お勧め本について

「自分の好きなもの」と「他人に勧めるもの」って同じようで違いまして、その区別がつかないひとは、自分勝手なふるまいをしているように見えてしまいます。
肉が嫌いなひとに「俺はステーキ好きだから食えよ」と押しつけたりしてはいけないということですね。
このブログでもたまに本について書くことがあるのですが

『これは「自分の好きな本」なのか「他人に勧める本」なのか』

の判断は常に迷います。

それはこのブログを読んでいる奇特なかたがたが期待しているのは、ぼくのアニメプロデューサーや経営者の側面「ならでは」のものではないかという予想もありますが、それ以前にぼく自身「好きなもの/勧めるもの」の差異がよくわからなくなっているのが大きいです。

書籍のヒット作を「ミリオンセラー」と呼びますが、これは100万部なので日本の人口の1%以下です。さらにぼくが読んで喜んでいる本は海外翻訳やジャンル小説のことが多く、つまりぶっちゃけ部数が少ないことが多いです。
なのでよく考えたら読書を愛好するひとがそもそも好事家で、そのなかでもさらに選りすぐりの好事家向けのことしか書けないということです。

ここで里見が学生時代に選んだ国内ミステリのベスト12の写真が出てきたのでせっかくなのでダメなマニアがどれぐらいダメなのかを示すためにあげておきます。誤植は気にしないでください。



こんなひねくれた人間がまともな本を他人にお勧めできるはずがないという見地から、あまり本について書かないというスタンスでやっています。

いやそうじゃない。今日書きたかったのはシリーズの途中でおもしろい作品に出会ったらどうするのか問題です。
たとえば谷甲州の傑作SF『軌道傭兵』シリーズ(リンクはKindle版)を読んでいたら途中のある巻で、突然ミステリものに出くわしたとしましょう。しかもそれが「史上最小の密室」という意欲的な試みだったとしたら、それはミステリ好きの知り合いに勧められるのかどうか。当然シリーズものなのでそこまで語られてきたいくつもの事件を経てのキャラクターの配置や人間関係は知っておいたほうが楽しめます。
たまにそういう作品に出くわします。

また「シリーズものを読み続けてきたことのご褒美」みたいなケースもあります。長いシリーズだと大変なので2作でわかる例を挙げると、七河迦南『アルバトロスは羽ばたかない』のおもしろさは『七つの海を照らす星』を読んだ後のほうが絶対にいい、というようなことです。

こんなことを突然考えてたのは、マイクル・シアーズの『秘密資産』というのがとてもおもしろくて「これはひさびさにブログでみなさまにお勧めせねばなるまい」と思ったけどこれ『ブラック・フライデー』の続編だ、と躊躇してしまったのです。
前作の『ブラック・フライデー』ももちろん安心してお勧めできるおもしろさなのですが、ちょっと最後のまとめかたが好みではなかったのでスルーしてました。
で、前作を読んでいないと『秘密資産』のおもしろさは減じてしまうので、ぜひあわせて読んでいただきたいのですが、みなさまもお忙しいわけでそれもハードル高いかなあとか思うわけですね。

そんな多忙なみなさまにお勧めなのがロジャー・ホッブズのデビュー作『ゴーストマン 時限紙幣』です。ぜひお読みください。

 
ロジャー ホッブズ
文藝春秋
¥ 1,944
(2014-08-08)


ゲームと書籍と未来の歴史

いわゆるゲームがソーシャルゲームに、書籍が電子書籍になっていく流れを「文化」として語るとはどういうことかという話です。

「文化が続く」とは何かを里見なりに突き詰めていくと最終的に「過去の参照が可能であること」となります。

ちなみにぼくのいる映像業界も世の趨勢には逆らえず、すでにフィルムを捨ててデジタルデータになってるのですが、なんかいつのまにか一周してまた長期保存用にフィルムが使われるような流れになっています。富士フィルムのETERNAですね。
一方で過去のフィルムはどんどん朽ち果てていってるので問題は山積みではありますが、なんとか映像を「未来への遺産」として残す技術は開発されています。

さて本題。
ゲームには大きくふたつの「保存方法」があって、ひとつは「デジタルデータを保存する」でもうひとつが「物理実体を保存する」です。前者はようするにエミュレータですね。後者は博物館です。

http://www.asahi.com/culture/update/0921/OSK201309210002.html
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/1403/12/news025.html
http://www.pcworld.com/article/248571/why_history_needs_software_piracy.html


ではこれからどうなっていくのか。日々サービスインしクローズしていくソーシャルゲームを歴史としてどう残すのか。実体のないデジタルデータは「同時代での共有」において最強ツールですが、時間経過に対してはとても脆弱にできています。
今はまだ「記憶」で歴史を参照できるかもしれませんが、10年後そして100年後になって「今」が「歴史」として「過去を参照」できるのかというのが問題です。

そして電子書籍にも同じ問題が起こりえます。
紙はいろいろいわれますが経年に比較的強いので、平安時代を生きた藤原道長の日記、それも本人直筆の現物が1000年経った今でも読むことができます。これはすごいことで、西暦3000年に現在のデジタルデータとして保存された文書を伝えられるのかというと微妙な気もします。
今は書誌学派のみなさまががんばっておられるので大丈夫ですが、これから先は電子書籍の保存を考えていかないといけない時代が到来しそうです。

里見は産業構造の変化に対して「○○は文化だ」とか「文化を守れ」とおっしゃるかたがたにはどちらかというと冷ややかな立場なのですが、かといって無邪気なデジタル礼賛でもありません。
その理由は実体の有無や愛着ではなく、時間を超えられるかどうかにあります。


(※元は長文だったのが書いてる途中でアプリが落ちて全部消えたので、ざっくり記憶で書いて推敲しないでアップしますよ。しょんぼり)

国家という名の虚構機関

自分の好きな小説の傾向を分析すると「虚構度の高さ」がかなり重要で、だから虚構のカタマリのようなSF、とりわけ「ワイドスクリーン・バロック」なんかに惹かれるのだと思います。

個別の作家だとマルグリット・ユルスナールやスティーヴン・ミルハウザーやリチャード・パワーズやニール・スティーヴンスンやガブリエル・ガルシア=マルケスなどなどになるのですが、

同様に国家レベルでの「虚構」を構築しているケースがあって、アメリカの「グレート・アメリカン・ノベル」や南米の「幻想文学/マジック・リアリズム」やフランスの「ノワール」、ソ連/東欧の「SF」など……
その「社会」の(独裁や失政や社会主義といった)歪みや異質性の産物としての「小説」は、作家が所属している社会の(ぼくからみた)虚構度が高いので、おそらくその社会の必然であるにもかかわらず何もかもが「強靭な虚構」のカタマリ、つまりふつうにありのままの社会を描写するだけで「虚構」になってしまうのでとても好ましいわけです。

この「社会」の下駄を履かされた状態でくだされる作家/作品評価は適正かというと微妙なのですが、作家の才能の半分は「環境」なのでいたしかたありません。


まあもしジャパンがクールに見えるというのであれば、そういうことなのかなと思います。

たまたまのたまもの

フリーランスのアニメプロデューサーなんてことをやってると「どうやってなったのか?」と訊かれたりします。自分の現在の居場所が他人から羨まれるような立場なのかというと個人的には首肯しがたいところではありますが、アニメが好きでアニメの現場にいるのは事実です。

実はこれ本来不要な職掌ですので、同業のかたから見ても弊社が10年以上にわたって成立してる不思議な現実に首を傾げるのは理解できます。
これには業界でささやかれるふたつの仮説がありまして、ひとつは「親が金持ちである」でもうひとつが「金持ちの親の遺産を相続した」で、このふたつの違いはぼくの親の生死だけなのが少々気になりますが、今後の検証が待たれます。

さて「どうやってなったのか?」はアニメのグッズ屋さんにたまたま入社してたまたま転職したらたまたまアニメをつくることになってたまたま独立してみたら意外と仕事をいただけてたまたま10年以上続いてしまっただけなので「運」以外のなにものでもなかったりします。

そして「運」はだいたい「ヒト」と「タイミング」でできてますので、もう一回人生をやり直したらまったく違う職業に就いているだろうことは想像にかたくありません。

「ヒト」と「タイミング」がズレるとあのラオウやトキですら北斗神拳の継承者になれないわけで、これはもう「運」としか申し上げようがありません。

現状から過去を眺めてそこに何か一貫した目的とか筋をあたかもあったかのようにならべることはできても、自分で自分の未来の人生をデザインするというのはおよそ不可能です。

あえて言うならなにごとも「深く検討しない」ことですかね。即断即決で。



なんでもかんたん刑

※半年ぐらい前に書いてアップし忘れてたエントリーを見つけました。特に書くこともないのであげときます。



最近いろいろ考えまして、なんでもかんたんなこととしてお話することにしました。

「こういうことってできますかねえ?」
「かんたんですよ」

「大変申し訳ないのですがこういった追加作業をして欲しいのですが」
「かんたんですよ」

といった感じです。
なんでもむずかしそうに語るほうが仕事的にはよろしいというのはこのブログで以前「いつも心に黒い箱」の中で申し上げたことですが、これは器の小さいクライアントが多いことが原因とはいえ自分も同じレベルで対抗措置を取るのは器が小さいなあと思い直しまして、ここしばらく「なんでも安請け合い」を実践しています。「おたがいガードを下げたほうが楽しいよ」派としてはまず自分からガードを下げないといけないですからね。

というわけで内容の難易度にかかわらず「かんたんですよ」とお答えしております。
まあだいたいの作業はステップをかんたんになるまで分割してご説明するので、ほんとにかんたんなんですけどね。


どうしたらアニメの仕事に関われますか?

というご質問を学生さんからいただく機会なんかがありまして

「とりあえずどこでもいいから就職して『アニメに関わりたいです』と言い続けること」

とお答えしました。
それでよかったのかどうかわかりませんし、学生さんたちはまだ選択肢も多いですから何を選ぶかもわかりませんが、とりあえずぼくの意図としては、

その就職先がアニメに関わるメリットがあれば(会社は利益を求めますので)そのうち願いはかないますし、それがダメでも気づかぬうちに社会経験はプラスになっていて、「社会経験を持ったアニメ業界就職希望者」にクラスチェンジしてるので、まあ無駄にはならないのではないかということです(これが「アニメプロデューサーになりたい」とか「アニメ監督になりたい」と具体的な目標が設定されてるなら別ですが)。

ぼく自身とてもふわふわした立場でアニメ業界を漂っているのですが、たまーに面接なんかをする機会もあります。
ところが学生さんの場合みんな「学生」という同一線上に並んでるように見えるのですね。それはそうですよね。ごく一部のかたをのぞいてはじめて就職するのですから。
で、みなさん薄々お気づきかもしれませんが、面接の弊害は話術がたくみなかたが有利になりがちなことかと思います。
これを面接官のかたがたは脳内で是正しながら採用した場合の戦力分析とかをしてるのではないかと想像するのですけど、面接を受ける側の対策として「どこかの会社で1〜2年働けてた」という実績を示すのはとても大きなプラスではないかと思います。
少なくともぼくはそうです。

アニメスタジオも一応会社なので「会社員ができる」ことがある程度保証されているのはとてもありがたい話です。ましてアニメを仕事にしたいほど好きだなんて。
もう何もいうことがありません。

その後、イメージとちがったとか適性がなかったとかいろいろあるかもしれませんが、これでスタートラインに立つことはできるのではないかなあと思います。

がんばるは一時の恥、がんばらぬは一生の恥

「一所懸命がんばること」がカッコ悪いとされる時代や場所がありまして、ぼくはそんな空気にどっぷり漬かってきたので勉強も仕事もあまりがんばらない人間になってしまったのですが、この歳になって深夜に『アオイホノオ』とか観てると「周囲の目なんか気にしないでガムシャラにがんばればよかったなあ」と思ったりします。
人生において、周りのひとたちはどんどん入れ替わっていきますが自分は変わらないので、たとえがんばる(ことを見られる)ことが恥ずかしくても、しょせん一時の恥でしかないので気にしなくてもよかったのですよね。

何をがんばればいいかわからないというのもありますが経験上、手段が先にあって「目的があとからついてくる」ことが多いので、なんでもいいから動くのがよいかと思います。あたりまえのことですが、手段という道具/手札が多く深いほど、いろいろな目的に到達できます。そして周囲の目はつまるところ多数決原理ですので、ひとを平均化していきます。
だからいつの日か「目的」がなんだったらわかるぐらいがちょうどいいですね。

頭のよさ/悪さ問題

「このひとは頭がいいなあ」と思ったときはだいたい正解で、実際ほとんどの場合、相手のほうが頭がいいはずです。ただ自分が理解できる範囲なので「少しの差」にとどまることが多かろうと思います。
ところが「このひとは頭が悪いなあ」だと相手と差があるのは確実ですが、どちらが頭がいいかはわからないです。わかるのは「大きな差」があるということだけで。
多くの場合双方が相手のことを「頭が悪いなあ」とたがいに思っているはずです。
それぞれ所属する環境が違うなら特にその傾向は強まるはずです。「常識」に類するものは環境に既定されてることが多い、いわば「母集団ごとの多数決の結果」みたいなものですからね。

なのでその環境ごとのジャッジはできると思いますが、しょせん「身の回りの多数決」でしかないのでどちらが真に優位かは慎重に判断する必要があると思います。


アニメが増えてる?

今回はちょっと体感ベースに基づく与太話で、あまり厳密なものではありませんので話半分でお読みください。


さて。ぼくのぼんくらな予想では日本のアニメの今後は「タイトル数が増えて生産量が減る」つまり従来2クールでつくられたであろう作品の一部が1クールに、30分作品の一部が5分にスライドしてリスクヘッジをしつつタイトル数を維持しようとする動きになると思っていたのですが、どうも2006年をピークに減りつつあったはずなのに最近ほんとに増えているような気がします。しかもなぜかクオリティを上げながら。

これは複層的な要因があると思います。
まずお金を投資する側としては「不景気」が挙げられます(「不景気」だと言葉が強すぎですね、景気のよさが足りないぐらいです)。
これはいわゆる「倒産直前の出版社は出版点数が増える」現象です。お金がないなら出版点数を絞るほうがよい気もしますが、実際には大量に出荷して目先のキャッシュをゲットして資金繰りをなんとかしようとしてしまいます。ここでヒットが出ればよし、ダメなら傷口を大きくします。
ここでは別に倒産ほど極端な状況でなくて「期末までに売上目標に達するために商品ラインナップを追加する」というどの業界でも割合よくある話です。今まで2タイトルで稼ぎ出していた売上をつくるのに3タイトル必要になったとかそんな感じです。あと年末や年度末の Blu-ray BOX で「お。よくこんなの出したな」というのがあれば、それはもしかすると「数字合わせ」のおかげで世に出せたものかもしれません。ほんとにありがたいことです。

また委員会組成が少し変わりつつあるのもあります。かつての圧倒的なビデオグラム依存から脱却しつつあるともいえます(ビデオグラムのマーケットは別に拡大していませんので、単純に供給量を増やしてもしかたないです)。ここにソーシャルゲームや遊技機といったここ10年の新しい出資者の登場や、アニメに出資をして作品を育てようという原作元さんの積極策などがあいまって委員会のバランス調整局面に突入しています。

また、もっとつきつめると単純にプレイヤーが増えているというのもあります。上記の新しい出資者だけでなく、たとえば既存の東宝さんとかワーナーさんのように最近アニメに積極的になった映像メーカーさんも増えましたし、アナログ放送が地デジになったら番組表を見るのが新聞からEPGに代わり、その結果認知度で損をしていたいわゆる旧U局がV局と横並びになって存在感を増して、アニメを流す枠も増えました(このEPGの視聴習慣への影響は実はかなり大きいと思います。里見はアナログ時代とくらべて得をしたのはテレビ東京で、損をしたのがフジテレビで、これは横の並び順によるスクロールの手間によって発生している説を提唱しています。里見が単にNHKを軸にしているからかもしれませんけど)。

そんなこんなでアニメがたくさんつくられていて、いい時代にめぐりあえてよかったです。
クオリティが上がった理由についてはまた後日気が向いたら書くかもしれないし書かないかもしれません。



検閲とミステリ

以前 tumblr に書いたものです。


“日本が戦時体制を強化していく1937年(昭和12年)頃より、戦時においては不適切なものの一つとして、探偵小説は内務省図書検閲室によって厳しく表現が規制されるようになった。一説では、内務省のブラックリストに載っていたという乱歩は、その文章表現が厳しい検閲にさらされることになった。1938年(昭和13年)9月より刊行開始の新潮社「江戸川乱歩選集」においては、特に1939年(昭和14年)以降より検閲が激化し、無茶な削除訂正が頻発するに至った。また、この1939年(昭和14年)に「芋虫」が発禁になっている。結局1941年(昭和16年)に入ってからは原稿依頼も途絶え、旧著もほぼ絶版という状態に立ち至ったのである。
太平洋戦争に突入すると、もはや探偵小説は少年ものですら執筆不可能となり、乱歩は小松竜之介の変名で子供向きの科学読み物「知恵の一太郎」等を書くに至った。”
江戸川乱歩 - Wikipedia


ミステリ史における国家の「検閲」だとこの「乱歩全滅」が最大の損失だったと思います。

人気作家だった江戸川乱歩は検閲によって執筆活動の継続が困難になり息を潜めて戦後を待つことになるのですが、乱歩本人の言葉を引用すると

『昭和十六年には、僅かにお目こぼしに預かっていた私の文庫本や少年ものの本が、全部絶版にされ、印税収入皆無になっていた。政府の情報局の意向に脅えて、本屋が私のものを全く出さなくなったのである。[中略]私はいくらかでも収入を得ようとして、とうとう妥協したのである。「筆名を変えて、健全な教育的な読み物を書いて見ませんか」という「少年倶楽部」の勧めに応じたのである。』

てな感じでこども向けの『新宝島』(あんまりおもしろくない)のあとに小松竜之介名義で『智恵の一太郎』(乱歩らしくないけどまあまあおもしろい)を書くことになるのですけど、検閲問題は当然、乱歩だけではなくて。

常々理想のミステリガイドは「10年ごとのベストの選出」と申し上げて10年単位でジャンルの盛衰を見守るぼくですら、こと戦争に向かい敗戦にいたる昭和11〜20年では、久生十蘭『魔都』、蒼井雄『船富家の惨劇』、海野十三『深夜の市長』、木々高太郎『人生の阿呆』、角田喜久雄『髑髏銭』ぐらいしか候補作を満足に提示できません。しかも発表時期は10年代前半に偏ります。検閲がはじまるんだからあたりまえですけど。
さかのぼれば日本初の長編ミステリである小酒井不木『疑問の黒枠』(あんまりおもしろくない)が書かれた昭和2年からほんの10年足らずで、江戸川乱歩『孤島の鬼』、浜尾四郎『殺人鬼』、夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』などを生み出してしまった日本ミステリはその豊饒なまでの異形の進化の途上、エロ・グロ・猟奇に対する良識ある検閲に(時節にそぐわないという理由で)一度殺されたのだと思います。

というわけで、ほんと戦争も検閲もよくないですね。


似たような過去の記事。

四ッ谷とインディアナポリス

娯楽レギュレーション

空気検閲の時代


 

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バーナムスタジオ

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