どうしたらアニメの仕事に関われますか?

というご質問を学生さんからいただく機会なんかがありまして

「とりあえずどこでもいいから就職して『アニメに関わりたいです』と言い続けること」

とお答えしました。
それでよかったのかどうかわかりませんし、学生さんたちはまだ選択肢も多いですから何を選ぶかもわかりませんが、とりあえずぼくの意図としては、

その就職先がアニメに関わるメリットがあれば(会社は利益を求めますので)そのうち願いはかないますし、それがダメでも気づかぬうちに社会経験はプラスになっていて、「社会経験を持ったアニメ業界就職希望者」にクラスチェンジしてるので、まあ無駄にはならないのではないかということです(これが「アニメプロデューサーになりたい」とか「アニメ監督になりたい」と具体的な目標が設定されてるなら別ですが)。

ぼく自身とてもふわふわした立場でアニメ業界を漂っているのですが、たまーに面接なんかをする機会もあります。
ところが学生さんの場合みんな「学生」という同一線上に並んでるように見えるのですね。それはそうですよね。ごく一部のかたをのぞいてはじめて就職するのですから。
で、みなさん薄々お気づきかもしれませんが、面接の弊害は話術がたくみなかたが有利になりがちなことかと思います。
これを面接官のかたがたは脳内で是正しながら採用した場合の戦力分析とかをしてるのではないかと想像するのですけど、面接を受ける側の対策として「どこかの会社で1〜2年働けてた」という実績を示すのはとても大きなプラスではないかと思います。
少なくともぼくはそうです。

アニメスタジオも一応会社なので「会社員ができる」ことがある程度保証されているのはとてもありがたい話です。ましてアニメを仕事にしたいほど好きだなんて。
もう何もいうことがありません。

その後、イメージとちがったとか適性がなかったとかいろいろあるかもしれませんが、これでスタートラインに立つことはできるのではないかなあと思います。

がんばるは一時の恥、がんばらぬは一生の恥

「一所懸命がんばること」がカッコ悪いとされる時代や場所がありまして、ぼくはそんな空気にどっぷり漬かってきたので勉強も仕事もあまりがんばらない人間になってしまったのですが、この歳になって深夜に『アオイホノオ』とか観てると「周囲の目なんか気にしないでガムシャラにがんばればよかったなあ」と思ったりします。
人生において、周りのひとたちはどんどん入れ替わっていきますが自分は変わらないので、たとえがんばる(ことを見られる)ことが恥ずかしくても、しょせん一時の恥でしかないので気にしなくてもよかったのですよね。

何をがんばればいいかわからないというのもありますが経験上、手段が先にあって「目的があとからついてくる」ことが多いので、なんでもいいから動くのがよいかと思います。あたりまえのことですが、手段という道具/手札が多く深いほど、いろいろな目的に到達できます。そして周囲の目はつまるところ多数決原理ですので、ひとを平均化していきます。
だからいつの日か「目的」がなんだったらわかるぐらいがちょうどいいですね。

頭のよさ/悪さ問題

「このひとは頭がいいなあ」と思ったときはだいたい正解で、実際ほとんどの場合、相手のほうが頭がいいはずです。ただ自分が理解できる範囲なので「少しの差」にとどまることが多かろうと思います。
ところが「このひとは頭が悪いなあ」だと相手と差があるのは確実ですが、どちらが頭がいいかはわからないです。わかるのは「大きな差」があるということだけで。
多くの場合双方が相手のことを「頭が悪いなあ」とたがいに思っているはずです。
それぞれ所属する環境が違うなら特にその傾向は強まるはずです。「常識」に類するものは環境に既定されてることが多い、いわば「母集団ごとの多数決の結果」みたいなものですからね。

なのでその環境ごとのジャッジはできると思いますが、しょせん「身の回りの多数決」でしかないのでどちらが真に優位かは慎重に判断する必要があると思います。


アニメが増えてる?

今回はちょっと体感ベースに基づく与太話で、あまり厳密なものではありませんので話半分でお読みください。


さて。ぼくのぼんくらな予想では日本のアニメの今後は「タイトル数が増えて生産量が減る」つまり従来2クールでつくられたであろう作品の一部が1クールに、30分作品の一部が5分にスライドしてリスクヘッジをしつつタイトル数を維持しようとする動きになると思っていたのですが、どうも2006年をピークに減りつつあったはずなのに最近ほんとに増えているような気がします。しかもなぜかクオリティを上げながら。

これは複層的な要因があると思います。
まずお金を投資する側としては「不景気」が挙げられます(「不景気」だと言葉が強すぎですね、景気のよさが足りないぐらいです)。
これはいわゆる「倒産直前の出版社は出版点数が増える」現象です。お金がないなら出版点数を絞るほうがよい気もしますが、実際には大量に出荷して目先のキャッシュをゲットして資金繰りをなんとかしようとしてしまいます。ここでヒットが出ればよし、ダメなら傷口を大きくします。
ここでは別に倒産ほど極端な状況でなくて「期末までに売上目標に達するために商品ラインナップを追加する」というどの業界でも割合よくある話です。今まで2タイトルで稼ぎ出していた売上をつくるのに3タイトル必要になったとかそんな感じです。あと年末や年度末の Blu-ray BOX で「お。よくこんなの出したな」というのがあれば、それはもしかすると「数字合わせ」のおかげで世に出せたものかもしれません。ほんとにありがたいことです。

また委員会組成が少し変わりつつあるのもあります。かつての圧倒的なビデオグラム依存から脱却しつつあるともいえます(ビデオグラムのマーケットは別に拡大していませんので、単純に供給量を増やしてもしかたないです)。ここにソーシャルゲームや遊技機といったここ10年の新しい出資者の登場や、アニメに出資をして作品を育てようという原作元さんの積極策などがあいまって委員会のバランス調整局面に突入しています。

また、もっとつきつめると単純にプレイヤーが増えているというのもあります。上記の新しい出資者だけでなく、たとえば既存の東宝さんとかワーナーさんのように最近アニメに積極的になった映像メーカーさんも増えましたし、アナログ放送が地デジになったら番組表を見るのが新聞からEPGに代わり、その結果認知度で損をしていたいわゆる旧U局がV局と横並びになって存在感を増して、アニメを流す枠も増えました(このEPGの視聴習慣への影響は実はかなり大きいと思います。里見はアナログ時代とくらべて得をしたのはテレビ東京で、損をしたのがフジテレビで、これは横の並び順によるスクロールの手間によって発生している説を提唱しています。里見が単にNHKを軸にしているからかもしれませんけど)。

そんなこんなでアニメがたくさんつくられていて、いい時代にめぐりあえてよかったです。
クオリティが上がった理由についてはまた後日気が向いたら書くかもしれないし書かないかもしれません。



検閲とミステリ

以前 tumblr に書いたものです。


“日本が戦時体制を強化していく1937年(昭和12年)頃より、戦時においては不適切なものの一つとして、探偵小説は内務省図書検閲室によって厳しく表現が規制されるようになった。一説では、内務省のブラックリストに載っていたという乱歩は、その文章表現が厳しい検閲にさらされることになった。1938年(昭和13年)9月より刊行開始の新潮社「江戸川乱歩選集」においては、特に1939年(昭和14年)以降より検閲が激化し、無茶な削除訂正が頻発するに至った。また、この1939年(昭和14年)に「芋虫」が発禁になっている。結局1941年(昭和16年)に入ってからは原稿依頼も途絶え、旧著もほぼ絶版という状態に立ち至ったのである。
太平洋戦争に突入すると、もはや探偵小説は少年ものですら執筆不可能となり、乱歩は小松竜之介の変名で子供向きの科学読み物「知恵の一太郎」等を書くに至った。”
江戸川乱歩 - Wikipedia


ミステリ史における国家の「検閲」だとこの「乱歩全滅」が最大の損失だったと思います。

人気作家だった江戸川乱歩は検閲によって執筆活動の継続が困難になり息を潜めて戦後を待つことになるのですが、乱歩本人の言葉を引用すると

『昭和十六年には、僅かにお目こぼしに預かっていた私の文庫本や少年ものの本が、全部絶版にされ、印税収入皆無になっていた。政府の情報局の意向に脅えて、本屋が私のものを全く出さなくなったのである。[中略]私はいくらかでも収入を得ようとして、とうとう妥協したのである。「筆名を変えて、健全な教育的な読み物を書いて見ませんか」という「少年倶楽部」の勧めに応じたのである。』

てな感じでこども向けの『新宝島』(あんまりおもしろくない)のあとに小松竜之介名義で『智恵の一太郎』(乱歩らしくないけどまあまあおもしろい)を書くことになるのですけど、検閲問題は当然、乱歩だけではなくて。

常々理想のミステリガイドは「10年ごとのベストの選出」と申し上げて10年単位でジャンルの盛衰を見守るぼくですら、こと戦争に向かい敗戦にいたる昭和11〜20年では、久生十蘭『魔都』、蒼井雄『船富家の惨劇』、海野十三『深夜の市長』、木々高太郎『人生の阿呆』、角田喜久雄『髑髏銭』ぐらいしか候補作を満足に提示できません。しかも発表時期は10年代前半に偏ります。検閲がはじまるんだからあたりまえですけど。
さかのぼれば日本初の長編ミステリである小酒井不木『疑問の黒枠』(あんまりおもしろくない)が書かれた昭和2年からほんの10年足らずで、江戸川乱歩『孤島の鬼』、浜尾四郎『殺人鬼』、夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』などを生み出してしまった日本ミステリはその豊饒なまでの異形の進化の途上、エロ・グロ・猟奇に対する良識ある検閲に(時節にそぐわないという理由で)一度殺されたのだと思います。

というわけで、ほんと戦争も検閲もよくないですね。


似たような過去の記事。

四ッ谷とインディアナポリス

娯楽レギュレーション

空気検閲の時代


 

聖闘士伝奇

最近ずっと『聖闘士星矢』の Blu-ray BOX を観てるのですけど、やはり黄金聖闘士はカッコイイですね。これは今まで登場してた聖闘士の聖衣以上に黄金聖衣の聖闘士全身を覆う面積が広いことと、聖衣の色がシリーズ通して「黒/影色/ノーマル色/差し色」と最低でも4色つかった塗り分けで色差を強調して描かれていて、なかでも黄金聖闘士は「黒/黄系4色/差し色」と狭い範囲で階調のメリハリをつけることによって、黄金の輝きがひときわ眩しく感じるしかけがなされています。

全身を覆うフォルムは直線/曲線が入り交じる高度なデザインで、どちらかというとロボットアニメの領域です。

また当時のアニメはセル画でつくられていますので、彩色はセル画に裏から絵の具で塗っていきます。つまり色が増えると絵の具を塗る時間/手間はもとより絵の具を乾かす時間も加わります。この手間と時間を費やす彩色を、聖衣のように登場頻度が非常に高いアイテムであえて選択しているのは、その結果として課せられる作業量よりも完成時の見栄えを優先したということで、これはとても大きな決断です。そしてその決断が黄金聖闘士編の映像ですばらしい成果を上げています。

これは労苦の多い方を選び取ったスタッフはもちろん、お金と時間を費やすわけですから制作スタジオの東映動画(現・東映アニメーション)さんも含めて、永年積み上げてきた叡智に基づく大英断と申し上げていいと思います。


さて話題変わって。

処女宮(ヴァルゴ)を守護する黄金聖闘士はシャカさんといいましてギリシャ神話の女神アテナ様を護る存在なのに仏陀様の生まれ変わりという設定があったりするのですけど、仏教的なネーミングの必殺技をいくつも持っていてやたらめったら強くてもっとも神に近い男と呼ばれててもはや反仏教の領域に突入しています。たしかに仏陀様を戦闘拡大解釈したらここまでいくよなあ、まさに仏契(ぶっちぎり)!

とかくだらないことを考えてるうちにふと思いついたのですが、

世の中には「偉人さん大集合」というジャンルがありまして(うそ。今ぼくが考えました)、小説だとフィリップ・ホセ・ファーマーさんの「リバーワールド」シリーズや山田風太郎さんの『魔界転生』、マンガだと平野耕太さん『ドリフターズ』、アニメだとOVAの『R.O.D』あたりが代表作でしょうか。
時空を超えて実在の偉人が集結して戦ったり冒険したりするジャンルフィクションです。

そんな綺羅星のごとき作品群のなかに、乱歩賞受賞の『写楽殺人事件』や大河ドラマ『炎立つ』で知られる高橋克彦さんの『総門谷』というオカルト伝奇バトル小説があります。これがキリストさんやらプラトンさんやら串刺し公ブラドさんやらが復活して謎の総門様の部下として大暴れしたりあっさり退場したりするまごうかたなき典型的な「偉人さん大集合」! しかもそのなかでも花形の「スーパー偉人大戦」ものです。ちなみに本作はオトナになればなるほど楽しさが減っていくタイプなので「中学生のうちに読んでおきたい本ランキング」でも毎回上位にランクインしています(まあこれもぼくの脳内ランキングなんですけどね)。
ぜひ畑正憲さんの『青い闇の記録』や西村寿光さんの『化石の荒野』とかとまとめて角川つばさ文庫に収録されてほしいものです。

『聖闘士星矢』と『総門谷』

これらがうまく組み合わさるとなんかおもしろい企画になるような気がするんですよ。



「いいやつのはずなのに敵対する最強の黄金聖闘士たち」

カチャッ

「悪の偉人バトルもの『総門谷』」

カチャッ

「リバーワールドを伝奇的に咀嚼して」

カチャッ


これでなんとかいけそうだ。



いってきまあす(ドラネコとポロンちゃんを見たときのF先生のまなざしで)。



おわり。

継ぎ足し続ける「場」の知性

知性は個人に備わったものだと考えられがちですが、実際は「置かれた環境」や「所属する集団」に大きく依存していてしかもその環境/集団で平均化される、という話です。

簡単にいうと頭のいい/悪い集団に所属してるとつられて頭がよく/悪くなる……まあ「朱に交われば赤くなる」というやつです。

ここに「影響力」という考えかたを加えます。
その環境/集団の知性に働きかけるチカラです。たとえば会社という組織の体質を改善したければ、社員を大量リストラするより、組織への影響力が強いトップ数人をすげ替えたほうが効率的に変貌を遂げるわけです。

ひとはもともと変化を嫌う生き物ですけど、この「平均化」と「影響力」が「環境/集団=場」の知性を硬直化させ一定のレベルで推移させる原動力となっています。

これが、構成する人員が入れ替わっても継続する「校風」とか「企業文化」なのかなと思います。老舗の「創業以来継ぎ足し続けたタレ」みたいですね。

知的に真夜中の野次さん

国や地方の議会で野次を飛ばすのは常に行われてきた行為なのだと思うのですけど、最近いろいろ野次の内容を掘り起こすブームが到来して、どのような意図で発言されてるかというのが判明しつつあります。

ざっくりまとめると、

少子化問題への思いが野次につながり、結婚できないひとや産めないひとへの配慮が足りなかったので謝罪する。これからもライフワークである少子化問題にさらに一層の努力を続けていきたい。

というような定型の解答が誕生しているみたいです。

大変遺憾ながらここで足りていないのは「配慮」ではなく「知性」なのですけど、それを本人が理解するには「知性」が必要なので決して分かり合えないという残念な構造です。しかもその「知性」の足りていないひとが今後も「問題解決に努力する」という最悪の結論で結ばれるところがポイントかと思います。問題解決能力のないひとの場合、解決しようと邁進するよりも、ふだんは議会で寝ていて退屈したら野次を飛ばすほうが実はマイナスを発生させないことによって貢献できますので、結果的に今まで以上に道程が険しくなったことは残念でなりません。

ただなぜ今までうまくいかなかったのかは「このようなひとたちが取り組んでいたから」だとわかったのは、今回唯一の収穫かもしれませんね。

「知性」というのは個人の問題のように思われがちですが、「場」の知性ともいうべきものがありまして、その空間(今回だと議会)の知性レベルというものがあります。それは野次を許容し笑いあう空間です。「知性が足りていないことを知性が足りないために自己認識できない」のは個人の知性と同様なので、内部で水準を引き上げるのは困難だと思います。

で、解決策としては「場」の知性を外側から引き上げるしかなくて、ここで「選挙できちんとひとを選ぼう」的なまとめでもよいのですけど、どんなに優秀なひとを選んでも、議会という「場」の知性が低い以上、合わせて能力を低下させざるを得ないのであまり意味がないです。
ほんとに解決したいのであれば「(法律で)強制的に議会の男女比と年齢構成を均等にする」のがよいかと思います。
それだけでだいぶまともになるのではないかと。

アポカリプスナウ!

網野善彦さんに『異形の王権』という日本史学に燦然と輝く記念碑的な著作がございまして、遙か昔学生時代に読んだきりのぼくがうろ覚えでどんな内容かを申し上げますと、「建武の新政」の後醍醐天皇の前後で日本人の聖/卑の価値観の大きな転換点となっていたことを解き明かすものでタイトルの「異形の王権」というのは後醍醐帝の政権を指しています。

そのなかで今でも特に印象に残っているのがこどもの在りかたです。後醍醐帝以前の鎌倉時代ぐらいまで、こどもは神に近い存在として社会の外に置かれていたそうです(これは宮本常一さんなんかも書いてましたよね)。権力に対する悪口はこどもの口から語られるとかなんとか。そして「京童」のように童形のままいることで「こども(のふるまい)」であり続ける存在なんかもあったようです。

ここらへんが社会的に「天使」と呼ばれて祝福されていたこどもが次第に圧迫されて少子化が進んだり、女性が女子力とかアンチエイジングとか少女であり続けたり、あとおとなになっても匿名を護持することで「こども」のふるまいを可能にしてたりする現代に通じるんじゃないかなあと。

まあうろ覚えなんで『異形の王権』の内容自体間違ってるかもなんですけど、それとは関係なく日本人の価値観が大きく変動してるんじゃないかというのは最近よく感じていまして、後世、今が南北朝以来の「日本人の価値の転換点」だったと語られるようになるのではないかと思うのですよね。

労働生産性の敵

どうも「日本は労働生産性が低い」とよくいわれます。これはどうしたら改善するのかなあと考えてみたので書いておきます。

まず前提として、人間の能力差というのは集団単位で較べたらたいして大きくないので、どこの国もそんなに変わらないはずで、ということは問題は日本の会社組織にあると考えるのが正しいのではないかということです。
具体的に述べると、世の中の認識とは反対に、労働生産性の低さは(労働者ではなく)経営側の能力の低さとイコールなのではないかと思います。なぜなら人間の能力差はたかがしれているからです。同じような戦力で効率の良し悪しが出るならそれは経営能力の差としか申し上げようがありません。

で、ぼくがここが主たる原因かなあと思うのが会社組織の「決済システム」です。

作業と判断という本来不可分なはずの業務が、組織の拡大とともに縦型ピラミッド構造化が進んで分業化が進み、今の会社の「決済ライン」ができあがったところに不幸があるのではないかと思います。

といってもわかりづらいので仕事ではなく日常生活でたとえると、たとえば「お昼ご飯なに食べようかなあ」というとき会社組織風に、候補の飲食店それぞれから見積もりを取って、栄養価や過去実績の長所短所をまとめて上司に報告し、内諾をとったうえでパワポで資料を作成して会議で承認をもらって決めるという決済ラインを経由すると、なんか効率が悪そうに感じます。

この決済にかかわる「人数」の多さと費やされる「時間」の長さこそが、労働生産性の低下の正体です。つまり逆に、可能な限り少ない人数で、可能な限り短い時間で物事をなしとげるのが労働生産性の向上につながるのではないかと思います。

里見は常日頃申し上げているように反ホウレンソウ派で「報告・連絡・相談」の有用性を信じていないのですが(ex.水掛けほうれん草)、これも原因だったのかもしれません。



どうしても経営側はより多くの情報を求めがちで、決裁権を集約することで組織をコントロールしようとしがちですが、それは労働生産性とのバーターだという自覚は持っておくぐらいでちょうどよいと思いますし、「お昼ご飯」ぐらい自分の判断ですぐ食べられるような組織をつくるのがよいですよね。


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