「プロフェッショナル」の条件

ことのよしあしはともかくとして、東京オリンピックのあれこれを拝見していると、複製時代どころかインターネットによる検索時代/共有時代が到来し、新しい「プロフェッショナル」の条件が生まれつつあるように感じます(ここ数年ですでに「学者」「政治家」「音楽家」あたりの権威は撃墜されてまして、今回は「デザイナー」です)。

とはいえぼくの脳裏に去来する風景は「未来」ではなくて、

「毎度医者を追い出してしまう過疎の村とその村びと」

なので、むしろ「過去」もしくは「人間の本質」みたいなものなのですかね。

結局のところ、「プロフェッショナル」が蓄積してると思われた「技術」や「センス」への信頼が損なわれてしまいましたので、これから求められる「プロフェッショナル」の条件は「完璧なオリジナリティ」か、さもなくばある種の「鈍感さ」とか「ディスコミュニケーション能力」ともいうべきものかその両者な気がします。
ヒトのオリジナリティなどたかが知れてますので一時的にはほとんど後者になっていくかもしれません(もちろんその後揺り戻しがあると思います)。

こうやってある意味守られてきた既存の「プロフェッショナル」が失墜していくのがよいことなのか悪いことなのかわかりませんが、今この瞬間はとても厳しい視線にさらされています。
もし仮にぼくが建築家やデザイナーだとしても後継を志願する勇気はとうていないので、オリンピックを開催するって大変なことだなあと思いました。

今宵われら月を杯にして

ニール・スティーヴンスンひさびさの長編『Seveneves』が発売されてましたのでおくればせながら読んでみました。

『Anathem』や『Reamde』(ひとによっては『The Mongoliad』もですか)でなんかちがうなと感じてたみなさま!
これはまさに

「おかえりなさい!」

です。長い旅(『クリプトノミコン』以降ってことはいったい何年ですか)で、もうSF本流(?)への帰還は望み薄だと思われていた我らが王の凱旋です。

おめでとうございます!

ありがとうございます!

なにしろ冒頭1行目で月が崩壊します。そして7つにわかれた月がたがいにぶつかりあい無数の破片になり、地球を取り囲む「ホワイト・スカイ」となり、重力に引かれた月の破片は「ハード・レイン」となって5000年にわたって地上にふりそそぐことが判明します。「ハード・レイン」が起こるのは2年後。それまで人類に何ができるのか。

てな感じで第1部、第2部は人類70億まとめてぶっ殺す気満々で「もうやめてあげてー!」という滅亡まっしぐらなたたみかけディザスター小説の大傑作です。ここで終わってもまったく問題ないです。というかお腹いっぱいです。ありがとうニール。待っててよかった!

それなのに!
なんでこんなにページがあまってるの?
え? 第3部?
まだ続けられるの?

というわけで第3部の冒頭は極太ゴシックで

「FIVE THOUSAND YEARS LATER」

ですよ。
なんという蛇足!
なんというSF!

テラフォームならぬ「テリフォーム」(荒廃した地球をかつての環境にリフォームするんですからね)まっただ中の遠未来で、まさかのファースト・コンタクトもの(?)に。
第3部で描かれるのはうってかわって可能性と希望を提示するポジティブな人類への讃歌(であると同時に本編としては偉大な蛇足)です。内容は人間たちのドロドログダグダですけど。

好み次第で『スノウ・クラッシュ』派や『ダイヤモンド・エイジ』派もいるでしょうけど、この『Seveneves』がおそらくニール・スティーヴンスンのベストなのではないかなと思います。

 
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The Borough Press
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(2015-05-21)


「冒険小説」という宝

常々レッテルのせいで損をしているなあと思っているのが「冒険小説」と「教養小説」です。
今回は「冒険小説」の話なので「教養小説」は適当に検索していただけますと。こちらもだいぶ損してると思います。


かつて「冒険小説」ブームみたいなのがありまして、船戸与一さん、逢坂剛さんをはじめとした錚々たる作家陣の傑作が次々に世に出ました。
なんか「冒険」というとどうしても『ゼンダ城の虜』のようなものを想像してしまいますが、「冒険小説」はどちらかというと「ハードボイルド」に近しいジャンルで、実際作家陣も重複しています。
現代の冒険の舞台は古式ゆかしい異郷とは限らず、ふとしたはずみで大きな陰謀や謀略に巻き込まれたり、みずから飛び込むことで生まれるのです。その意味で日本の「冒険小説」の源流には(まんがの)『ワイルド7』があるかもしれません。
今思うと「このひとは冒険小説ではなくハードボイルド/ミステリ作家では?」というひと(北方謙三さんや志水辰夫さん、大沢在昌さんあたりまで…)も当時は冒険小説作家として評価されたりもしてましたが、次第にジャンルが拡散してどうでもよくなってしまったように感じます。
まあ広い意味での「冒険」要素はほとんどの小説に含まれてますし、本来「冒険小説」は「おもしろければなんでもあり」のジャンルだったはずが、名称によって足を引っ張られては本末転倒ですからね。

「冒険小説」の傑作群はネットで検索していただくとして。
90年代というぼくの「冒険小説」の時代を特別なものにしてくれた作家として、稲見一良(いなみいつら)さんと谷甲州(たにこうしゅう)さん、多島斗志之(たじまとしゆき)さんを挙げておきます(たまたま難読系の作家さんがならんだので読みもつけて)。

あと紀和鏡(きわきょう)さんですね。

「炭鉱のカナリヤ」

五輪関連のゴタゴタを拝見してると、近い将来著作権法が非親告罪化したときの地獄が脳内シミュレーションされて、今までの匿名の正義の味方のみなさまのご忠言ですら脅威でありましたのに、今後は刑事罰まで視野に入れざるを得なくなるなんて、震えますね。


というわけで変化の兆候を見逃さないためにも、田中圭一さんの今後を注意深く見守りたいと思います。

宮内悠介『エクソダス症候群』

ネット上に「あらすじ」がたくさんあるのでご一読されればわかると思いますが、タイトルにもなっている精神病に立ち向かう医師の苦闘でもあると同時に人類と精神病の歴史でもあり、火星を舞台にしたSFでもあり、奇想の建築物でのいわゆる館ミステリでもあり、どれもべらぼうにおもしろそうで、どの要素をとっても負けるはずのない娯楽作品に感じられるはずです。

ところが、そのような予期とはうらはらに、この作品は平坦であり均質であり限りなく端正です。「物語」が「均等に配分された情報の集積」に還元されていて、「短い小説」というよりも「長い梗概」のほうが似つかわしいぐらいに。

この「配置」は明確な意図のもとにコントロールされていて、たとえば本作のほとんどが展開される舞台、ゾネンシュタイン病院が10の病棟で、本作がプロローグ+8章+エピローグの10章で構成されているのも、物語を一気に転調させるのがそのゾネンシュタイン病院の第五病棟で、(ちょうど真ん中の5番目にあたる)第四章が「ランシールバグ」(この単語をご存じでないかたは読後に検索するのがよいと思います)なのも、もちろん偶然ではありません。

このような建築物的な均整は、読者を信頼しているからなのか、はたまた広く読まれることを想定していないのかはわかりませんが、それ自体とても美しいものです(が、にもかかわらず前半は情報過多に、後半は駆け足というかあっさりしているように感じられるのが小説というもののバランスを考えるうえでおもしろいと思いました)。

ふつう火星で精神でSFだとP・K・ディックが想起されるのかもしれませんが、ぼくの頭に真っ先に思い浮かんだのは藤井大洋作品の、なかでもとりわけ『ビッグデータ・コネクト』でした。
扱っているものはまったく異なりますが、提示された謎に向かうキャラクターの「姿勢」と、作者の「手つき」のようなものがぼくのなかでつながって感じられます。

これはぼく個人の日本SF受容史にもかかわる話なのですが、ぼくにとってざっくり90年代が「谷甲州/神林長平の時代」であり、00年代が「小川一水/飛浩隆の時代」であったように、この2010年代が「藤井大洋/宮内悠介の時代」なのだと思います(ほんとは10年周期ではないのでちょっとズレますけど)。


ともあれ宮内悠介が長篇を書いてくれたことに感謝。

議論のコスト

議論や討論の決着は何によってもたらされるかというと、正しさとか理路とか説得力とか(の場合ももちろんあるのですけど)ではなく多くは「コスト」ではないかという話です。

つまりかなりの頻度で「めんどくさいな」とどれだけ思わせるかで決着がつく気がします。

相手を納得させるために払う労力がここでいう「コスト」です。

「理解力が低い」とか「頑固」とか「ひとの話を聞かない」といったいわゆる「バカ」に類するスキルは議論において相手に莫大なコストを要求するので強力な武器であろうと思います。



ここでおもしろいのは、にもかかわらず結果として導き出される結論は、常に相手が釣り合わないと感じた説得コストの範囲内におさまるため、それなりに妥当ということでしょうか。



サファイア楊令伝

歴史上の人物を女性にするのがはやってるので、天使のいたずらで男女両方の心を持ってしまった男装の麗人が梁山泊を率いて宋と戦う『サファイア楊令伝』というのを考えてみたのですが、楊令は架空の人物でした。残念。

大人の事情台風

あくまで一般論ですが、

論理的/合理的な、いわゆる正しい判断は往々にして「大人の事情」でくつがえされることがあります。あくまで一般論ですよ。

一般論としてこの「大人の事情」と呼ばれるものによって周囲は右往左往したりします。

ところがここで重大な真実を発見してしまいました。

「大人の事情」という名の台風の目にいるのは、実はその名に反して常に「こども」なのです。

「大人の事情」という言葉が表現しているものは実に「こどもの感情」であります。


怒りのカリスマ

優秀なクリエイターさんや経営者のかた、またプロデューサーや編集者さんなんかも含むプロジェクトリーダー的なポジションのみなさまが持つ特筆すべき「能力」とは何かということを考えてみました。

基本的にプロジェクトリーダーのお仕事は、自分もしくは誰かが考えたことを実現し、お客さまに届けるまでに多くのひとに協力していただくことです。「まだないもの」が生み出すビジョンを語り、伝え、誰かに作成してもらう/お金を出してもらう/流通させてもらう……さまざまな協力関係を築くことが必要です。そのためひとつの解は「コミュニケーション能力」になります。

たしかにぼくもふだんそのように申し上げています。

ただ「説明がうまくてもひとは動かない」というケースもよく見受けられますので、ここでいう「コミュニケーション能力」は日常をスムーズに過ごすとか、友だちが多いといったものではなく、ある種特異なものな気がしています。

では「特異ってどんなコミュニケーション能力なのよ」といいますと、

「業務上のプチ奴隷たち/プチ信者たちを集める能力」

です。

そしてその結果がタイトルの「怒り」と「カリスマ」です。
「怒り」と「カリスマ」そのどちらかがあれば「優秀」になりますし、両方兼ね備えた「怒りのカリスマ」どなれば「ずば抜けた優秀さ」となりますし、指揮をとるのがチームならその機能が分離していたりもします。

よく存じ上げませんがぼくのいるアニメ業界だと富野由悠季さんとか宮崎駿さんも「怒りのカリスマ」ではないかと思います。よく存じ上げませんが。

そのようなことを思いました。

本積みの歴史

古来より書物は貴重品であったのですが、印刷技術の発達(と識字率の向上)によって次第に広まっていきます。

古代ギリシャの数学者アルキメデスの著作にはA写本、B写本とありまして、どちらもそれぞれ16世紀、14世紀に行方不明となり、アルキメデスの写本はすべて失われたと考えられていました。
ところが20世紀末に「アルキメデス・パリンプセスト」というものが突然世に現れます。

唯一現存するC写本です。

これがすごいのが「13世紀の祈禱書が実はアルキメデスの写本を再利用したもので、今の技術である程度元のアルキメデスの文章が復元可能」という西洋の文献学だか書誌学だかと現代のITの融合みたいな代物です。
発見から解読への経緯はリヴィエル・ネッツ/ウィリアム・ノエル『解読! アルキメデス写本』にくわしいです。
とてもおもしろいです。

そのような状況は15世紀に一変します。

グーテンベルクのいわゆる「印刷革命」、つまり活版印刷の発明です。
オーウェン・ギンガリッチの『だれも読まなかったコペルニクス 科学革命をもたらした本をめぐる書誌学的冒険』は、コペルニクスが16世紀に著わしたはじめての「地動説」についての書物『回転について』(邦題は『天体の回転について』とか『コペルニクス・天球回転論』とか)の丹念な追跡調査をまとめた本です。これによると当時初版と二版で約1000部、残存率60%ほどだそうです。タイトルは「だれも読まなかった」という通説に対して「ちゃんと読まれてましたよ」という反語です。これが世界に科学革命をもたらした書物です。

以来この印刷革命と物流の整備によってわれわれは大量の書物を安価に享受しています。

その弊害として蔵書の管理という新たな問題に直面することになりました。


最初は本棚に収まっていますが、すぐに不可能になり、床に積まれることになります。
ばらばらに置いていくのは効率が悪いので判型の組み合わせを考慮して時系列に積みます。これが「野面積(のづらづみ)」です。織田信長に仕えたかの有名な「穴太衆(あのうしゅう)」の「穴太積(あのうつみ)」も「野面積」の一種ですし、「備前積(びぜんつみ)」はその美しさのみならず大変精緻な技術で今に至るまで蔵書家の主流となっています。
ただ「野面積」は大小異なる判型が混在する性質上、多くの「空間」が含まれています。これによって空気が通り抜けることができるのですが、大量に書物を保有したい場合(そして書物はどんどん増えていきます)にはこの「空間」すらも効率よく埋めていくことが求められます。

そこで蔵書家の間で生まれた技術が「切込接(きりこみはぎ)」です。書物と書物を密着させて空間が残らないよう整形して積み上げていくため、部屋の空間を無駄なく紙で埋め尽くせます。結果としてその優美さに加えて耐震性も高いことが実証されています。

ただこの「切込接」にも欠点があり、「奥の本が取り出せない」のです。ゆえに蔵書の位置がわかっていても新たに同じ書物を購入せざるを得ない状況が生まれ、蔵書の量は加速的に増大するのです。


恐ろしいですね。



 

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バーナムスタジオ

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