また年を取りました

恐ろしいことに気づいたのですが、加齢はひとの好奇心や集中力を減衰させ、いろいろなことに興味を持てなくさせます。
そもそも興味がないので、とくに不都合がないのがかなりヤバいです。 今までの人生で受容したものでなんとなく満ち足りてしまっていて、その順列組み合わせで日々過ごしてしまっています。

これでプロデュースとかディレクションなんかできるかよと思うのですが、すでにあるものだけで判断するのでなにも迷いなく「答え」を導き出せてしまいます。

周囲もこちらの年齢やキャリアに忖度して迎合されてしまいます。

もっと迷わないと。もっと恐れないと。

説得納得大冒険

ぼくのような何も産み出さない仕事の大半は説得と納得でできています。
昨今はスティーブ・ジョブズやイーロン・マスクやドナルド・トランプなどなど声高に説得するほうが流行りですが、あれは「規格外のバケモノ」どもですのであまり参考にはなりません。われわれ凡人にとって大事なのは「納得」です。

なぜなら実は説得と納得は対になっていないからです。

説得するというとなんとなく正しいほうが勝つようなイメージがありますが、納得をともなわない場合「権力」か「欲望」の強いほうが勝ちます。権力や欲望を正しさや信念だと思い込んでいるだけで、勝因はおおよそ「権力的に上位だった」か「欲望が強かった」かです。
身もふたもない話ですけど。

もちろん抗う術もないわけではなくて、具体的に申しあげると

・わたしの主張はこうです。
・あなたの主張は理解できません。
・わたしの主張が理解できないのですか?

を無限にくりかえすと多少の権力差や欲望差ならだいたい相手が折れて説得できます。

もちろんどこにも納得の要素も正しさの要素もありません。
「強い信念に基づく正しい主張」で説得をし、相手の「面倒だからもういいや」を引き出す技術ですからね。
これを平明な言葉で申しあげると納得をともなわない説得においては圧倒的に「バカが有利」ということになります(ここでポイントなのは別に正しさと無関係なだけで正しいことも充分あるところでしょうか)。

そこで「納得」です。
説得と対にしていくこと、それがむずかしければ場に納得を作ること。


なんら生産行為をしない凡人の長く険しい道であります。

守護られざる者

何年か前に以下のブログを書きました。

五十年の蠱毒
五十年以降の蠱毒

数年経ちまして状況は変わったような変わってないような感じなのですが、「変わりつつある」と考えてよいのではないかと思います。

国内側の準備が整う前に世界との「壁」が崩れつつあります。

しかもそれは里見が望んでいた「二次商品と足並みを揃えての海外進出」のような日本主導のポジティブな手法ではなく、映像そのもので商売をする海外の配信事業者による一方的なアプローチです。
これは「放送」「ビデオグラム」の代替でもあるので、今後の影響はかなり大きくなることが想定されます。
どういうことかといいますと、国内だけで完結する牧歌的なサイクルのビジネスしかなかったところに、海外から「アニメの生産能力以外」すべてを持ったクライアントさんが現れたということです。なので必然的にアニメ業界に求められるのは「アニメの生産能力」だけになります。ある意味日本の電機メーカーさんが海外の工場で電機を生産してるのと同じですね。

これは極端ないいかたをすると「下請け工場化」です。

これがいいのか悪いのかというと、単なる「変化」でもあるのであまり気にしなくてもよいという考えかたもありますが、ビジネスのコントロールをすべて手放してしまうと、今後状況に変化があった場合の打つ手が非常に限られてきます。
たとえば「生産工場」を日本に限る必然性がないですから、韓国や中国に発注を切り替えることもあり得ますので、受注のために制作費や品質や納期の要求に応える競争も激化するかもしれません。
まあそのような時代の端緒にいるわけです。

とはいえこれは「オール日本」で考えたらという話でして、今のアニメ業界の現状でもそれぞれに役割を振られたプレイヤーの集合体(「製作委員会」なんかがわかりやすいですよね)です。
その中でのぼくらの役割はもともと「下請け工場役」なので、ぼくら視点にしぼると特に何か変わるわけではなく「海外から太いクライアントが来た」というありがたい変化でしかありません(もちろん遅かれ早かれ前述の競争激化に巻き込まれることにはなるのですけど)。

実のところ日本のアニメの優位性はもはや絵の品質ではなくなっています。これは韓国や中国の品質向上もありますし、国内蠱毒の果てに小さなマーケットに適応してシュリンクし続けた結果でもあります。
ですがアニメの本質的な優位性は、主たる原作の供給元である出版のマーケット、特にマンガのマーケットにあります。こちらもピークを超えて久しくだいぶ苦しくはなっていますが、それでもまだまだ世界的に見れば最強と申し上げてよいかと思います(潜在的にはまちがいなく集英社さんや講談社さんはマーヴェルさんやDCさんに匹敵するIPホルダーです)。

ここが今後のアニメ業界にとって大きなポイントになってくるのではないかと思います。

そんなこんなでまたしても変化の時代が到来してしまったので、これからも楽しくやっていきましょう。

今回は日本視点でだらだら書きましたが、このようなことを日々考えている人間はそれほど多くありません。
海外クライアントさんからのご連絡もお待ちしております。
弊社と組むとおもしろいですぜ。

仏教ルールとキリスト教ルール

バーナムスタジオは創業時より「人脈とノウハウは無料」を社是として掲げているため、案件ともいえないようなちょっとした相談ごとがかなりの頻度で舞い込みます。

相談をされるわけですからなにかがうまくいっていないということなのですけど、最近よくいわれるのが

「功徳が足りていないのでしょうか」

です。
それはたしかに「アニメ駆け込み寺」的な場所ではありますが、「寺」はあくまで比喩のはずなのに坊主と檀家の会話にしか聞こえません。
以前そのようなことをブログに書いたのをご覧になられたのだと思われますが、立て続くと根強く(ゴーストに)ささやかれる「当ブログを読んでいるのは業界人だけ」説が補強されていきます。

徳を闇雲に積んでも仕事は楽にならないと思うのですけどどうなんですかね。

ちなみに里見の場合、徳を積むにあたって基本ルールはふたつです。

・前世は悪行三昧だったので埋め合わせないといけない(仏教ルール)
・善行は知られた時点でノーカウント(キリスト教ルール)

それぞれ仏教ルールとキリスト教ルールと呼ばれています(呼ばれてませんよ)。
里見は絶望的なまでに利己的かつ厭世的なので、この世の「善人」のみなさんよりもはるかに高速で徳を積む必要にかられて設定されたものです。
もう少し具体的に書くと、ぼくは生まれた瞬間からこの世に大量に借りがありまして、今世のうちにすべてを返済していかなければなりません。ただし、善行は知られると現世で有形無形の利得(感謝や信頼度や場合によっては金銭など)として報いを受けてしまうので現世内決算で相殺されてノーカウントになります
バレないようにやるのはほぼ不可能ですので、対価以上の善行を押しつけて相殺しきれなくする道しかないのです。

こりゃ厳しいと感じるかたもいらっしゃるかと思いますが、ぼくはこれぐらいでようやく「ふつう」になれる程度のしばりです。

ただ、気をつけておかないといけないのは、この考えかたは実はどちらもとても危うくて、他者に向けてはいけないのです(たとえば「責任」や「義務」あたりも里見のいう他者に向けてはいけない言葉です)。

前世も輪廻も本質的に身分や差別を肯定するからです。仏教がカーストの国インドで(しかも権力者にも)受け入れられた(もしくは仏教がカーストを受け入れた)最大の要因はここにあります。王さまも奴隷も前世のおこないの結果ですからね。
現状を肯定して固定してしまうのです。
ご使用の際はご留意ください。

キリスト教ルールも同様で、もともとはパリサイ派がこれ見よがしに祈るのをご覧になったイエスが、彼らはすでに現世で報いを受けてるよね、ちゃんと隠れて祈らないととおっしゃった故事にちなんでるのですけど、これはとてもパーソナルなものなので他者の介在は不要です。神以外は他者に向けていってはいけません。


つまり相談はいつでも歓迎しますし喜捨も大歓迎ですが、具体的な方策を聞いてくださいということです。

20,000miles 旅したサブマリン

この前なんとなく、前世紀というかおよそ20年前にわくわくして買った A BATHING APE® (現・香港企業に売却済)と胸に書かれたウインドブレーカーをはおって、 Porsche Design (現・日本撤退済)のブーツを履いて出かけたわけです。さすがにそのころのズボンは残ってなかったのですが、せっかくなのでTシャツも世紀末にバーニーズ・ニューヨーク(現・セブン&アイHD完全子会社)で購入した当時からよれよれで1万円以上する今もよれよれのやつで。

ファッションブランドの栄枯盛衰から20年という歳月の長さに思いを馳せたり、物持ちがよいことをほめていただいたりしたいのですけど、今日は別のお話。


もちろん20年前の服を着ていても誰も何もいわないわけです。
これは可能性として

1. 里見のファッションセンスが素晴らしくファビュラスなので時を超えて通用してしまうから
2. 誰も里見の服装に興味がないから。
3. みんな里見の社会的立ち位置からコメントを差し控えているから。

という3パターンが考えられます。
正解はナイチンゲール(現・サザビー)に聞いてはみたいけれど、素敵なロマンスがこぼれてしまうから里見が想像で答えますとおそらく「2」になります。

ただ、ぼくは常に「3」を選択し続けるのです。

もしぼくが「1」か「2」と答えたらそいつはニセモノなのでためらわずに胸に杭を打つか銀の銃弾をぶっぱなしてください。

普遍的な人類の傾向なのかぼく個人の資質なのかわからないですが、「3→1」に向かって風が吹いていて立ち止まるとズルズル引き寄せられていくのですね。
だから「2」にたどりつくには「2」を目指してはダメで、横風の強さを計算して「3」を向く必要があります。

時とともに停滞し硬直していく思考やセンスを無理矢理自覚するのはむずかしいので、硬直を矯正する「老眼鏡」の代わりに最初から反対に偏向しておく(それでぎりぎりニュートラルまでたどりつけるかどうか)という前向きなような後ろ向きなような話で、年々強まる度数におののきながら明日も旅を生きるのでした。

以下にもう少し身もふたもないことを書いています。

心の老眼
「叡智」か「覚悟」か「心の老眼」

ボストン・テラン『その犬の歩むところ』

 

『神は銃弾』にはじまり『音もなく少女は』で到達した、厳粛とも崇高ともいえる領域によって、ボストン・テランは特別な作家となりました。

そんな特別なテランが本作で描いたのは「犬」「旅」「アメリカ」そして「いつものボストン・テラン」です。

 

チャーリーとジョン・スタインベックが旅したころから、いやもっともっとはるかな昔、おそらく最初の人類がベーリング海峡をわたったそのはじまりのときから、ひとと犬はたがいを友としてアメリカを旅をしてきました。 そして旅はアメリカの現在だけでなく歴史そのものとも向き合わせてくれます。風土もそこで暮らすひとびともみな積み重ねられた歴史の先端ですからね。

 

思えば21世紀のアメリカは苦難と忍耐とその反動に翻弄されて、今もその渦中にあります。

 

今回ボストン・テランがギヴという犬の旅を通して描き出したのは、ひとと犬との特別な関係だけでなく、9.11とカトリーナとイラクを経たアメリカにたちこめる困難と、それにあらがう意志です。

デビュー作『神は銃弾』以来の、暴力と運命と不屈の意志を浮かび上がらせる静寂と狂熱の混在する文体は変わりません。が、本作では視座を高低自由に移行する複層の三人称となっています。これは旅の途上で出会うモザイクのようなアメリカの断片を描くために、そして犬という友を描くために選びとられたものです。結果として文章はときに卑近にときに飛躍し、より詩的で、アメリカへの信頼に満ちた作者自身の切実な言葉に感じられます。

苛酷な世界はひとに犬に理不尽な死をもたらすことはできても、死者が生者の道標となり、運命に翻弄される生者を善き意志へと導く歴史の積み重ねを止めることはできないのだと、あたかも深く傷ついたアメリカへの真摯なセラピーであるかのようにくりかえしくりかえしテランは語りかけます。

 

それだけ現実のアメリカは傷ついているともいえるのかもしれません。

 

犬はかつて神に逆らい、ひとに寄り添うことを選択しました。はたしてひとは犬の信頼に応え、犬がともに歩むにふさわしい魂の持ち主なのか、これはそんな問いを抱えたひとびとが不条理にあらがいつづける、崇高な魂と救済、奇蹟と希望の物語です。

 

いままでになくストレートなメッセージだと感じるかもしれませんが、もちろん同時に「いつものボストン・テラン」でもありますので、今までボストン・テランを読んだことのあるかたもないかたも安心してお読みください。


宮内悠介『あとは野となれ大和撫子』

 

デビュー以来のめざましい活躍の到達点として、そして、(デビューから『カブールの園』までを第一期とすると)新たな第二期の到来として、宮内悠介の本作は記憶されていくのではないかと思います。

あらすじは以下の通り。

中央アジアのアラルスタン。ソビエト時代の末期に建てられた沙漠の小国だ。この国では、初代大統領が側室を囲っていた後宮(ハレム)を将来有望な女性たちの高等教育の場に変え、様々な理由で居場所を無くした少女たちが、政治家や外交官を目指して日夜勉学に励んでいた。日本人少女ナツキは両親を紛争で失い、ここに身を寄せる者の一人。後宮の若い衆のリーダーであるアイシャ、姉と慕う面倒見の良いジャミラとともに気楽な日々を送っていたが、現大統領が暗殺され、事態は一変する。国の危機にもかかわらず中枢を担っていた男たちは逃亡し、残されたのは後宮の少女のみ。彼女たちはこの国を――自分たちの居場所を守るため、自ら臨時政府を立ち上げ、「国家をやってみる」べく奮闘するが……!?

内紛、外交、宗教対立、テロに陰謀、環境破壊と問題は山積み。
それでも、つらい今日を笑い飛ばして明日へ進む
彼女たちが最後に掴み取るものとは――?


地理、歴史、政治、民族、宗教が複雑に入り組むわれわれ日本人には特異な環境を舞台にした、現代の痛快冒険活劇となっています。

あらすじから酒見賢一の『後宮小説』やアンソニー・ホープ『ゼンダ城の虜』みたいなのかしらと読みはじめたところ(それもまちがってはいないのですけど)、なぜか脳裏に浮かんだのは稲見一良、それも『男は旗』でした。
もちろん内容の接点はないのですが、現代を舞台に描かれたまっすぐなファンタジイとして、ぼくの中でつながったようです。『男は旗』から時代を経て21世紀、現代社会はより複雑さを増し、男たちよりも女の子が元気になってますが、あいかわらず、何かに立ち向かうひとは旗のようであり、吹きつける風が強ければ強いほど、旗は美しくはためくのでした。

あと、この連想にはもうひとつ要因とおぼしきものがあって、それは今までの作品と較べて「リアリティの基準が変わっている」というか「少しフィクション/ファンタジイの側に踏み込んでいる」のです。
主観なのでなんともなのですが、たとえば福井晴敏作品ですと『終戦のローレライ』のときに感じました。
それはたぶん、いいかたを変えると「その作家が許容できる小説の嘘の範囲が意識的に広げられたとき」なのです。あくまでぼくが勝手に読み取るんですけどね。
そして稲見一良だと『男は旗』がそれにあたります。

そのような「変化」を、ぼくはこの『あとは野となれ大和撫子』にも感じました。

アラルスタンは架空の国ですが、地政学的に中央アジアがいかにも産み出しそうな小国です。ここでくりひろげられる冒険は多種多様な現実にしばられて少し苦しそうにも思えますが、実際は順序が逆で、少女たちが(政治的にも)冒険できるほどまでに現実が拡張されているのです。
この好ましい「変化」に加えて、全編を貫く「ユーモア」と「理想」も、過酷な現実と常に対峙していて気持ちがいいです。

あと今回は「連載」というスタイルも奏功しているのではないかと思われます。

というわけで、宮内悠介ver.2.0の開幕といってもいい本作が、広く読まれることを心より願います。


それでも世界は少しずつよくなっている

今は昔、うっかりニコニコ動画さんを批判して炎上してしまったことがありました。

当時はアニメが放送されたり、パッケージが発売されたりするとすぐにどなたかがアップロードしてしまうような環境で、ニコニコ動画さんの対応は、

 

アップロードされた映像が公式か非公式か判断するすべがないのでそのまま放置する

 

というもので、まあ当時は全部非公式だったんですけどそんな感じで。

お客さま(?)の反応も、アニメのいわゆる違法アップロードは、観たいものを観ることができないひとたちの要望をかなえているのだからぼくら「制作者の怠慢だ」というものが大半でしたし、雑誌の取材をうけたらプロであるはずの大手出版社の編集さんから「宣伝になるからプラスなのでは」といわれたりさんざんでした(いちおうプロのかたですのできちんと「じゃああなたの雑誌をスキャンして毎週ネットで無料でばらまくので宣伝になったありがとうとぼくに感謝してくださいね」とお答えしました)。

 

それから10年近く経ったでしょうか。

 

その間にニコニコ動画さんからもアニメの違法アップロードはほとんどなくなり、今は「キュレーションサイト」が炎上しています。おそらく手がけた企業に悪意はない(ほんとのところはわからないですけどお金を稼ぐことに忠実だっただけなのではないかと推測します)にもかかわらずです。

 

いつのまにか世の中では他人の著作物の剽窃や盗作は悪いことだということになってきているようです。

 

「悪い」とまではいえなくてもなんとなく「エスカレーターで左に寄る」ようなゆるやかなタブー感がめばえてきてるように感じます。
もちろん今回のキュレーションサイトと以前のニコニコ動画さんとで大きく異なる点はあると思っていて。

ひとつは「動機」で、アニメのアップロードには金銭的なメリットがからんでいなかったこと(たいしてキュレーションサイトは金銭がすべて)。

もうひとつは利用するユーザーが自発的に盛り上がったこと(キュレーションサイトは金銭目的でユーザーを誘導していた)です。

 

これは生理的な好悪にとってはとても大きな違いです。


ただニコニコ動画さんも時間をかけて(ぼくら目線での)正常化を果たしましたので、キュレーションサイトもそのような流れになるのではないかなあと。


5倍の感謝と1/5の恨み

俗にひとは他人から受けた恩を1/5に、ひるがえって仇を5倍に感じると申します。というかぼくが勝手に申しているだけかもしれません。
これはつまり、ひとは無意識のうちに相手にかけた恩を5倍に、仇を1/5に評価してしまうともいえます。

「あいつはあれだけ目をかけてやったのに裏切りやがって」

「この程度で罪滅ぼしになると思ってるのか」

「おれも悪いがあいつはもっと悪いのに逆恨みをしてる」

 

といった感情的なこじれが起きがちなのは、この「恩返しは5倍に、仇討ちは1/5にしないと均衡にならない」といういわば「5・1/5問題」のためであろうと思います。

昨今話題の「マンスプレイニング」なども(こちらは男女間に限定されてはいますが)同じ根っこに起因している気がします。

 

さらに申し上げると個人間だけではなく「被害者が多く加害者が少ない」事象が観察された場合も、この「5・1/5問題」がひそんでいる可能性が高いです。

 

はるか昔イエスはパリサイ人と取税人の祈りを比較して

 

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」

 

と語りました。

もしかすると「神」といういわば「ひとを観察する視点」は、ひとの心の「自分を他者の5倍評価してしまう」という無意識の偏りを矯正する仕組みとしても機能しているのかもしれません。

イエスはその倍率についてまでは語りませんでしたが。

 

 

なんというか、犬養毅が「話せばわかる」といっても聞き入れてもらえなかった要因はこのようなところにあるのではないかという落ちです。

 


PC原人

なんだか昨今のアメリカ大統領選挙を拝見していると一周まわって、日本人がアメリカの選挙権をもってないのはおかしいのではないかという気すらしてきます。

さて結果としてトランプ大統領が誕生することになったわけですが、それにともなって「ポリティカル・コレクトネス(PC)」が(どちらかというとネガティヴな)話題になっています。

「いきすぎたPCにアメリカの有権者たちは疲れていたのだ」
「トランプはPCでないことが支持された」

おそらくアメリカに関してはその通りなのでしょう。
PCは日本では「政治的正しさ」と訳されます。かいつまんで申し上げますと「差別や偏見を除外した表現」のことです。
まあPCが徹底されれば息苦しくなっていくだろうなというのは想像がつきます。
なぜなら「言葉」はともかく「人間」そのものから差別や偏見を除外できないですからね。

とはいえこの選挙結果で「PCの敗北」みたいな話が出てくるのはあまりよくないと思います。

アメリカとちがってこの日本において、PCは「いきすぎた」どころか、充分に普及したためしもないです。
なので今は何も気にせず、息苦しくなるまでPCを推し進めればよいのではないかと思います。

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