ボストン・テラン『その犬の歩むところ』

 

『神は銃弾』にはじまり『音もなく少女は』で到達した、厳粛とも崇高ともいえる領域によって、ボストン・テランは特別な作家となりました。

そんな特別なテランが本作で描いたのは「犬」「旅」「アメリカ」そして「いつものボストン・テラン」です。

 

チャーリーとジョン・スタインベックが旅したころから、いやもっともっとはるかな昔、おそらく最初の人類がベーリング海峡をわたったそのはじまりのときから、ひとと犬はたがいを友としてアメリカを旅をしてきました。 そして旅はアメリカの現在だけでなく歴史そのものとも向き合わせてくれます。風土もそこで暮らすひとびともみな積み重ねられた歴史の先端ですからね。

 

思えば21世紀のアメリカは苦難と忍耐とその反動に翻弄されて、今もその渦中にあります。

 

今回ボストン・テランがギヴという犬の旅を通して描き出したのは、ひとと犬との特別な関係だけでなく、9.11とカトリーナとイラクを経たアメリカにたちこめる困難と、それにあらがう意志です。

デビュー作『神は銃弾』以来の、暴力と運命と不屈の意志を浮かび上がらせる静寂と狂熱の混在する文体は変わりません。が、本作では視座を高低自由に移行する複層の三人称となっています。これは旅の途上で出会うモザイクのようなアメリカの断片を描くために、そして犬という友を描くために選びとられたものです。結果として文章はときに卑近にときに飛躍し、より詩的で、アメリカへの信頼に満ちた作者自身の切実な言葉に感じられます。

苛酷な世界はひとに犬に理不尽な死をもたらすことはできても、死者が生者の道標となり、運命に翻弄される生者を善き意志へと導く歴史の積み重ねを止めることはできないのだと、あたかも深く傷ついたアメリカへの真摯なセラピーであるかのようにくりかえしくりかえしテランは語りかけます。

 

それだけ現実のアメリカは傷ついているともいえるのかもしれません。

 

犬はかつて神に逆らい、ひとに寄り添うことを選択しました。はたしてひとは犬の信頼に応え、犬がともに歩むにふさわしい魂の持ち主なのか、これはそんな問いを抱えたひとびとが不条理にあらがいつづける、崇高な魂と救済、奇蹟と希望の物語です。

 

いままでになくストレートなメッセージだと感じるかもしれませんが、もちろん同時に「いつものボストン・テラン」でもありますので、今までボストン・テランを読んだことのあるかたもないかたも安心してお読みください。


宮内悠介『あとは野となれ大和撫子』

 

デビュー以来のめざましい活躍の到達点として、そして、(デビューから『カブールの園』までを第一期とすると)新たな第二期の到来として、宮内悠介の本作は記憶されていくのではないかと思います。

あらすじは以下の通り。

中央アジアのアラルスタン。ソビエト時代の末期に建てられた沙漠の小国だ。この国では、初代大統領が側室を囲っていた後宮(ハレム)を将来有望な女性たちの高等教育の場に変え、様々な理由で居場所を無くした少女たちが、政治家や外交官を目指して日夜勉学に励んでいた。日本人少女ナツキは両親を紛争で失い、ここに身を寄せる者の一人。後宮の若い衆のリーダーであるアイシャ、姉と慕う面倒見の良いジャミラとともに気楽な日々を送っていたが、現大統領が暗殺され、事態は一変する。国の危機にもかかわらず中枢を担っていた男たちは逃亡し、残されたのは後宮の少女のみ。彼女たちはこの国を――自分たちの居場所を守るため、自ら臨時政府を立ち上げ、「国家をやってみる」べく奮闘するが……!?

内紛、外交、宗教対立、テロに陰謀、環境破壊と問題は山積み。
それでも、つらい今日を笑い飛ばして明日へ進む
彼女たちが最後に掴み取るものとは――?


地理、歴史、政治、民族、宗教が複雑に入り組むわれわれ日本人には特異な環境を舞台にした、現代の痛快冒険活劇となっています。

あらすじから酒見賢一の『後宮小説』やアンソニー・ホープ『ゼンダ城の虜』みたいなのかしらと読みはじめたところ(それもまちがってはいないのですけど)、なぜか脳裏に浮かんだのは稲見一良、それも『男は旗』でした。
もちろん内容の接点はないのですが、現代を舞台に描かれたまっすぐなファンタジイとして、ぼくの中でつながったようです。『男は旗』から時代を経て21世紀、現代社会はより複雑さを増し、男たちよりも女の子が元気になってますが、あいかわらず、何かに立ち向かうひとは旗のようであり、吹きつける風が強ければ強いほど、旗は美しくはためくのでした。

あと、この連想にはもうひとつ要因とおぼしきものがあって、それは今までの作品と較べて「リアリティの基準が変わっている」というか「少しフィクション/ファンタジイの側に踏み込んでいる」のです。
主観なのでなんともなのですが、たとえば福井晴敏作品ですと『終戦のローレライ』のときに感じました。
それはたぶん、いいかたを変えると「その作家が許容できる小説の嘘の範囲が意識的に広げられたとき」なのです。あくまでぼくが勝手に読み取るんですけどね。
そして稲見一良だと『男は旗』がそれにあたります。

そのような「変化」を、ぼくはこの『あとは野となれ大和撫子』にも感じました。

アラルスタンは架空の国ですが、地政学的に中央アジアがいかにも産み出しそうな小国です。ここでくりひろげられる冒険は多種多様な現実にしばられて少し苦しそうにも思えますが、実際は順序が逆で、少女たちが(政治的にも)冒険できるほどまでに現実が拡張されているのです。
この好ましい「変化」に加えて、全編を貫く「ユーモア」と「理想」も、過酷な現実と常に対峙していて気持ちがいいです。

あと今回は「連載」というスタイルも奏功しているのではないかと思われます。

というわけで、宮内悠介ver.2.0の開幕といってもいい本作が、広く読まれることを心より願います。


それでも世界は少しずつよくなっている

今は昔、うっかりニコニコ動画さんを批判して炎上してしまったことがありました。

当時はアニメが放送されたり、パッケージが発売されたりするとすぐにどなたかがアップロードしてしまうような環境で、ニコニコ動画さんの対応は、

 

アップロードされた映像が公式か非公式か判断するすべがないのでそのまま放置する

 

というもので、まあ当時は全部非公式だったんですけどそんな感じで。

お客さま(?)の反応も、アニメのいわゆる違法アップロードは、観たいものを観ることができないひとたちの要望をかなえているのだからぼくら「制作者の怠慢だ」というものが大半でしたし、雑誌の取材をうけたらプロであるはずの大手出版社の編集さんから「宣伝になるからプラスなのでは」といわれたりさんざんでした(いちおうプロのかたですのできちんと「じゃああなたの雑誌をスキャンして毎週ネットで無料でばらまくので宣伝になったありがとうとぼくに感謝してくださいね」とお答えしました)。

 

それから10年近く経ったでしょうか。

 

その間にニコニコ動画さんからもアニメの違法アップロードはほとんどなくなり、今は「キュレーションサイト」が炎上しています。おそらく手がけた企業に悪意はない(ほんとのところはわからないですけどお金を稼ぐことに忠実だっただけなのではないかと推測します)にもかかわらずです。

 

いつのまにか世の中では他人の著作物の剽窃や盗作は悪いことだということになってきているようです。

 

「悪い」とまではいえなくてもなんとなく「エスカレーターで左に寄る」ようなゆるやかなタブー感がめばえてきてるように感じます。
もちろん今回のキュレーションサイトと以前のニコニコ動画さんとで大きく異なる点はあると思っていて。

ひとつは「動機」で、アニメのアップロードには金銭的なメリットがからんでいなかったこと(たいしてキュレーションサイトは金銭がすべて)。

もうひとつは利用するユーザーが自発的に盛り上がったこと(キュレーションサイトは金銭目的でユーザーを誘導していた)です。

 

これは生理的な好悪にとってはとても大きな違いです。


ただニコニコ動画さんも時間をかけて(ぼくら目線での)正常化を果たしましたので、キュレーションサイトもそのような流れになるのではないかなあと。


5倍の感謝と1/5の恨み

俗にひとは他人から受けた恩を1/5に、ひるがえって仇を5倍に感じると申します。というかぼくが勝手に申しているだけかもしれません。
これはつまり、ひとは無意識のうちに相手にかけた恩を5倍に、仇を1/5に評価してしまうともいえます。

「あいつはあれだけ目をかけてやったのに裏切りやがって」

「この程度で罪滅ぼしになると思ってるのか」

「おれも悪いがあいつはもっと悪いのに逆恨みをしてる」

 

といった感情的なこじれが起きがちなのは、この「恩返しは5倍に、仇討ちは1/5にしないと均衡にならない」といういわば「5・1/5問題」のためであろうと思います。

昨今話題の「マンスプレイニング」なども(こちらは男女間に限定されてはいますが)同じ根っこに起因している気がします。

 

さらに申し上げると個人間だけではなく「被害者が多く加害者が少ない」事象が観察された場合も、この「5・1/5問題」がひそんでいる可能性が高いです。

 

はるか昔イエスはパリサイ人と取税人の祈りを比較して

 

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」

 

と語りました。

もしかすると「神」といういわば「ひとを観察する視点」は、ひとの心の「自分を他者の5倍評価してしまう」という無意識の偏りを矯正する仕組みとしても機能しているのかもしれません。

イエスはその倍率についてまでは語りませんでしたが。

 

 

なんというか、犬養毅が「話せばわかる」といっても聞き入れてもらえなかった要因はこのようなところにあるのではないかという落ちです。

 


PC原人

なんだか昨今のアメリカ大統領選挙を拝見していると一周まわって、日本人がアメリカの選挙権をもってないのはおかしいのではないかという気すらしてきます。

さて結果としてトランプ大統領が誕生することになったわけですが、それにともなって「ポリティカル・コレクトネス(PC)」が(どちらかというとネガティヴな)話題になっています。

「いきすぎたPCにアメリカの有権者たちは疲れていたのだ」
「トランプはPCでないことが支持された」

おそらくアメリカに関してはその通りなのでしょう。
PCは日本では「政治的正しさ」と訳されます。かいつまんで申し上げますと「差別や偏見を除外した表現」のことです。
まあPCが徹底されれば息苦しくなっていくだろうなというのは想像がつきます。
なぜなら「言葉」はともかく「人間」そのものから差別や偏見を除外できないですからね。

とはいえこの選挙結果で「PCの敗北」みたいな話が出てくるのはあまりよくないと思います。

アメリカとちがってこの日本において、PCは「いきすぎた」どころか、充分に普及したためしもないです。
なので今は何も気にせず、息苦しくなるまでPCを推し進めればよいのではないかと思います。

読んで、語り伝える

ここはいちおう職業としてはアニメプロデューサーの書いているブログなのですけど、アニメの記事はあまりありません。

 

なので、ぼくのブログに検索でたどりつくワードで一番多いのはアニメ関係ではなく、最近だとだいたい「三体」や「劉慈欣」つまりSF小説です。しかも中国の。
話題の割に言及してるところが少ないからでしょう。

 

以前は本について書くとてきめんにアクセスが少なくなるのでSFやミステリについてあまりふれていなかったのですが、まあアクセス数といってももともとの分母も小さいですし、たまにですがお会いするかたに本の感想を参考にしてますといわれてちょっといい気分になったりすることもあって、なんとなくここしばらくはおもしろかった本について書くようにしています。

 

自分をふりかえってみると「この本おもしろいよ」という話題で重要なのは、本そのものよりも「その発言をしたひとが誰か」でありました。つまり「このひとがおもしろいというなら読んでみたい」か「読み手として信頼できるか」で、まあどちらでもだいたい同じ意味です。

これがさらにあいまいな「SF/ミステリおもしろいよ」といわゆる「ジャンル」の話であればなおさらで(ジャンルは玉石混交ですからね)、発言者が大事です。

なので、「中国の傑作SFが英訳された」とブログに書いてあるのを読んで「よーし英語で読んでみよう」と思うひとはあまりいらっしゃらないと思うのですけど(だから今まではあまりブログで本の話題をしてなかったわけで)、それはそれとしてぼくが楽しくSFを読んでいること自体はほんのわずかであっても「本への興味」にプラスなのではと考えなおしまして、なるべく楽しそうにSFやミステリを中心に本について語っていこうかなあというのが最近の心境です。

 

もしこのブログを読んだことがきっかけで、ひとりでも「本を(SF/ミステリを)読んでみようかな」と感じたかたがいらっしゃれば幸いです。


劉慈欣 "Death's End" を読みました。

"The Three-Body Problem" "The Dark Forest" に続く待望のLiu Cixin(劉慈欣/刘慈欣)「地球往事三部作」完結篇『死神永生』が "Death's End" としてついに出版されました。
翻訳はもちろん『紙の動物園』で日本でも人気の作家ケン・リュウが "The Three-Body Problem" に引き続いて担当してます。今回もグッジョブです。

第1作 "The Three-Body Problem" がアジア初のヒューゴー長編部門受賞ということで話題となった際に1作目、2作目と連続して読んだのですが、そのときの感想は以下に。

劉慈欣『三体』(Cixin Liu"The Three-Body Problem")を読みました

そして今回の "Death's End" はどうだったのかといいますと


マジでヤベェ

ふつう三部作って「風呂敷を広げて、風呂敷をたたむ」ものじゃないですか。
でもこれ、「風呂敷を広げて、広げっぱなしの風呂敷にあらゆるものをたたき込む」ですよ。
しかも!
前作 "The Dark Forest" の時点で

「ほんとに盛りだくさんです。」

と当時の里見はのたまってますが本作の盛りだくさんっぷりはそんなもんじゃありません。
ケン・リュウもこの3作目が一番好きとのこと。わかります。

ひとつも日本語に訳されていない三部作の3作目の感想をどうやって書けばよいのか悩み深いところですが、まああまり考えてもしかたないのでつらつらと書きます。
翻訳されてからまっさらの状態で読みたいかたには

「傑作だから大丈夫。安心してブラウザを閉じて」

とだけ申し上げておきます。







で、本筋の話です。
ここから先は自己責任で。


本作は人類のターニング・ポイントによっていくつかの時代に分かれています。

・Common Era
・Crisis Era
・Deterrence Era
・Post-Deterrence Era
・Broadcast Era
・Bunker Era
・Galaxy Era


です。
前作のラストからどうつながるのか(つなげられるのか)と読みはじめるといきなり "Common Era" (つまりふつうの人類の時代)、しかも15世紀、そしてスルタン率いるオスマン軍に包囲されたコンスタンチノープル、そして東ローマ帝国の最期! びっくりしました。

つながってないじゃん!

と思ったらさにあらず。
舞台は一転 "Crisis Era" に。前作の「ウォールフェイサープロジェクト」と同じころ、実は「ステアケースプロジェクト」というもありまして、こちらに勤務しているのが本作の主人公チェン・シン(Cheng Xin)という女性です。彼女は彼女を(一方的に)愛する男から星を贈られたことで大きく運命が変わります。人工冬眠をくりかえしてみずから歴史のターニング・ポイントになりつつ、はるか未来へと到達することになります。人生変わりすぎです。
そして前作の主人公も(かなりの老境ですが)健在で、随所に顔を出します。本作登場時は前作のラストを受けて、「ソードホルダー」と呼ばれています。毎度思うのですがこの作者(かケン・リュウ)のネーミングセンスはやたらカッコいいです。

そしてさらに!
シリーズを貫く最重要ガジェットである智子(sophon)がまさかの絶世の美女、しかも日本女性の智子さんになって登場します。だいたいキモノ姿でお茶をたてています。たまにニンジャスカーフで戦闘態勢になります。あれ? 前作までスーパーコンピュータでしたよね? しかも粒子サイズの。

そんなわけで前作のラストが "Crisis Era" の終わりであり "Deterrence Era" のはじまりにあたりまして、時間軸的にそこまでは「裏ではこんなことがありました」的にふむふむと読んでいたのですが、上記の時代区分のまだふたつめが終わったとこなことからも薄々察せられる通り、信じられない未来が待っています。
古典SFでたとえるとエリック・フランク・ラッセルの『宇宙のウィリーズ』を読んでたらいつの間にかバリントン・J・ベイリーの『時間衝突』になっていたかのような衝撃です(例示した作品はどちらもおもしろいのでおすすめですよ)。

それにしてもまさかの擬人化……。

前2作で主題となっていた「文化大革命」も「宇宙人の侵略」もジャンルでいえばもはや「日常もの」です。

あまりに壮大になりすぎるとついていけなくなると思うかもしれませんが、そこがこの作者のうまいところです。
そこだけでも独立した短篇として読める秀逸なエピソードが入るのは本作も同様で、ちょうど真ん中あたりで人類に何かを伝えようとする謎めいた「童話」が挿入されています。
この「童話」に導かれて人類は次のステップに突入します。

ソードホルダーが正体も知らず抑止に利用していた「ダークフォレストストライク」の真の姿も明らかになっていきます。
それは「風呂敷広げすぎだろ」という読み手のイマジネーションの限界に挑戦するかのような異常なビジョンなのですが、ここでもゴッホの「星月夜」が効果的に投入されていて、ほんとにこの作者うまいなあと。


単語レベルですと「光速」や「次元」といった「普遍の物理法則」や、「歌者(Singer)」や「二重のメタファー」そして何より「主人公の(あまり納得のいかない)判断力」をはじめ書きたいことはたくさんあるのですが、本作の英訳が出たのもつい先週ですので、あまり具体的に踏み込まないように読後の印象としてまとめますと、

「最先端に躍り出たワイドスクリーン・バロック」

です。
600ページと少し長めのSFですが、展開がスピーディーで何が起こるかわからないのでつい一気に読んでしまいました。


いつか日本語に翻訳されて多くのかたに読まれる日がくることを願いつつ。

ごちそうさまでした。


「もったいない」という言葉

「(有用なものが)粗末に扱われている」ようなときに「もったいない」が用いられます。

あまり好きな言葉ではありません。

それが異なる言語で意味が完全に重なることはないですからあたりまえのことなのですけど、これは日本語にしかない言葉だということで広めようとする動きがあったりしました。今でもあるかもしれません。
オリンピック招致の際にはやった「おもてなし」みたいなものですかね。

ここでは「庶民のちょっとした節約」の意味合いなので「もったいない」の対義語は「庶民のちょっとした贅沢」の「プレミアム」だろうと思います。
「平日にビールはもったいないから発泡酒」と「週末はちょっと奮発してプレミアム発泡酒」みたいな。
おそらく英語のプレミアムとニュアンスは変わっているかとは思いますけど。

ぼくが好まないのは、目先のことしか考えてない感じと、他者に向けられて使用されたときの近視眼的価値観の押しつけっぽさが理由なのではないかと思います。

もったいないからお米はひと粒残らず食べるけどきゅうりがちょっと曲がってたら廃棄してキャベツに虫がついてたらクレーム入れて返品する国の「もったいない」がアルファベットに置き換わることでいい意味で広まって逆輸入されてくるといいですね。

「ドラえもん」の構造

以前ドラえもんの「最終話」(とされる同人誌)について書いたことがあります。

未来の想い出

感動してるひとに水を差すのは非常に不粋な行為ですが、同じものが「感動した」とか「涙が止まらない」とか扇情的なコメントともに一定周期でまわってくるのがインターネットというもので、このネタも何周目かになっててそのたびに無言で見送るのもなんなので一度書いておいたという代物なのでご容赦ください。

でもまたまわってきたので大人気なく「ドラえもん」に「最終話」が必要(少なくとも第三者が作成する必要)のない理由をつけ加えておきます。

みなさんもご存じのように「ドラえもん」に「最終話」はあります。てんとう虫コミックスの6巻をご覧ください。

表紙を見ただけで最終巻っぽいですよね。ここに「さようならドラえもん」が収録されていて「ドラえもんと出会い、日々を過ごし、別れる」のび太に必要な「成長」はすべて過不足なく描かれています。
「ドラえもん」という長大なシリーズはここまでで一度完結しています。あとは終わらない少年の日々を埋めていくとても充実したボーナストラックです。
あまりに充実しすぎててわかりにくくなってますけど、もう「大長編ドラえもん」を見てもわかるように、のび太たち(ジャイアンもスネ夫もしずかちゃんも)はいつでもドラえもんとの別れに立ち向かえる強さを身につけています。

彼らは「別れ」を経ていつでもドラえもんからはばたく準備は整っていて、(「最終話」が描かれなかったことで)いつまでもドラえもんと遊び続けることになったのですから、むしろこれでよかったのではないかとも思えます(ほんとうの「最終話」が存在しない以上こればかりはわからないですが)。

というわけで大人気ない話はおしまいです。

製作委員会について

なんかふだんアニメ業界は「大手広告代理店」「著作権管理団体」「漫画の神様」が矢面に立ってるんだかむりやり立たされてるんだかしてくださるおかげで(彼らはだいたい会社員か団体職員か神様なのであまり反論もされません)すっかり他人事気分だったんですけど、最近の流行りは「製作委員会」とのことです。

ぼくのようなフリーランスのプロデューサーは多くの場合製作委員会(を取りまとめる幹事会社)から依頼を受けて生計を立てています(ごくまれに委員会に加わったりもしてます)。
ためしに里見の Wikipedia を見たところそのようなご発注を今まで50タイトル以上いただいています。ありがたい限りです。今後ともよしなに。
とはいえ「一社出資」と「製作委員会」でなんか変わる? といわれるとお金の出所で映像のリスクの多寡が変わるわけでもないですから、あまり変わらないですという答えになります。


同じ映像なのですからあたりまえですよね。


よく「製作委員会」は「リスクヘッジのために組成される」といわれてまして、もちろんそのとおりなのですが、同時に「映像をあますことなく活用するため」でもあります。少なからぬお金や人材や時間を投入して映像をつくっているのですから全方位で見せたい/売りたいと考えます。ところが万能な会社はございませんので、どこもなにかしらの業務に特化しています。たとえばビデオグラム(DVDやBlu-ray)の発売が得意な会社、グッズをつくるのが得意な会社、海外販売が得意な会社、宣伝が得意な会社、そしてもちろんアニメを制作するのが得意な会社……いろいろあります。そんな各社の「得意」を持ち寄ってせっかくつくった映像をうまく運用していこうというのが「製作委員会」です。


これが「一社出資」だったとしても同じ映像なので活用できる範囲は理屈上同じです。そして「一社出資」はどちらかというと「なにかが超得意な会社」さんが一点強行突破するときに選択される手法なので(あと「お金の投資先を探しているとき」か「思い出もしくはモチベーションづくり」あたりもありそうですけど)、どれだけ「得意を強められるか」と、「活用できない範囲」を逆手にとってうまくいかせるかのふたつが大きなポイントになります。



ということで映像の活用に関して「一社出資」でも「製作委員会」でもおそらく同じプロデューサーに判断させたら同じ決断になるかと思いますので、お金の出所よりもプロデューサーの胆力というか覚悟というか、広い意味での「資質」のほうがはるかに大きな要素であります。



とここまで書いてきてふと気づいたのですが、そもそもぼくは委員会の出資構成を監督や脚本家にお伝えしません(し、すべて決まってるとも限りません)から、彼らもどこからお金が出ているかはメインどころしか知らないと思います。
知らなければ萎縮のしようもないですよね。


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バーナムスタジオ

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