モデルニテ/ダンディズム/モード

その昔ボードレールというちょっとおかしなひとが「モデルニテ」という概念を思いつきまして、これはまあ「ちょっぴり永遠性を含有したうつろいやすく一時的な現代性」ってことでそこから純度の高い「永遠」を引き出すのが「芸術」なのだという砂金採りみたいな話(だとぼくは理解している)なのですが、この「モデルニテ」に加えて「ダンディ」と「モード」というのがけっこう重要なのかなあと最近思います(ベンヤミンでいうと「アウラ」が有名ですけど、今となっては「モード」のほうが興味深いというか)。

この前つらつらブログを書きながら娯楽は娯楽のままでは時間を超えられず芸術になってしまうことに気づいて、

同根異曲その2

それはどういう作用なのかなあとずっとぼんやり引っかかっていたのですが、「モデルニテ」に対するフィルターは「芸術家」でも「(現代性が失われるほどの)時間経過」でも結果としては同じように機能してしまうのかしらとそんなことを思いました。

かといって今さらボードレールやベンヤミンを読み返す気もないのでそれぞれの単語の説明をろくにしないまま終わる。

時間の優先順位

ぼくは基本的に「時間通りに現れて時間通りに去っていく」仕事スタイルです。
結果として予想外に長引いた会議を中座してしまうことも多々あり、みなさまにご迷惑をおかけしてしまうので申し訳ない気持ちもあるのですが、次の打ち合わせでひとを待たせるのもまた本意ではなく、その際にぼくがどちらを優先するかというと終了時間側より開始時間側に決めているということです(もちろん案件の重要度にも左右されますが)。

ふと社会人になってからのトータルで考えると

「時間通りにきて待機していた時間」>「時間通りに中座して失われた時間」

な気がします。
けっこう待ってます。ぼくは下っ端なので別に待たされてイライラみたいなことはないのですけど、効率が悪いなあとは思います。

なので以前にも書いたのですが、全世界はぼくのために会議の終了時間をあらかじめ決めたほうがよいのではないかと。

会議が長引くことを想定してクッションとなる時間帯を設定して次の打ち合わせをいれたりするのも効率が悪いですし。

時間通りにはじめて時間通りに終わるのが理想なので、そのようになってくといいなあと思います。

光あるうち光の中を歩め

4月ですね。このブログを読んでるかたのなかには今日から社会人のかたもいらっしゃるかもしれません。
とりあえずぼくはまだ学生気分が抜けてないので新社会人のかたへは特にないのですが、学生さんへのアドバイスは

「学生時代ほど本を読める時代はないのでたくさん読もう」


です。
特に大学生になるかたには強く推奨です。

先日「好きなだけ本を読んでお金をもらえる仕事ってないのかねえ」と日下三蔵さんもおっしゃっていたので「え? このひとずっとやってるじゃん」とつい二度見してしまいましたが(ここが一番エイプリルフールっぽい部分です)、かの御仁ですらそうなので、凡人は言わずもがなです。

たしかに会社員が通勤電車のなかでハーマン・メルヴィル『白鯨』とかフョードル・ドストエフスキー『罪と罰』とかレフ・トルストイ『戦争と平和』とか埴谷雄高『死霊』とかを読むイメージはあまり湧きません。ぼくも今さら夢野久作『ドグラ・マグラ』とか小栗虫太郎『黒死館殺人事件』とか中井英夫『虚無への供物』がおもしろいよといわれても読まない気がします。めんどくさいですからね。浜尾四郎『殺人鬼』とか久生十蘭『魔都』あたりなら読むかもしれませんが。

同様にSF好きの学生さんであっても卒業したら流行りのものはともかく通勤のおともにグレゴリイ・ベンフォードとかフレデリック・ポールとかC・J・チェリイを選ぶかというとまずなさそうです。

かくいうぼくもかつては重厚長大なダン・シモンズやニール・スティーヴンスンやリチャード・パワーズやマルグリット・ユルスナールやスティーヴン・ミルハウザーの新刊が出るたびに狂喜乱舞してましたが、今では出ないでいてくれることを祈りつつガタガタ震える日々を過ごしています。

今なら社会人になると読書傾向が時代小説やトラベルミステリーにシフトしてしまうのも理解できます。


なので学生さんのうちに古典とか文学とかSFとか、頭を酷使して読むたぐいの本を読んでおくのがよいかなあと思います。

我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。

物理的にはそれほどでもなかったのですが精神的に慌ただしく過ごしているうちに年度末になってしまいました。
またブログの更新も途絶えてしまっていてよくないですね。
そんなわけで来年度もよろしくお願いします。

アニメ業界はなぜかまた狂い咲きのような活況となっていましてみんな忙しそうですが、弊社は相変わらずそれほど仕事もないのでみなさまのご発注お待ちしております。

さて年度も改まりますので初心に帰って、なぜこのようにアニメの数が増えたのかというのを歴史的にご説明しようと思ったのですが、よく考えたらぼくもくわしくないのでなんとなく見聞きした範囲で適当に書いて諸賢のご指摘を仰ぐことにしようと思います。

発端はいわゆるOVA時代であろうと思います。つまり『ダロス』ですね。
あと『機動警察パトレイバー』(OVA)。
ここらへんでアニメそのものがはじめて(ビデオパッケージという形態で)商品価値を持つことが認知されます。
ここらへんのしかけはバンダイさん(と東北新社からのパイオニアLDCさん)です。

次は『無責任艦長タイラー』でテレビアニメに製作委員会方式が導入されます。これに『新世紀エヴァンゲリオン』が炸裂して社会現象になります。ここらへんはキングレコードさんですね。

最後に枠の開拓として『エルフを狩るモノたち』が深夜に斬り込みます。『エヴァンゲリオン』の再放送の影響も見逃せません。
さらに戦う舞台は大空へ。WOWOWノンスクランブル枠にアニメコンプレックスとして『ああっ女神さまっ 小っちゃいって事は便利だねっ』『アンドロイド・アナ MAICO 2010』『南海奇皇』が。
さらにさらにまだU局があるじゃないかと『鋼鉄天使くるみ2式』『花右京メイド隊』が進出。ここでのキープレイヤーはポニーキャニオンさん(と現クオラスの代理店ビッグショットさん)です。

そのような流れのなか、リクルートさんからメディアファクトリーさんが生まれたり、そのメディアファクトリーさんをグループ化した角川書店さんがアニメを含む総合コンテンツ会社となったり、さすがにこれで電波の開拓は打ち止めかと思ったら、SCE・ヴィジュアルワークス→SME・ヴィジュアルワークスと社名を変更していったアニプレックスさんが『空の境界』で劇場アニメの新しいカタチを提示したり、外資の雄ワーナーさんが本格参入したりとプレイヤーの数も増えて今に至っているというような認識です。

現場の傍観者であるぼくとしてはそんな風に思ってるのですけど、実際こんな感じで合ってるんですかね?

おもしろ原理主義

アニメがいろいろなメディアと連動して展開する関係もあって、出版/ゲーム/放送……いわゆる広い意味での「エンターテイメント業界」のかたがたとお会いする機会が多いのですが、なかでもマンガの編集者さんは「おもしろ原理主義」度が高いと思います。

ずっとざっくり2兆円市場といわれていた出版マーケットですが、90年代なかばにピークを迎えて2兆6000億円に達した後出版不況と呼ばれるターンに突入、ゆるゆると数%ずつ縮小してついに昨年は1兆6900億円にまでなっています。
これは出版に限らず日本の産業全体の傾向でもあるのですが、不況と申し上げて差し支えない状況かと思います。

ところが上記のようなマーケット縮小ターンにあっても、ぼくがお話する編集者さんは「こっちのがおもしろいですよ」と「おもしろさ」で常にご判断をされている印象がありますし、「バット短く持って内野の頭をなんとか越しましょう」という意味の発言をされるかたとはあまりお会いしたことがありません。
ぼくらが不況だとなるべく「堅い原作/スタッフ/キャスト」と呼ばれるものをかき集めて、無難を追求していく傾向があるのですが、ことマンガ編集に関してはそのようなリスクヘッジ的な考えかたがあまり影響していない気がします(もちろん外部からアニメを接点にお話をする立場では出版社個別の事情や、内部の温度はわからないのですが)。

ここからは推測なのですが、出版社さんの多くは機能の分化が長い歴史のなかでしっかりと完成されているのだと思います。
クリエイティブを外部に委託する構造(フリーランスのマンガ家さんに外注して出版する構造なので、会社として編集者さんがクリエイティブの先端になる)はアニメ業界と同様なのですが、アニメ業界における「プロデュース」が分業化されている気がします。
アニメのプロデューサーは外部からの資金集めにはじまりどのように店頭で商品が売られるかまでをだいたいひとりで考えてプロジェクトを組みますが、出版では作品を産み出す中心部分に、おもしろさに特化した編集者というスペシャリストを配置しているように見えます。

もちろん外部からの資金調達が必要ない規模の投資であることや、雑誌と単行本という商品形態など、固有事情はまったく異なるので一概にどちらが優れているかという話ではないのですが、アニメが常にマンガ原作をメインとしてきた理由のひとつだろうと思います。

なので不況と呼ばれ、紙から電子に業態が変わっていくのではないかといわれ、出版社は激動のなかにあると思うのですが、「おもしろさ」を核に据えている限り、出版社/編集者の未来は明るくて、紙という縛りがはずれることでむしろエンターテイメントを産み出し世の中に打ち出す橋頭堡としてより強力な存在になっていくのではないかとぼくは考えております。

獲得形質の連想

何かのための知識というのも大事ですが、なんとなく蓄えた知識で連想していくのも楽しいですよね。
里見は「娯楽の手つき」と呼んでるのですが、しっかりとした論拠や関連を蓄積せずにこれとこれはなんとなく結びつくを重ねて知識を(ある意味無責任かつ害のない)娯楽として、ちいさな知識の建物を脳内に構築するような遊びです。

ここ最近の佐村河内さん問題と小保方さんの問題がタイミング的にも近くて内容もなんとなく似通っているおかげでずっと、音楽出身で生物学に転向(?)し、一世を風靡したのち捏造スキャンダルで自殺した生物学者パウル・カンメラーが思い浮かびます。
どうつながっているのかといいますと。

「進化」を語る上でひとの感情的に納得しやすい(けど間違ってる)ものがふたつあると思っています。
それはひとつが「定向進化」で、もうひとつが「獲得形質の遺伝」です。
どちらもラマルキズムと呼ばれる、すでに否定された進化論の主要要素でもあるのですが、とても納得しやすいので今でも一般的な解説文に紛れ込んでいたりします(古生物の記事や解説では特に多い気がします)。
ラマルキズムというものが観察や実験の結果ではなく、提唱者のラマルク自身が納得できる考えをまとめたものなので、あたりまえのことかもしれません(ラマルクの最大の業績は「進化」という概念の提示そのものにあります)。
そして、納得しやすい理由は、人類の文化や社会(そしてミーム)が、過去を継承し未来を志向する、という点でまさにラマルキズムで繁栄を遂げたからだろうと思います(なので正しくは人類社会はそうだから進化もそうであろうというラマルキズムが生まれたという順序ですかね)。
というわけでダーウィニズム/ネオ・ダーウィニズムと呼ばれる進化論が常に主流なのは間違いないですが、特に社会主義国ではソ連のルイセンコ主義(反ダーウィニズム/反メンデリズム)なんかもあって20世紀半ばぐらいまで(どちらかというとイデオロギーとしてですが)とても根強くラマルキズムが信奉されてました。

さて。パウル・カンメラーにはそのものズバリ『獲得形質の遺伝』という著書もあるぐらいのラマルキズム(ネオ・ラマルキズム)の生物学者でした。サンショウウオとかカエルといった両生類を特殊な環境下で育てて、その環境で獲得した形質が遺伝するかを何世代にも渡って飼育して確かめるという実験をおこなって、ついに獲得形質が遺伝することを証明するのですが、彼の飼育能力が高すぎて誰もスタートの「飼育する」が真似できなくて追試できないという状態でした。最後は獲得形質の遺伝を証明するとしたサンバガエルの標本が捏造だったことが発覚してピストル自殺します(金銭面も女性関係も問題だらけで躁鬱病を患っていたので自殺の原因は今でも色々な憶測を呼んでいます)。

そんなわけで20世紀半ばまでかかってラマルキズム/ネオ・ラマルキズムは否定されたのですが(『ホロン革命』や『機械の中の幽霊』で知られるアーサー・ケストラーの『サンバガエルの謎 獲得形質は遺伝するか』でカンメラーの実験が肯定的に取り上げられたりもしつつ)、進化論や遺伝学や生物学も発展していくうちに個体レベルではガサツすぎるので次第に分子レベルになってきました。進化論でいうと日本人でただひとりのダーウィン・メダル受賞者の木村資生さんが唱えた「中立説」なんかがそれで「分子遺伝学」へとつながったりネオ・ダーウィニズムに吸収されたりしています。
そのような流れのなかで、エピジェネティクスとか遺伝子サイレンシングといった発見のおかげで「見た目上の」獲得形質の遺伝、つまりカンメラーの実験結果が可能性としてあり得ることがわかってきました(もちろんラマルキズムは否定されたままですよ)。

何が正しいかというのは意外とむずかしいですね。
ちなみにダーウィニズム的にとても重要な理論的根拠の「メンデルの法則」ですけど、メンデルのおこなった実験結果がメンデルによって都合のよいように操作されていたものだとわかっています。結果としてDNAが発見されて正しいことになってますが、メンデルの実験がリアルタイムで評価されていたら、カンメラーのようにややこしい毀誉褒貶の定まらないひとになっていたかもしれません。
もしかするともしかして、メンデルは捏造の実験結果で正しい結論、カンメラーは正しい実験結果で誤った結論にそれぞれたどり着いていたかもしれないと考えるのもおもしろいですね。



といったところでパウル・カンメラーの実験からラマルキズム、中立説、分子生物学、エピジェネティクス、遺伝子サイレンシングとスライドして、うまく万能細胞とかiPS細胞につないでSTAP細胞の話にして連想の輪を完結しようと思ったのですが、そこらへんはネット上にもたくさん素敵な解説があるし、もう文章書くのはいいやという長さになってしまったのでここでおしまい。

THE POSTMAN は三度ベルを鳴らす

たまにまぎらわしい映画があるじゃないですか?
最近だと『空の境界(からのきょうかい)』と『空の境界(くうのきょうかい)』とか。



『空の境界(からのきょうかい)』



『空の境界(くうのきょうかい)』

商標とかどうなってるのかよくわからないのですが、まったく関係ないのに同じタイトルがつくのは不思議だなあと感じます。本でもたまにありますよね。

そんなことを考えていたらふと "THE POSTMAN" の名を冠する映画はぼくが知ってるだけで3作あり、しかもそれがたまたま映画というものがどのように受け入れられているのかそれぞれのお国柄がよく出ていることに気づきました。
というわけでイタリア、アメリカ、日本の映画 "THE POSTMAN" を以下に列挙させていただきます。

『イル・ポスティーノ』(イタリア代表)
主演:マッシモ・トロイージ

ナポリの沖合いに浮かぶ小さな島。そこへチリからイタリアに亡命してきた詩人パブロ・ネルーダが滞在する事になった。


『ポストマン』(アメリカ代表)
主演:ケビン・コスナー

ケビン・コスナーが『ダンス・ウィズ・ウルブズ』に続き、監督・主演を務めたヒューマン・ドラマ。退廃した近未来のアメリカを舞台に、人々の心に灯をともす郵便配達夫のドラマを描く。

『ポストマン』(日本代表)
主演:長嶋一茂

“手紙”が運ぶ人と人の温かい交流を描いた心温まる感動作。実直な郵便局員が起こす小さな奇跡を、風光明美な港町の自然の美しさとともに描写する。

それだけ。

わすれかけてたハイレゾリューション

時代の変化でテレビがブラウン管が液晶(一部はプラズマとか有機ELとか)に変わりました。
その結果、解像度は上がったのですがブラウン管とはまったく違う技術のため、引き換えに失われてしまったものもあります。

何を失ったかというと具体的にはみっつあります。
ひとつが「動き」ひとつが「色」そして「音」です。

(※以下うろ覚えの知識をめんどくさいので確かめもせずダラダラ書き連ねます。ここを読んで誰かに知識を披露する際は自己責任でお願いします)


液晶には残像の問題があって(というかブラウン管は残像を利用していたのですが)あまり激しい動きを描写するのに向いていないという特性があります。なのでこれを解消するためにリフレッシュレート(よくスペックとして何 Hz と書いてある数字です。これが1秒あたりの表示可能枚数になります)を上げて中間画像を自動で生成してはさみこんだり、絵と絵の間に交互に黒い画面をはさんで(もしくはバックライトを明滅させて)残像を消してから次の絵を表示したりと工夫の限りを尽くしているのですが、それでも動画として見たときブラウン管ほど自然には表現できません。
とはいえここらへんは技術的な制約で、特に次世代テレビ普及時に動画に強いとされたプラズマテレビと競合してたおかげもあって徐々に乗り越えつつあるように思われます。


次に色ですが、ブラウン管時代はマスモニ(マスターモニター)で色を管理できていました。それはもう技術とエレクトロニクスのソニーさんのおかげで世界基準の同じ色が表示できるようになってました(色温度の設定は国やメディアで異なりますけどね)。それが液晶にシフトしてむずかしくなっております。
マスモニの液晶の問題もあるんですけど、どちらかというとご家庭のテレビが色に対して勝手に加工するのが主流となっていて、しかも各メーカーや機種でやりかたはさまざまなので、基準にあまり意味がなくなりました。


そして最後に音です。これは薄型であることに原因がある気がしますが、スピーカーの性能が下がっているように感じます。人間の五感における視覚の割合はとても大きく(7〜8 割を占めるともいわれます)、テレビはつまるところ「絵と音の出る箱」なので視覚である絵を優先するのは正しい選択ですが、結果として外付けのスピーカーやアンプ、もしくはイヤホンがないと音響面の再現ができないという状態です。

あとまあ全然関係ないところで、昨年からテレビ放送ではいわゆる「ラウドネス」と呼ばれる規定が運用されてまして、これは音でビックリしないようにというもので(みなさまも CM で突然音が大きくなってビックリしたりした経験があると思います。あれをなくすための基準です)、よりマイルドな音でお送りしていたりもします。これがまた意外とよくできた仕組みでうまくビックリできない音になるようにできております。くわしい規定はよくわからないので民放連のホームページをご覧ください。


そんな中、アニメ界に突如としてハイレゾブームが到来しました(ここからが本題)。
「ハイレゾって何よ」といいますと、要するに「とてもいい音」です。
ちなみに CD は 16bit/44.1kHz です。これを mp3 とか ATRAC3plus とかに圧縮してポータブルオーディオ機器で聴くのが最近の音楽鑑賞の主流となっていることを思うとまったく逆の流れです。そしてハイレゾの流行りは CD をはるかに上まわる 24bit/96kHz です。
ぼくの記憶がたしかなら CD の音質って人間の可聴周波数帯域から決められてたとか言ってたはずじゃん!とか言ってもはじまらないので、簡単にご説明しますと、前半の bit であらわされるのが「ボリュームの目盛りの細かさ」で、数字部分は桁数になります。 24bit は二進法の 24 桁ということなので 16,777,216 階調になります(CD は 16bit で 65,536 階調なのでまさに桁違いです)。それだけ細かく音が表現できるということになります。
で後半の kHz ですが、こちらは「時間の目盛りの細かさ」です。 1 秒間を CD では 44,100 回に分けてたのをより細かく 96,000 回に分割しますよということです(こちらは 2 倍強なので桁違いというほどではありませんし、 CD 登場以降で人類が進化していなければ可聴周波数を超えています)。

なのでぶっちゃけ bit とついてるほうの数字のがはるかに恩恵がでかいので(なにしろ桁が変わっていくので)ハイレゾ音源をありがたがる場合そちらを重視するほうがわかりやすいかと思います。

あとはスピーカーやイヤホンがハイレゾに対応できているかですかね。

前述のようにテレビで放送されている音はだいぶエッジが削られて平坦化してますので、 Blu-ray を購入する意味が画質だけでなく音質にも見出せるのではないかとすると、この流れがしばらく継続することを願っております。

4kとか8kとか。

ちょっと前までデジタルカメラメーカーは画素数の多さで競いあっていました。

とはいえ肝心の映像素子/イメージセンサーの大きさ(銀塩カメラのフィルムにあたります)が変わらない中で画素数を競うということは「より細かく区切る」ということなので、結局 1 画素あたりの受光量が減ってるじゃんとかぶっちゃけ画質と関係ないじゃんとか問題も出てきてしまい、あっという間に数字競争以外に意味のないレベルに突入してしまい画素数競争は廃れました。


映像も 4k テレビ(今のいわゆるフル HD テレビが 2k なので 4 倍の画素数になります。映画だとちょっと違うのですがテレビ的にはそういうことです)というのが発売されてまして、今後の主流となってくれないかと業界的には期待されています。
確か 3D テレビの立体視を売り出すときもそんなことをいってましたのであまり気にしなくてよいと思います。


もちろんその後にはアナログ時代から燦然と聳えるハイビジョンの孤峰 NHK が「スーパーハイビジョン」の名称で推進する 8k も控えています(2k の 16 倍、 4k の 4 倍の画素数です。こちらの音響は 22.5ch とか。ちなみに現行のテレビは基本 2ch で映画は 5.1ch のことが多いです。すごいですね)。これは再来年あたりから試験放送するとかしないとかいわれてるので東京オリンピック商戦用になるのではないかと思います。この夢のスーパーハイビジョンは NHK のスタジオパークに行くと見学できます。

技術的には画素数を増やすだけなので、そのうちスーパーハイビジョンとは別の規格で 8k が登場することも容易に想像できます。


画素数でいうと下記のような感じになります。ご家庭のテレビは 4k に買い換えてなければハーフ HD かフル HD です。



ハーフHD   1280*720(921,600)

フルHD(2k) 1920*1080(2,073,600)

4k      3840*2160(8,294,400)

8k     7680*4320(33,177,600)



ここで過日漫画家の大和田秀樹先生からうかがった、大和田先生が大型テレビを購入した際の奥さんの言葉





「画面でかいと面白くなるん?」





を業界人はみんな真剣に検討したほうがよいところに突入している気がします。



部屋の大きさは有限ですのでおのずとテレビの画面には適正サイズというものがあるはずです。

(中略)

ぼくが思うに結論はすでに Apple が出していて、それは Retina ディスプレイです。

これは直訳すると「網膜」です。

残念ながら天国に行ってしまって説明できないジョブズに代わって説明しますとというか彼は日本語できないのでどのみちぼくがご説明しますが、要するに人間の目の解像度を超える高精細ディスプレイです。



画素数競争はもう古い。これからは画面解像度、つまり密度で上限が決まるのですよ。
という話になります。


あと映像は静止画の連続なので 1 秒あたりのフレーム枚数(fps)を上げるという問題もあるのですが、とりあえず「絵」を映す窓としてのディスプレイの要件は最終的に「人間の目」なので「人間の目で本物と区別できない画面解像度」みたいな基準での製品開発がされるといいなあと思います。

アニメは解像度が上がっても描いてる紙のサイズが変わらないとあまり恩恵はないのですが(冒頭のデジカメの映像素子のサイズと同じことですね)、ディスプレイの未来にはとても興味津々なのでそのように考えています。

さて、映像業界の末席に弊社も一応名を連ねてますので実践的な数字を具体的に申し上げておきますと「最低 200dpi 以上/300 超なら安心」あたりではないかと個人的には思いますのでなにとぞよろしくお願いします。

プロ意識と為替レート

円安がなんとなくもてはやされてる昨今ですが、個人的には円高のほうがよいかなあと思ってます。

それはなぜかと簡単に説明すると、円安のが輸出に有利とかありますが、根本的に日本という国が100万ドル持っているとしたら、1割円安だと90万ドルになり1割円高だと110万ドル持ってることになります(よね?)。
なのでたくさんお金を持ってるほうが全体的にやりたいことがやれるし、周囲から円の価値を高く評価してもらっている証左でもあるので、円高はよいことのように思ってます。

さて、プロ意識の話です。
最近音楽の代作問題や論文の偽証問題が立て続いて起こりました。問題そのものは有識者のみなさまが語り尽くしている感もありますし、今後の解明が待たれるところでもあるので置いておくとして、その周辺のプロ意識のありかたについて考えてみます。

大きくは「集団をどう切り分けるか」と「仕事への矜恃」というふたつの問題なのですが、たとえばぼくが福島の原発事故を東京電力のせいだと思ったとします。同様に東京電力のひとが他部署である福島原発の担当者のせいだと思ったり、逆に海外のひとがまるっと日本人のせいだと思ったりもできる気がするのです。
自分が集団の中にいるのか外にいるのかで「当事者意識」の差が出ますし、集団の規定を都合よく変えていけばけっこういろんなことを他人事として処理が可能な気がします。
ぼく自身日本の首相が挑発的な言動や行動をしても「こいつ何やってんだ?」と思っても当事者意識はなかなか持てません。
でも実際のところはともかく海外から見たら(ぼくを含む)日本人という集団の右傾化とか歴史修正主義が見出されるでしょう。

そしてプロ意識とはつまるところ当事者意識なのではないかと最近考えています。

責任感というよりは当事者意識のほうがしっくりきます。ぶっちゃけ偽装は本気でやられたら止めようのないことですからね。

素晴らしいことに対してすげー! 感動した! といいそれが事実でなかったことが発覚するとひでー! 騙された! というのが一般的な反応だとすると(ここにも俺ら日本人すげー! とあいつひでー! の同じ人間を指し示すふたつの集団の切り分けかたがあることが多い気がします)プロはそれではいけないのではないかと思います。
ではプロの意識はどのように働くかというと、やはり当事者として受けとめることが必要だと思います。再発の防止や原因の究明や反省や決意……そのようなものの集合体が意識を切り分けると思います(ひとつのネタで2回騒げて「1粒で2度おいしい」的な考えもある意味たくましいプロ意識かとは思いますが、これはプロ意識というよりはビジネス意識なのだと思われますし、そこには矜恃はありません)。

素晴らしい成功や感動実話は参加者が勝手に増えて当事者集団が拡大していきますが、向き合いづらい事実が判明したときにどれだけ当事者として向き合えるかこそがプロの矜恃なのだと思います。

プロであるマスコミとネットの野次馬が同じレベルの他人事意識でニュースに当たるとしたら、ビジネスとしてはともかくそこにプロ意識は薄いということです。

で、為替レートは自国通貨のプロ意識みたいなもんだなあとぼくは思うので、仕事に対する他者の評価/価値と自己の矜恃/威信/権威が通貨で表されるのであれば(仕事も通貨も低く評価されたほうが楽だよね、というのは正しいですがそれでも)為替レートは高いほうがよい、と。

ここでやっと冒頭につながったので終わり。


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バーナムスタジオ