれ凡人にとって大事なのは「納得」です。

なぜなら実は説得と納得は対になっていないからです。

説得するというとなんとなく正しいほうが勝つようなイメージがありますが、納得をともなわない場合「権力」か「欲望」の強いほうが勝ちます。権力や欲望を正しさや信念だと思い込んでいるだけで、勝因はおおよそ「権力的に上位だった」か「欲望が強かった」かです。
身もふたもない話ですけど。

もちろん抗う術もないわけではなくて、具体的に申しあげると

・わたしの主張はこうです。
・あなたの主張は理解できません。
・わたしの主張が理解できないのですか?

を無限にくりかえすと多少の権力差や欲望差ならだいたい相手が折れて説得できます。

もちろんどこにも納得の要素も正しさの要素もありません。
「強い信念に基づく正しい主張」で説得をし、相手の「面倒だからもういいや」を引き出す技術ですからね。
これを平明な言葉で申しあげると納得をともなわない説得においては圧倒的に「バカが有利」ということになります(ここでポイントなのは別に正しさと無関係なだけで正しいことも充分あるところでしょうか)。

そこで「納得」です。
説得と対にしていくこと、それがむずかしければ場に納得を作ること。


なんら生産行為をしない凡人の長く険しい道であります。

守護られざる者

何年か前に以下のブログを書きました。

五十年の蠱毒
五十年以降の蠱毒

数年経ちまして状況は変わったような変わってないような感じなのですが、「変わりつつある」と考えてよいのではないかと思います。

国内側の準備が整う前に世界との「壁」が崩れつつあります。

しかもそれは里見が望んでいた「二次商品と足並みを揃えての海外進出」のような日本主導のポジティブな手法ではなく、映像そのもので商売をする海外の配信事業者による一方的なアプローチです。
これは「放送」「ビデオグラム」の代替でもあるので、今後の影響はかなり大きくなることが想定されます。
どういうことかといいますと、国内だけで完結する牧歌的なサイクルのビジネスしかなかったところに、海外から「アニメの生産能力以外」すべてを持ったクライアントさんが現れたということです。なので必然的にアニメ業界に求められるのは「アニメの生産能力」だけになります。ある意味日本の電機メーカーさんが海外の工場で電機を生産してるのと同じですね。

これは極端ないいかたをすると「下請け工場化」です。

これがいいのか悪いのかというと、単なる「変化」でもあるのであまり気にしなくてもよいという考えかたもありますが、ビジネスのコントロールをすべて手放してしまうと、今後状況に変化があった場合の打つ手が非常に限られてきます。
たとえば「生産工場」を日本に限る必然性がないですから、韓国や中国に発注を切り替えることもあり得ますので、受注のために制作費や品質や納期の要求に応える競争も激化するかもしれません。
まあそのような時代の端緒にいるわけです。

とはいえこれは「オール日本」で考えたらという話でして、今のアニメ業界の現状でもそれぞれに役割を振られたプレイヤーの集合体(「製作委員会」なんかがわかりやすいですよね)です。
その中でのぼくらの役割はもともと「下請け工場役」なので、ぼくら視点にしぼると特に何か変わるわけではなく「海外から太いクライアントが来た」というありがたい変化でしかありません(もちろん遅かれ早かれ前述の競争激化に巻き込まれることにはなるのですけど)。

実のところ日本のアニメの優位性はもはや絵の品質ではなくなっています。これは韓国や中国の品質向上もありますし、国内蠱毒の果てに小さなマーケットに適応してシュリンクし続けた結果でもあります。
ですがアニメの本質的な優位性は、主たる原作の供給元である出版のマーケット、特にマンガのマーケットにあります。こちらもピークを超えて久しくだいぶ苦しくはなっていますが、それでもまだまだ世界的に見れば最強と申し上げてよいかと思います(潜在的にはまちがいなく集英社さんや講談社さんはマーヴェルさんやDCさんに匹敵するIPホルダーです)。

ここが今後のアニメ業界にとって大きなポイントになってくるのではないかと思います。

そんなこんなでまたしても変化の時代が到来してしまったので、これからも楽しくやっていきましょう。

今回は日本視点でだらだら書きましたが、このようなことを日々考えている人間はそれほど多くありません。
海外クライアントさんからのご連絡もお待ちしております。
弊社と組むとおもしろいですぜ。

仏教ルールとキリスト教ルール

バーナムスタジオは創業時より「人脈とノウハウは無料」を社是として掲げているため、案件ともいえないようなちょっとした相談ごとがかなりの頻度で舞い込みます。

相談をされるわけですからなにかがうまくいっていないということなのですけど、最近よくいわれるのが

「功徳が足りていないのでしょうか」

です。
それはたしかに「アニメ駆け込み寺」的な場所ではありますが、「寺」はあくまで比喩のはずなのに坊主と檀家の会話にしか聞こえません。
以前そのようなことをブログに書いたのをご覧になられたのだと思われますが、立て続くと根強く(ゴーストに)ささやかれる「当ブログを読んでいるのは業界人だけ」説が補強されていきます。

徳を闇雲に積んでも仕事は楽にならないと思うのですけどどうなんですかね。

ちなみに里見の場合、徳を積むにあたって基本ルールはふたつです。

・前世は悪行三昧だったので埋め合わせないといけない(仏教ルール)
・善行は知られた時点でノーカウント(キリスト教ルール)

それぞれ仏教ルールとキリスト教ルールと呼ばれています(呼ばれてませんよ)。
里見は絶望的なまでに利己的かつ厭世的なので、この世の「善人」のみなさんよりもはるかに高速で徳を積む必要にかられて設定されたものです。
もう少し具体的に書くと、ぼくは生まれた瞬間からこの世に大量に借りがありまして、今世のうちにすべてを返済していかなければなりません。ただし、善行は知られると現世で有形無形の利得(感謝や信頼度や場合によっては金銭など)として報いを受けてしまうので現世内決算で相殺されてノーカウントになります
バレないようにやるのはほぼ不可能ですので、対価以上の善行を押しつけて相殺しきれなくする道しかないのです。

こりゃ厳しいと感じるかたもいらっしゃるかと思いますが、ぼくはこれぐらいでようやく「ふつう」になれる程度のしばりです。

ただ、気をつけておかないといけないのは、この考えかたは実はどちらもとても危うくて、他者に向けてはいけないのです(たとえば「責任」や「義務」あたりも里見のいう他者に向けてはいけない言葉です)。

前世も輪廻も本質的に身分や差別を肯定するからです。仏教がカーストの国インドで(しかも権力者にも)受け入れられた(もしくは仏教がカーストを受け入れた)最大の要因はここにあります。王さまも奴隷も前世のおこないの結果ですからね。
現状を肯定して固定してしまうのです。
ご使用の際はご留意ください。

キリスト教ルールも同様で、もともとはパリサイ派がこれ見よがしに祈るのをご覧になったイエスが、彼らはすでに現世で報いを受けてるよね、ちゃんと隠れて祈らないととおっしゃった故事にちなんでるのですけど、これはとてもパーソナルなものなので他者の介在は不要です。神以外は他者に向けていってはいけません。


つまり相談はいつでも歓迎しますし喜捨も大歓迎ですが、具体的な方策を聞いてくださいということです。

20,000miles 旅したサブマリン

この前なんとなく、前世紀というかおよそ20年前にわくわくして買った A BATHING APE® (現・香港企業に売却済)と胸に書かれたウインドブレーカーをはおって、 Porsche Design (現・日本撤退済)のブーツを履いて出かけたわけです。さすがにそのころのズボンは残ってなかったのですが、せっかくなのでTシャツも世紀末にバーニーズ・ニューヨーク(現・セブン&アイHD完全子会社)で購入した当時からよれよれで1万円以上する今もよれよれのやつで。

ファッションブランドの栄枯盛衰から20年という歳月の長さに思いを馳せたり、物持ちがよいことをほめていただいたりしたいのですけど、今日は別のお話。


もちろん20年前の服を着ていても誰も何もいわないわけです。
これは可能性として

1. 里見のファッションセンスが素晴らしくファビュラスなので時を超えて通用してしまうから
2. 誰も里見の服装に興味がないから。
3. みんな里見の社会的立ち位置からコメントを差し控えているから。

という3パターンが考えられます。
正解はナイチンゲール(現・サザビー)に聞いてはみたいけれど、素敵なロマンスがこぼれてしまうから里見が想像で答えますとおそらく「2」になります。

ただ、ぼくは常に「3」を選択し続けるのです。

もしぼくが「1」か「2」と答えたらそいつはニセモノなのでためらわずに胸に杭を打つか銀の銃弾をぶっぱなしてください。

普遍的な人類の傾向なのかぼく個人の資質なのかわからないですが、「3→1」に向かって風が吹いていて立ち止まるとズルズル引き寄せられていくのですね。
だから「2」にたどりつくには「2」を目指してはダメで、横風の強さを計算して「3」を向く必要があります。

時とともに停滞し硬直していく思考やセンスを無理矢理自覚するのはむずかしいので、硬直を矯正する「老眼鏡」の代わりに最初から反対に偏向しておく(それでぎりぎりニュートラルまでたどりつけるかどうか)という前向きなような後ろ向きなような話で、年々強まる度数におののきながら明日も旅を生きるのでした。

以下にもう少し身もふたもないことを書いています。

心の老眼
「叡智」か「覚悟」か「心の老眼」

ボストン・テラン『その犬の歩むところ』

 

『神は銃弾』にはじまり『音もなく少女は』で到達した、厳粛とも崇高ともいえる領域によって、ボストン・テランは特別な作家となりました。

そんな特別なテランが本作で描いたのは「犬」「旅」「アメリカ」そして「いつものボストン・テラン」です。

 

チャーリーとジョン・スタインベックが旅したころから、いやもっともっとはるかな昔、おそらく最初の人類がベーリング海峡をわたったそのはじまりのときから、ひとと犬はたがいを友としてアメリカを旅をしてきました。 そして旅はアメリカの現在だけでなく歴史そのものとも向き合わせてくれます。風土もそこで暮らすひとびともみな積み重ねられた歴史の先端ですからね。

 

思えば21世紀のアメリカは苦難と忍耐とその反動に翻弄されて、今もその渦中にあります。

 

今回ボストン・テランがギヴという犬の旅を通して描き出したのは、ひとと犬との特別な関係だけでなく、9.11とカトリーナとイラクを経たアメリカにたちこめる困難と、それにあらがう意志です。

デビュー作『神は銃弾』以来の、暴力と運命と不屈の意志を浮かび上がらせる静寂と狂熱の混在する文体は変わりません。が、本作では視座を高低自由に移行する複層の三人称となっています。これは旅の途上で出会うモザイクのようなアメリカの断片を描くために、そして犬という友を描くために選びとられたものです。結果として文章はときに卑近にときに飛躍し、より詩的で、アメリカへの信頼に満ちた作者自身の切実な言葉に感じられます。

苛酷な世界はひとに犬に理不尽な死をもたらすことはできても、死者が生者の道標となり、運命に翻弄される生者を善き意志へと導く歴史の積み重ねを止めることはできないのだと、あたかも深く傷ついたアメリカへの真摯なセラピーであるかのようにくりかえしくりかえしテランは語りかけます。

 

それだけ現実のアメリカは傷ついているともいえるのかもしれません。

 

犬はかつて神に逆らい、ひとに寄り添うことを選択しました。はたしてひとは犬の信頼に応え、犬がともに歩むにふさわしい魂の持ち主なのか、これはそんな問いを抱えたひとびとが不条理にあらがいつづける、崇高な魂と救済、奇蹟と希望の物語です。

 

いままでになくストレートなメッセージだと感じるかもしれませんが、もちろん同時に「いつものボストン・テラン」でもありますので、今までボストン・テランを読んだことのあるかたもないかたも安心してお読みください。


宮内悠介『あとは野となれ大和撫子』

 

デビュー以来のめざましい活躍の到達点として、そして、(デビューから『カブールの園』までを第一期とすると)新たな第二期の到来として、宮内悠介の本作は記憶されていくのではないかと思います。

あらすじは以下の通り。

中央アジアのアラルスタン。ソビエト時代の末期に建てられた沙漠の小国だ。この国では、初代大統領が側室を囲っていた後宮(ハレム)を将来有望な女性たちの高等教育の場に変え、様々な理由で居場所を無くした少女たちが、政治家や外交官を目指して日夜勉学に励んでいた。日本人少女ナツキは両親を紛争で失い、ここに身を寄せる者の一人。後宮の若い衆のリーダーであるアイシャ、姉と慕う面倒見の良いジャミラとともに気楽な日々を送っていたが、現大統領が暗殺され、事態は一変する。国の危機にもかかわらず中枢を担っていた男たちは逃亡し、残されたのは後宮の少女のみ。彼女たちはこの国を――自分たちの居場所を守るため、自ら臨時政府を立ち上げ、「国家をやってみる」べく奮闘するが……!?

内紛、外交、宗教対立、テロに陰謀、環境破壊と問題は山積み。
それでも、つらい今日を笑い飛ばして明日へ進む
彼女たちが最後に掴み取るものとは――?


地理、歴史、政治、民族、宗教が複雑に入り組むわれわれ日本人には特異な環境を舞台にした、現代の痛快冒険活劇となっています。

あらすじから酒見賢一の『後宮小説』やアンソニー・ホープ『ゼンダ城の虜』みたいなのかしらと読みはじめたところ(それもまちがってはいないのですけど)、なぜか脳裏に浮かんだのは稲見一良、それも『男は旗』でした。
もちろん内容の接点はないのですが、現代を舞台に描かれたまっすぐなファンタジイとして、ぼくの中でつながったようです。『男は旗』から時代を経て21世紀、現代社会はより複雑さを増し、男たちよりも女の子が元気になってますが、あいかわらず、何かに立ち向かうひとは旗のようであり、吹きつける風が強ければ強いほど、旗は美しくはためくのでした。

あと、この連想にはもうひとつ要因とおぼしきものがあって、それは今までの作品と較べて「リアリティの基準が変わっている」というか「少しフィクション/ファンタジイの側に踏み込んでいる」のです。
主観なのでなんともなのですが、たとえば福井晴敏作品ですと『終戦のローレライ』のときに感じました。
それはたぶん、いいかたを変えると「その作家が許容できる小説の嘘の範囲が意識的に広げられたとき」なのです。あくまでぼくが勝手に読み取るんですけどね。
そして稲見一良だと『男は旗』がそれにあたります。

そのような「変化」を、ぼくはこの『あとは野となれ大和撫子』にも感じました。

アラルスタンは架空の国ですが、地政学的に中央アジアがいかにも産み出しそうな小国です。ここでくりひろげられる冒険は多種多様な現実にしばられて少し苦しそうにも思えますが、実際は順序が逆で、少女たちが(政治的にも)冒険できるほどまでに現実が拡張されているのです。
この好ましい「変化」に加えて、全編を貫く「ユーモア」と「理想」も、過酷な現実と常に対峙していて気持ちがいいです。

あと今回は「連載」というスタイルも奏功しているのではないかと思われます。

というわけで、宮内悠介ver.2.0の開幕といってもいい本作が、広く読まれることを心より願います。


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バーナムスタジオ

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