We still fight, fighting in the ninety

「アイドルアニメ」を語るときに「うたプリ」が抜けがちになるという話題を見かけまして、

「まったくだ。よーし『超者ライディーン』も語らねば」

みたいなことを思ってたら、なんか「抜けがち」なものについて考えてたなあと脳内を検索していて思い出しました。



しばらく前の話です。
夜テレビをつけたらサブカルチャーの歴史みたいな番組をやっていて、黒板の中央に「OTAKU」と大書されていて、左右に「渋谷系」「悪趣味系」、下に「90年代」と書かれていました。

内容はわかってないのでこの配置にどのような意図があるのかわからないままなのですが、 J-POP がメインカルチャーとしてサブカルチャーが「渋谷系」ということですかね。

当時のことをふりかえると「悪趣味系」の位置に「ビジュアル系」がくるとぼくなりにしっくりくるのかなとふと思いました。
なんとなくぼくの印象としての90年代は J-POP 黄金時代であるとともに「渋谷系」と「ビジュアル系」と「テクノ」の鼎立時代で、

「ビジュアル系」<「渋谷系」<「テクノ」

の順で「ファンと会話するとめんどくさい度」が上がってく世界だったのですが、実際はどうだったのですかね。

そういえば当時大学に入学してはじめてカラオケボックスに行ったのですが、知ってる曲がアニメソング以外何もなくて途方にくれてるのにまわりは嬉々として J-POP を歌っていてとても肩身が狭く辛かったことを思い出しました。その後サークルのひとたちとアニソンカラオケができたり、 TAITO さんの X2000 (という通信カラオケ)で曲数が格段に増えたりして多少そのストレスは解消されるのですが。

お前は高校まで何聴いてたんだよと問われると


「アニメソングとクレヨン社だよ」


とお答えするしかないので今でも当時の音楽の話題は肩身がせまい思いですが、90年代の音楽における「ビジュアル系」は「渋谷系」と同じくらいには存在感があったように記憶しています。

それにしても「悪趣味系」ってなんだったのですかね? 電気グルーヴとかかしら(上の分類では「テクノ」の頂点です)。それとも音楽の話じゃなかったのかも。
対立してるものではなかったのかも。
とぼんやり眺めててそんなことを考えてたこと自体忘れてしまいました。



天秤の軽重

里見は仕事柄、創業経営者のかた(つまり起業した社長)とお話をする機会がふつうのかたより多いかと思います。

そんな社長のみなさまを頭に思い浮かべつつ会社を起こすひとと起こさないひとは何がちがうのかというのを考えてみたところ、傑出した能力やバイタリティといったプラス要素というより(そういうかたももちろんたくさんいらっしゃいます)、どちらかというとマイナス要素つまり「欠落」なのではないかというのが現時点の結論となっています。

ぼくもそうでしたがふつう起業時に脳裏をよぎるのは「起業にともなうリスク」と「起業する根拠」、いいかえると「恐怖」と「安心」です。
この「恐怖」と「安心」という誰にも保証できない「天秤」のふたつの重しがあるがゆえに、ビジネスチャンスが目の前にあっても軽々に飛びつくひとはそんなにいないのですけど、そこで起業してしまうひとというのも一定数いらっしゃって、これはリスクの恐怖(と根拠の重さ)をあまり感じていないからなのではないかと思われます。
もちろん社長のみなさまにおうかがいするとリスクを把握し、明確な根拠のもと起業したとおっしゃるのですけど、まあふつうのひとはそこで給与生活者の地位を捨てないですよねと感じることがほとんどです。
リスクの把握というのは危機の可能性を見積もる能力です。これが通常人よりも低く設定されてるのではないかと思います。
ドラえもんのひみつ道具でいうと「オモイコミン」を脳内で自己生成してブロック塀のうえをあたかもたたみのへりのようにすっと歩ける感じです。

そして天秤の反対の片方である「根拠」もほとんどの場合はやってみなければわからないので、かなり曖昧なものです。

にもかかわらずなんかこう動きが自然なんですよね。起業に踏み出す一歩が軽いというか。「人生を左右する一生の大事」に向き合うような重い決断といった感じではなく。

これは里見が常日頃提唱する「優秀な起業家/経営者は『信長の野望』のように経営をする」理論とも合致します。


なのでつまるところゲームのごとく「天秤」そのものが軽いのではないかと推測する次第です。



高徳の人

ひとは自己分析が苦手な生き物ですから、自己評価というものはたいてい誤っています。

評価とは他者を評して価値づけるものですから、「傍目八目」といいまして無関係なほど正しくかつ冷酷になることが多いです(これを履き違えて素人のかたが無垢な視点なるもので専門家を見下してるのを拝見することもありますが、これはこれでご本人の意図とは別に自己評価のむずかしさの例であります)。

さて本日は、お仕事をしていて「自己評価は高いのに周囲の無理解で評価が低い」場合どうすればよいかという話です。

ここにはふたつのケースが考えられて

・自己評価が間違ってる
・周囲の評価が間違ってる

です。
あたりまえですね。

ところが冒頭に書いたようにひとは自己分析が苦手なので、どちらのケースなのかを自分で判断するのは大層困難です。

とはいえどちらのケースであっても放置してよくなることはございません。
簡単な対処法を申し上げますと

「徳を積む」

です。

民話や昔話でも徳の高いお坊さんはとても尊敬され、「衆人環視の下/人知れず」偉業や奇蹟をなしとげます。業務において評価が高いとはつまり偉業ですので、このお坊さんはとても参考になります。
他者から賞賛されたいかただと「衆人環視の下/人知れず」の部分が前後どちらなのかが重要かと思いますが、これはあくまで副次的な産物です。徳さえ積めば賞賛はあとからついてきますのでご安心ください。人知れずといっても民話に残ってるのですから結局知られてますし、そもそも高徳のひとは高徳なのでそんなこと考えません。

では肝心の徳を積むにはどうしたらいいかというと簡単で、徳は「善行をおこなう」と積まれるというシンプルなシステムなので、陰に日向に善いことを日々おこなえば徳が蓄積されて周囲のひとも「徳の高いあなたがおっしゃるのでしたら」と耳を傾けていただけるという寸法です。

そうなればしめたものです。
当初の自己評価の正当性は不明のままながら、周囲の評価が高まってるので結果どちらにしても問題解決です。

めでたしめでたし。





知には平和を

ここのところの世の中のできごとから「本音/建前」を経由して「知識」について考えていました。とりとめもなくとくに結論も出ない話なのですが、最近なんでもすぐ忘れてしまうので、備忘録的にダラダラ書き出しておきます。

地方議会での野次問題や、中東の人質問題にいたるまで起こっている事象は「女性蔑視」や「基本的人権」と表面上はまったく違いますが、傍観しているのは同じひとなので同じような結論が導かれます(そして表面上はともかく本質は同じものであります)。

それが「本音/建前」の話です。

おそらく日本は(巷間伝えられるところと異なり)「建前」が弱く「本音」が尊ばれすぎているように思います。

ほとんどの場合、自身の「知識」の多寡は主観ではわからないようにできていますので、問題の発言をされた地方議員のかたも大臣のかたも雑誌記者のかたも新聞記者のかたも、「知識が欠落していたこと」ではなく「みんな思ってる本音を、建前で語るべき場所で発言したこと」が原因と認識されているかと思います。
「本音」にこそ「正しさ」が宿るとされている社会では同じことがくりかえされます。
なぜなら「本音」は「感情」と置き換えても成立するある意味自然なものだからです。

ある対立する立場があると(それは「オタク/一般人」でも「黒人/白人」でもいいのですけど)、だいたいマイノリティであったり社会認知が遅れている守勢側に「知識」が蓄えられます。
強い「本音/感情」に対抗するには「知識」によって(相手にとっての)「建前」を積みあげていくしかないからです。
そうしてつくられた「政治的正しさ」の価値は尊重されるべきものですが、それはそれとして「本音の正しさ」のほうがより優位であるとされてしまうと事態は改善されないことになります。

ぼくはいわゆる「個人の行為や信条」から導かれる「自己責任論」なるものを採らないですし、ましてそのような考えかたをベースに「日本政府や日本国民が救うべき生命と見捨てるべき生命」を峻別する(ことができると思う)のは傲慢極まりないと考えています。できることは「ともかく救え」なのだと思います。
ところがここでぼくは「陥穽」にはまってしまいます。なぜなら生命は日々あたりまえのように失われているからです。センセーショナルなインターネットの動画が伝えるのも、通勤時にJRのアナウンスが伝えるのも、同じ生命です。そこにちがいを生じさせてしまう自分の「本音/感情」の自然なバイアスは、結局「生存権」という根本的な権利においてすら「本音/建前」の線の引く位置のちがいでしかないということですから、これは「陥穽」にほかなりません。

そして民主主義は国民の意見の総和でものごとが決められていくもので、素朴な「本音」こそがすばらしいとなると「国家」も同じ「陥穽」にはまってしまいます。そうならないためのセーフティもしくは制約が「憲法」であったり結果としての「間接民主制」だったりするかと思います。

なので「自己責任」の反対に「仇をとってやらねばならぬ」から「日本人を救えない憲法なんて、もういらない」という意見があるのもまた「本音/感情」の強さの証左ではないかと思います。
このふたつが組み合わさると憲法が捨て去るのは結果的に「戦争放棄」ではなく「基本的人権」のような気もします。


また守勢側の「武器」として用いられる「知識」は往々にして攻撃的になりがちですので、以下に知識の三原則を掲げておきます。


第一条
知識で人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 知識は人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

第三条 知識は、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

未来の収奪

「オリジナリティは常に未来に奪われる」問題というのがありまして、どのようなものかといいますと「伝説的な名作/傑作」と呼ばれる古典を見たり/読んだりしたときに感じる「あれ? こんなもんなの?」感のことです。

それは『七人の侍』でも『宇宙戦艦ヤマト』でも『Yの悲劇』でも『虎よ! 虎よ!』でもなんでもいいです。

それらは同時代のひとに衝撃をあたえ、そのジャンルの金字塔として不朽の名声を勝ち得たものであると同時に、その影響力ゆえに後続のひとたちにリスペクトされ分析され「模倣」されていきます。

結果、これらを特別なものたらしめた肝心の「オリジナリティ」はありふれたものとなり、当時の鮮烈な衝撃は失われます。

人類ではじめて揚げ物を食べたひとはこの世界にこんなうまいものがあるのかと衝撃を受けたのではないかなあと思うわけですもぐ。

「恥ずかしい」ということ

あるニュースを見かけてふたつのことを思いました。

それは「○○が××に出るのではないか」という予測する記事に対して「恥ずかしいからやめてほしい」とするものでした。

記事に対するリアクションとして「もしそうなったら恥ずかしい」と思い発言するのはもちろん自由です。

でも本人や本人を支援、応援するひとたちからしたら別に何もしていないわけです。

勝手に持ち上げられて勝手に貶められて、してないことをよってたかって批判されたらたまったものではないなあという素朴な感想がひとつです。


もうひとつが、世界に発信すると「恥ずかしい」という考えかたについてです。

これはぼくが片隅に身を置くアニメの世界でもつきまとう問題でして、「世界に誇るべき」日本の文化を輸出して広く認知してもらおうというような感じの名分の下、いわゆる伝統文化や和食やファッションとともにゲーム、マンガなどなども「クール・ジャパン」であるとしてアニメもまたその一端を担っています。

そのようなとき、「欲しい」と思うものを目指す大衆文化の多様性とある種の絞り込みによる洗練がもたらす必然として、ソトのひとに見せて「誇らしい」と思うものと「恥ずかしい」と思うものが含まれます。

別に「クール・ジャパン」はありのままの日本を見せたいという話ではないですし、「欲しい」と「誇らしい」では「ものさし」がまったくちがいますからね。

アニメに限らず「クール・ジャパン」な服を着て「クール・ジャパン」な食事をして「クール・ジャパン」な舞台を鑑賞して日々を過ごしているかたもそうそういないでしょうし、その一方で晴れの舞台での一張羅や、ここ一番での豪華な会食も共存していてあたりまえですので、とくにおかしなことではないのですが、すでにある/いる存在に投げかける言葉として「恥ずかしい」のもつ否定的なニュアンスが少し気にかかりました。



というようなことを思いました。
被害妄想的ですかね。


春来りなば冬遠からじ

昔の古本を読んでいたら巻末の広告で鮎川哲也かなんかに「本格の孤塁を守る」という紹介がついてた記憶がありまして、それはそれで「冬」を感じていた当時の「事実」なんだろうなあと思い、その隣にならんでる作家が(現在では本格ミステリの本流と認識されてる)土屋隆夫だったのも「全然孤塁じゃないじゃん」と印象的でなんとなく覚えています。

という突然の前置きからはじまりますが、「本格ミステリ冬の時代」があったのかなかったのか論争みたいなのがありまして、あったのかなかったのか話が周期的に起こっているのです。

しかもややこしいことに肝心の「本格ミステリ」とは何かというのはマニアであっても(というかマニアだからこそ)決して踏み込んではいけないとされている面倒くさい領域の話になってしまいがちなのです。

個人的な認識として、ミステリにおける「本格」は「ジャンル」よりも「伝統」に近いものでありまして、「この要素をそなえているから本格である」といった客観的なくくりではなく、読者が「これは本格の伝統に則っているから本格である」と判断するものだと思っています。

ではここでいう「伝統」なるものはどのようなものかとなるわけですが、それは「自分や周辺が蓄積した、時間的な好ましい知識の集合」です。
「時間的」というのがポイントで「伝統」はあらかじめ存在しているものではなく、どこかの時点で気づき過去のなかに現在へとつながるルートを「発見」するものです。
さらに本格ミステリには「伝統」を強化しやすい要素が含まれているのだと思います。もともとミステリはその仕組み上、過去作品を踏まえて複雑化していくようになってますので「伝統」を見出しやすいですし、ミステリに限らず「本格」と呼ばれるものの多くは「夾雑物」を嫌う傾向がありますしね。

まあなので「この時期はこういった本格ミステリの傑作がこれだけ出版されてるから『冬の時代』とは呼べない」という反証に対して「だがわれわれは飢えていた」という「あった/なかった」は日常生活にたとえると

「金は充分あった」VS「でもしあわせじゃなかった」

みたいな対立軸なのかもしれませんね。

「社会派の時代」はいわれてるよりも短いし「幻影城」休刊から島田荘司デビューまでは2年しかないしと(別に社会派と本格は対立概念ではないので両立しますし、「幻影城」があったからって本格が守られるというものでもないんですけど)、部数はともかく出版点数的に「冬の時代」の存在を裏づけるのは困難でありながら、でも当時の証言としては「冬の時代」だったということは充分ありえて、それは作品としては存在していたがそれはあくまで個別のもので「ムーブメント」には結びついてなかったとか、「夾雑物」によって「本格」とは認められなかったとか、結局のところこれは自分史のなかでの「伝統」の位置づけのほうが、「現実」よりも強固であろうということです。

というわけで「冬の時代」は寒いといえば寒いし寒くないといえば寒くないという体感の話で「不景気」と似ている、と。


(明確な物証をともなう本当の冬の時代というのもかつて存在していて、それは検閲が乱歩を追い込んだ1930年代後半から1945年までです)


ここはすでに怪物領域

ひとの心にも社会にも「怪物」はひそんでいて、気づかないふりをしたり別の名前をあたえることでやりすごしています。

いわゆるクレーマーやモンスターペアレントになったりするのは本当は特別なひとたちではありません。むしろその行為が正当であると信じるがゆえの「強烈な正しさ」に突き動かされています(本人たちは加害者ではなく被害者だと思っているでしょうし)。

それを観察するぼくも「クレーマー」や「モンスターペアレント」と名前をつけることで彼岸の怪物領域を設定して、彼ら/彼女らと自分のあいだに線を引いてしまいます。その名前はひとによっては「おたく」かもしれませんし「在日」かもしれませんし「ドキュン」かもしれません。
みんな怪物領域を遠くに設定してみずからの安心をつくりだしています。

自分が怪物に思考を奪われているかの判断基準ですが、簡単にまとめると

(「行為」ではなく)「存在」への正当な怒り

はだいたい怪物の仕業です。

つい言葉に皮肉や嘲りを込めてしまったときにやっと気づくのですが、「不快さの排除」を裏づけるような「正しさ」が心に浮かんだ時点で足元はすでに怪物領域に踏み込んでいて、そのあまりの地続き感と平坦さに驚かされるのであります。


あのころの未来にぼくらは立っていない。

新年明けましておめでとうございます。

アニメに限らず「娯楽」は同時代のひとのためにあって、別に未来予測をしてるわけではないので、作中で描かれる年代と現実世界のあいだにはなんの関連もないのですけど、それでも『ジェッターマルス』と『新世紀エヴァンゲリオン』というふたつの作品によって、アニメ的に2015年は少し特別な年です。

まさか20年後でもまだ『ヱヴァ』の完結を待ちわびているとは思いませんでしたよね。
ちなみに74年『宇宙戦艦ヤマト』から79年『機動戦士ガンダム』とかもろもろのロボットアニメや、『未来少年コナン』から『紅の豚』までまるっと宮崎アニメを含んで95年『新世紀エヴァンゲリオン』まででざっくり20年です。
こうしてみるとここ20年の「アニメ」はその幼年期の終わりというか、進化の停滞期にあるように感じます。

先日申し上げた昭和換算だと2015年は昭和90年ですので、また区切りとなる出来事が多くなるのではないでしょうか。


ともかく未来をあたかも希望や夢に溢れたものであるかのように扱うのはよろしくありません。
残念ながら未来にはまだ何もありません。
確固たるものは実に過去だけです。

未来は何も確定してないのですから、不安と畏れで語るぐらいがちょうどよいかと思います。

でないと滅びます。

そんなわけで弊社が滅びぬよう、今年もよろしくお願いいたします。


恋愛成就物語としてのデビルマン※デビルマン関係のきなみネタバレ

永井豪先生の『デビルマン』は言わずと知れた漫画の金字塔であり、「神話」であります。



そして実は恋愛の物語でもあります。

飛鳥了の不動明への。

一方的な狂おしい恋愛。



『デビルマン』において最終戦争の果てに愛する不動明を殺してしまう最悪の決裂を「こんなのやだ」と永井先生と飛鳥了は歴史をやりなおすべく『新デビルマン』を描いてみたものの、やっぱり歴史を変えることはできず結局前と同じく溝は埋められることはなく決裂で終わってしまいます。

でもこれではいけないあきらめきれない「今度こそ深く深く反省をして絶対恋愛を成就させるのだ」と強い決意で永井先生と飛鳥了は「不動明への贖罪と反省」を大長編『バイオレンスジャック』で延々と描いたけど、それでも結末までいったらなんとやっぱり決裂してしまって、

もうこうなったら「不動明を女性にしてしまおう」とまで思いつめて『デビルマンレディー』になります。

ふたりの関係性を修復するには『バイオレンスジャック』でおこなった「ふたりのためのフィクション世界」を構築するだけではまだ足りず、フィクション世界とメタ・フィクション世界を描いて不動ジュンを母体として越境することで、やっとふたりは手を携えて神との戦いに挑めることになります。



というまあ足かけ30年近くにわたる愛とすれちがいの物語でもあるわけです。



その後『天空の狗』の不動明ではあれ? と思わされたものの、今回の『デビルマンサーガ』は冒頭からついに30年がかりで手を携えたふたりの「その後」が明示され、タイトルからも、ラストで不動明が登場した『マジン・サーガ』を想起させ、いやがおうにも期待が高まりますね。

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バーナムスタジオ

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