弊社がここにある理由

この前、若手のプロデューサーのかたとお話をする機会がありまして、なぜ里見はバーナムスタジオなる個人会社を設立したのかという話題になりました。

たぶん不思議ですよね。

ですが、当時をご存じだともっと不思議かもしれません。あのころフリーのアニメプロデューサーがいたのか存じ上げませんが、少なくとも里見のようにいくつもタイトルをかけもちしつつテレビアニメを流し続けるかたはいらっしゃらなかったと思います。
そんなわけで先行者もいないところでなんとなくはじめたのですけど、追随してくる同業者も10年ぐらい現れなかったので、先見の明というよりは誤算を放置し続けた結果と申し上げてよいかと思います。

「止まった時計は12時間に一度正しい時間を指す」

ということです。


さて、今日のブログはほとんどのかたが興味のない弊社が存在する理由についてです。

何度か書いてますが、里見はもともとムービックに就職しまして、その後ブロッコリーに転職します。
そのなかでプロデューサーというお仕事に就くことになり2003年2月にバーナムスタジオをつくって独立をします。

今となってはビジネス側の責任者として適度なチェック頻度と距離感のプロデューサーという役職ですが、そのころは現場(ひとでいえば監督はじめアニメの制作スタッフであり、場所だとアニメスタジオとかですね)にいりびたっていて、アフレコが終わるたびに毎週スタッフとキャストで飲みに行く(そしてプロデューサーが支払う)ようなのどかな時代でした。
製作委員会方式は普及してましたがまだまだ簡素なもので、たとえば里見がブロッコリー時代にはじめてプロデュースした2001年のアニメ『ギャラクシーエンジェル』は2社です。
里見は20世紀末から21世紀にかけてばりばり活躍していたプロデューサーを仰ぎみてプロデュースを学んでいたので、今となっては古いこの時期のプロデューススタイルをベースとしています。

ところが、アニメがビジネスとして注目されるようになりいわゆる「常識」が浸透しますと、不合理は淘汰されていきます。
「毎週飲みに行って何十人分の飲み代払い続けるのおかしくね?」とか「終わったらうちあげするんだからはじめる前にやるうちいりはやめてもよくね?」とか「アニメつくるたびに製作発表会とか要らなくね?」と無駄が省かれて合理的なビジネスになっていきます。
制作面でも以前ならば「飯食いに行こうぜー」ぐらいの理由で顔を出していたスタジオにも、用事のあるときしか行かなくなります。
このビジネス的な要請によるプロデューサーの職掌変化にまったく適応せず、同じ立ち位置をキープし続けたらどうなるかといいますと、それが今の里見のポジションになるのです。

里見は未経験のままいきなりプロデューサーに抜擢された関係で当時はひとりだけ若く、まわりのプロデューサーは干支ひとまわりぐらい上でした。おかげで素人同然にもかかわらずやさしく接していただけたのですが、今やみんなえらくなって管理職とか経営にまわっているかすでに退職されています。
そんなわけで、若手のプロデューサーさんからすると里見は奇矯なふるまいをしているように見受けられると思います。が、そうではありません。大変いいにくいことですが、あなたがたの上司のほうがはるかに常軌を逸してましたよ。

つまり何がいいたいのかというと、変わったのはぼくではなく、世界のほうだということです。

実はぼくはずっと同じ場所にいるのです。
止まった時計のように。
みんなが動いているだけで。
そしてあのころと同じ場所に居続けるために弊社はあるのです。

そんな10数年にわたる弊社の存在が業界的にどのような影響があったかといいますと、大きくふたつあるかと思います。

ひとつはフリープロデューサーという職業をアニメ業界に定着させたこと。

クライアント側にも現場側にもプロデューサーはいらっしゃいます。なのにさらに外部の個人をプロデューサーとして雇い対価を支払うのは不合理と申し上げてよいです。この不合理をなんやかんやと前例として積み重ねて各社に定着させていったことで、クライアントも現場もフリープロデューサーに仕事を発注することが当たり前になったので、今フリープロデューサーをしてるかたはパイオニアである里見に感謝して印税を払ってもよいのではないかと思いますし、弊社もいつでも受け付けていますのでお気軽にご一報ください。
あとひとつはスタジオの独立機運を高めたことです。

現状のアニメビジネスの問題点として挙げられることも多い、経営的に脆弱なアニメスタジオ林立の一助を担い、気軽に独立してしまう雰囲気づくりに貢献していまして、くわしくは下記に書いてあります。

アドバンスドr戦略

まあ正直申し上げてどちらもビジネス的には不合理というか旧弊と申し上げてよいでしょう。


そんな感じでバーナムスタジオは存在しているのであります。
今後もご愛顧のほどよろしくお願いします。


「叡智」か「覚悟」か「心の老眼」

以前このようなブログを書きました。

心の老眼

単なる「心の老眼」は、「俯瞰」「客観」「経営者目線」といったなまぬるいポジティブな言葉に置き換えられてついつい安住していまいがちです。
心には老眼鏡がないですからね。

みなさんも突然上司がおかしなタイミングで身も蓋もない正論を言い出してひどい目に遭ったことがあるのではないでしょうか?

そして上司命令だからとしかたなく非効率な決断に従ったそのとき、実は上司は自分があなたよりも「俯瞰/客観/経営者目線」で正しいから意見が通ったと思っています。

この手の判断の精度は自己診断できないのですけど、おおよそは蓄えた知識や経験に裏打ちされその都度最善を模索する「叡智」か、あるべき最善の姿に向けて決意を固め済みで状況に左右されない「覚悟」か、単なる「心の老眼」のどれかに基づいていて、だいたいは「心の老眼」だと思っとくぐらいで判断する立場のかたはちょうどいいのではないかと思います。

虚構の凱歌

初代『ゴジラ』は敗戦後の日本で、核の漠然とした恐怖と特撮の表現能力があって成立したものです。
その「初代ゴジラ」以来はじめて、3.11と、今も続く核の不安と、CG技術が、(幸か不幸か)環境として整った日本で、庵野秀明監督に託されたことによって、ゴジラの「スクラップ&ビルド」のときはおとずれました。

「スクラップ&ビルド」には「荒野」と「人々」と「活力」が必要です。

「荒野」と「人々」とちがってこの「活力」は目に見えないものですので、現代日本に「活力」があると思うかないと思うかで、だいぶ評価が変わるのではないかなと思います。
ぼくは「棒読みの役者たちが早口で状況を説明していくシーンの連続で厳しいなあ」と感じてしまって、これは「ゴジラ」というファンタジーつまり「虚構」と対峙する「現実」という構造にもかかわらず、ぼくにとって「ゴジラ」よりも「日本の有能で活力に溢れた青年たち」のほうがよっぽどファンタジーだからなのだと思います。
現実として東日本大震災をめぐる政府の右往左往を体験し、福島原発事故にあたって東京電力のトップが次々雲隠れしたり退職したりしていくなかで、いわゆるエリート、つまり権力者や官僚がその責任をまっとうすることを信じているかという話でもあります。
今までの歴代ゴジラも存在しておらず、(言及も参照もされないところからすると、おそらく)東日本大震災も原発事故も起きていない日本で、こうあってほしい有事対応が本作では描かれます。『宇宙戦艦ヤマト』が太平洋戦争のリベンジである程度に、「虚構」のイマジネーションすらも凌駕した東日本大震災に対するエンターテイメント側からのリベンジなのだと思います。
それがエリートを信じるか信じないかで(映画にはエリートしか登場しませんので)、後者の(つまりぼくの)場合は単なる楽観的というか理想主義的なシミュレーション映画にもなります。

というわけで初見ではそんな部分にひっかかりを感じていまい、正直いいところもたくさんあるけど気になるところもたくさんあって「まあまあ」ぐらいの感想だったのですけど、2度目でだいぶ印象が変わりました。

というか傑作じゃないですか。これどうしてわからなかったんだろうというぐらい。

これほど意見が変わる映画もめずらしいです。2回見といてよかったです。

 

序盤は「現実」に「虚構」が生物的な外見をまとい第一弾の侵蝕を開始し(この冒頭の登場シーンで自分がすでにどうしようもなく「怪獣映画」の「お約束」にしばられて「先入観」を参照しながら見ていることに気づかされます)、「現実」は現実的な手段の範囲で対応しようとしてみずから打つ手を封じられ、なすすべもなく蹂躙され見送ることになります。その手段を失っていくある種の段取りが「虚構」側へのいざないにもなっています。そして映画の中盤で虚構の王ゴジラが「放射熱線」を放ったところをターニングポイントとして「現実」は「虚構」にとりこまれます。この長い助走(ゴジラは画面に映っていたとしてもここまでは「現実」側からのアプローチなので「助走」です)は怪獣の存在を自明とする「怪獣映画」のものではなく、あくまで「映画」に(荒唐無稽な)怪獣を登場させるのだという、いわば「志」によるものです
これはかつて「怪獣映画」を切り拓いた初代『ゴジラ』が試みたものです。。
この助走の果ての圧倒的な「放射熱線」による「虚構」の幕開け(人間サイドにとっては同時に「現実」側の登場人物たちの一斉退場であり、日本の命運を託せる「虚構」の若手官僚の台頭ともなっています)は、序盤の過程と誘導に「乗れない」と初見のぼくのようにそこからこぼれおちたもののほうに目線がいってしまいます(とはいえそれでも「虚構」は「現実」の「傘の下」ではありますが)。

 

 

それだけストイックなつくりをしているのだと思います。初見で前半戦がクリシェの羅列に感じられてしまったほどに。

これはもう一度震災後の世界で「怪獣映画」がリアリティを獲得するための意図的な「スクラップ&ビルド」です。

 

ともあれこの「放射熱線」以降が「怪獣VS人類」という「虚構」つまり(現代では成立しがたい)本来の「怪獣映画」パートとなり、人類の叡智を結集してあるものをすべて投入して死力を尽くして物量作戦が展開されます。『新世紀エヴァンゲリオン』の「ヤシマ作戦」を想起させるといわれますが、ゴジラを愛して「ゴジラが、怪獣が攻めてきたら人類はどう立ち向かうか」を考え続けていた監督が、ついにほんものの「ゴジラ」を手掛けたということなので、順番は逆で『エヴァ』が「庵野監督の思い描き続けたゴジラ」に似ている、なのだと思います。

 

そして映画の外側の遊びの要素ではありますが、「虚構」こそが「映画」であり、虚構の主は映画監督である岡本喜八であり、そのバトンは「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」という言葉で未来へと託されるのも日本的でした。屹立するゴジラと日本映画とともにある未来ですが。

個人的に『シン・ゴジラ』は『風立ちぬ』に対する庵野秀明監督なりのアンサーのように感じていて、ほんとは博士役に宮崎駿監督の写真をつかおうとしたけど断られて岡本喜八監督になった、とかならとても理解しやすかった気がします(誤解かもしれません)。

 

すべてが過剰に盛り込まれた本作で、初代『ゴジラ』から唯一後退したのがマスコミですかねえ。「電波塔のアナウンサー」はリアリティを失ったのかもしれません。

 

ともあれ『シン・ゴジラ』は正しく「3.11後のゴジラ」として新生したと申し上げてよいと思います。

すばらしい映画をありがとうございます。

 


「充分な映像」とアニメ

「アニメ」とは何かみたいなことを考えるとむずかしくなってきますが、ここでは単に「静止画の連続で動いてみえる映像」のことです。
たとえば「人形劇」と「人形アニメ」のちがいは、「人形を動かしている映像」か「人形をちょっとずつ動かした静止画をつなげて、動いているようにみえる映像」かです。

静止画を置き換えていくとどうして動いてみえるのかというと人間の目の錯覚です。
アニメを含む映画はフィルムの時代から24枚/秒でつくられていて、これは「まあそれぐらいあればある程度自然にみえるし現実的な予算よね」ということなのですが(枚数が増えるとそれだけフィルムを早くまわすことになるので物理的な長さが必要でお金もかかります)、いまや時代はデジタルなのでそこらへんは以前にくらべて飛躍的に自由度があがっています。


よく映像のクオリティとして解像度というものが取り上げられますが、この「枚/秒」(fpsといいます)もとても重要です(24fps程度では昨今流行りのVRにとても対応できません)。

で、今のフォーマットは置いておいて、どれぐらいあるとほんとに自然なのかを里見の経験値で申しあげると
解像度は視聴距離によるので固定値では出しづらいのですが、30〜50cmで(液晶の開口率が限りなく高いか視認できない距離があるとして)200dpi相当。
フレームレートは50〜60fpsあたりではないかと思われます。

で、人間が1枚ずつ絵を描く今の手法で枚数が3倍になると、なんと3倍の予算と時間が必要になります。
おそろしいですね。
つまりアニメのデジタル化は必然だということであります。

完璧な映画

『ズートピア』と『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』と立て続けに「ディズニー映画」が公開されました。

このふたつの映画はどちらも「完璧な映画」でした。「完璧」というのは「すべてがコントロール下にある」ということです。
この2作は同じ「映画」と呼ばれるものであっても、ぼくとは別の次元にあって、道がつながっているように思えません。

たとえば『シビル・ウォー』と同じようなテーマをあつかったワーナー/DCの『バットマンvsスーパーマン』は原作のエピソードをうまくまとめ、ヒーローたちの魅力を引き出し、時間内になんとか叩き込む、ハイバジェット作品で、同じ環境をあたえられればある意味ぼくでもつくれる(道がつながっている)気がします。
でも『シビル・ウォー』は何か別の哲学でつくられているので、どんなに予算と時間をあたえられてもたどりつけることはないです(おそらく)。
絶対に興行的に勝利しなければならないシリーズのターニングポイント作品で、やるべきことは観客にはすでに明かされていて、あつかわなければならない情報量は膨大。つまり守らなければならないことでがんじがらめになっているにもかかわらず、そのすべてが満たされ、そのうえで予想を上まわるようコントロールされています。
二桁の先行作という積み重ねがある『シビル・ウォー』とは異なり『ズートピア』は単独作ですが、すべてに意味を持たせるコントロールの精度がズバ抜けています。

どのような工程を踏むとこのような「完璧な映画」ができるのか。

恐ろしいことです。

アニメの企画プロデュース会社

電撃文庫の三木一馬さんの起業がニュースになっていて、さすが敏腕編集者さんすごいなあとさっそく株式会社ストレート・エッジのサイトを拝見してたら事業内容に

「アニメーションの企画、制作、制作管理、宣伝及び投資」

というのがありました。






「なんだこいつ敵じゃねえか!!」







そんなこんなでふとアニメの企画プロデュース会社ってどれぐらいあるのだろうと気になって検索してみました。
ぱぱっと検索してみただけなので抜けも多そうですが、それでもけっこうあるんですね(ご指摘あれば随時追加します)。


有限会社アンバーフィルムワークス
http://www.amberfilmworks.com/

有限会社イー・イー・ジェイ
http://www.eej.co.jp/

株式会社インフィニット
http://www.infinitedayo.jp/

株式会社EGG FIRM
http://www.eggfirm.com/

株式会社オッヂピクチャーズ
http://oggipictures.jp/

株式会社おっどあいくりえいてぃぶ
http://oddeyecreative.com/

株式会社ジェンコ
http://www.genco.co.jp/

株式会社ツインエンジン
http://www.twinengine.jp/

有限会社バーナムスタジオ
http://barnumstudio.com/

LMD株式会社
http://lmd.co.jp/

 

「わからない」との対峙

世の中はわからないことだらけです。
わからないものとどう向き合うのがよいかという話です。

以前にも書いたのですけど。

たとえばつまらない(もしくは興味のない)映画を誰かが絶賛してたとします。
で、ついつい

「え? どこがおもしろかったの?」

と訊いてしまったりしますが、

「アクションがっかっこよかった」とか「ラストが泣ける」と説明されても、

「じゃあアクションがかっこよければ/ラストが泣ければおもしろいって思うんだ」

としか理解できませんので意味がありませんし、それで絶賛の理由がわかったつもりになられても困りますよね。

わからないものはわからないまま「鵜呑み」にするのがよいです。

これをお仕事に置き換えると、何かをお願いしたら相手が「できません」とか「無理です」というときに、こちらとしてはやればできると思ってお願いしている内容ですからつい「どうして?」と尋ねてしまいますが、まあぶっちゃけこれもだいたいの場合意味はなくて、たとえば「徹夜すればできるからできる」と「徹夜しないとできないからできない」みたいなスタンスのちがいは判明すれど、説明を聞いてもなんでだか「わからない」です(もちろんほんとにできないことをお願いしてたら話は別ですよ)。

以前はぼくもそれはいったいなぜなのだろうとそんなシチュエーションに出くわすたびに理由をおうかがいしていたのですが、上記の映画と同じく本質的な理由にたどりつけたためしがございません。

これはぼくが心も体も単純だからなのだろうと思います。
単純というのはインプットされる情報が少ないということです。
たくさんの要素が入り混じっている事象(映画もお仕事もとても複雑なものです)から、受け取っている情報量のちがいが「わからない」を生んでいるということにしました。
そして里見はあらゆる局面において受け取っている情報がとても少ないのです。

そんなわけでいつのまにかその代わりに「鵜呑み」にすることを覚えました。

(よくわからないけど)そういうことですね。

ということです。
前も同じこと書いてますので以下略。


「わからない」なりに呑む

http://blog.barnumstudio.com/?eid=1303821


なぜ「事故」は防げないのか

前回のブログがうっかり上司目線でしたので補足の意味で部下目線でも書いておきます。

大前提として心得ておかなければならないのは、前回のブログで示したような心理の動きによって上司や先輩は多かれ少なかれ「正しさ病」に侵されています。
部下の視点に置き換えますと

「上司は正しいことをまちがったタイミングでいう生き物」

だということです。
別にその上司が無能なわけではなくて、上司は「正しくない」と思ったときに発言し、それは現状の方針が変更されることを意味するので、必然的にそうなるということです。
なので無能な上司は

「まちがったことをまちがった(しかも絶妙な)タイミングでいう」

になります。
(どちらにしても上司は判断の精度を自覚することは原理的に不可能なので、無能かどうかの自己診断は「回数」によってしか確かめられません)



「正」なる侵入

馬齢であっても歳を重ねると(いわゆるスペシャリスト以外は)管理職か、みなし管理職か、権限はないけど責任ある立場かになって、社内だけでも上司/部下/同僚/他部署やらが絡んでの、いわゆる「判断業務」の比率があがっていきます。

これがくせもので「正しさ病」がひたひたと心をむしばむ予兆です。
わが国では年長者や上司の言葉は、正しかろうが正しくなかろうがだいたいやんわりと受け止めていただけるので、自分より若いかた相手に日々「正しい」判断をくりかえしてると、いつも正しいことをいったつもりになってしまい、それがいつしか快楽をともなう有能感に変換されて、仕事をしてる気分になってしまうのです。
ひどい場合その有能感から、現場にはりついてしっかりと情報を収集して「判断」の精度をあげようとしたりしてしまいます。

これはかなりの率で「正しさ病」に罹患しています。
だいたい仕事に限らず理由が「正しいから」というときはすでに自覚のないまま「正しさ病」に侵されていると思ったほうがよいです。

恐ろしい話です。



ところで、流派によって異なるかもしれませんが、ぼくが昔習っていた空手で「体幹に近いほうが打撃の威力がある」という考えかたを学びました。

抜手(指)<正拳(拳)<掌底(手首)<猿臂(肘)<体当たり(肩)

ということです。
これは関節の数(が少ないほど体幹の力を低減させずに伝えられる)なのだと理解しています。
実際の打撃では、当たる面積が少ないほうが強い、距離によって威力は変わるのでつかいわけるべき、もしくは関節の回転や遠心力によって末端のほうが強いといった考えかたもあるので、一概にこれがすべてと思われると困るのですが、ここでは単に「短い棒をつなぎ合わせた棒で突くよりも一本の棒で突くほうが折れにくく強い」ということです。
単に体幹の力を伝達する場面であれば「関節の数を少なくする」は理にかなっているのではないかと思います。


ここでまた唐突に「判断」の話に戻って。

「判断業務」はこの「関節」に似ているのではないかと思うのです。
「判断」は多かれ少なかれ「現時点で向かっている方針という棒を曲げる行為」だからです。
なのでもう少しくわしく申し上げると、プロジェクトを一本の棒としてとらえたとき、あいまにおこなわれる「判断」は威力を低減する「関節」のようなものではないかと。

きちんとプロジェクトに精通し、日々の報告/連絡/相談にリアクションしていくのは管理職のとても「正しい」姿ですから、なかなかこの「快楽」にあらがうことはできないものです。

ここで里見が経験から得た大変残念な知見として、

「判断は回数(と速度)が重要」

というものがあります。

「正しい判断を何度できたか」ではなく「ひとつのことに何度判断を下したか」です。

ただの回数です。

内容はあまりというかほとんど重要ではありません。


前述のとおり「関節」の数が少ないことが理想ですので、「正しい」判断かどうかにはあまり意味がなくて、少ないほどえらいという価値観です。
「正しい」ことでも積み重なっていたらそれは「まちがい」とみなします。
むしろ「正しさ」の「快楽」におぼれていると考えたほうがいいです。

周囲のみなさまは内容を問わずやさしく受け止めてくださる以上、そのような視点で自己の「判断業務」の質を見極める必要があります。ここでうっかり自分の思う「正しさ」で検証しようものなら、「快楽」のとりこになってしまいます。

自分が「正しい判断」を下すから部下はきちんと報告して自分の「正しい判断」を仰ぐ、

と上司が疑いもせず思い込んでいるほとんどの場合を部下の視点からみると、

わけのわからないことをわけのわからないタイミングで言い出す上司に事前に報告しておくことで、「事故」を未然に防いでいるだけ、

です。
これが日々くりかえされると彼我の評価差はどんどん乖離していきます。

恐ろしい話です。

(そして今回は触れませんが時間を費やす「熟考」もまた「快楽」か「怯懦」の罠です。なぜなら「判断業務」のもうひとつの尺度は「速度」だからです。判断の精度はつまるところ「速度」と「回数」、つまり「早さ」と「少なさ」に尽きると思います)

なので自分の判断能力の程度を知るには「正しさ」をまったく信頼せず、
「どれだけ少ない判断数(と時間)で目標を達成したか」
「どれだけ減らす余地があったか」
で計るのがよいのではないかと思うのです。

プロデュースの達人

どこかで辻真先先生が日本のアニメに関して、
本来の意味でのプロデューサーは『鉄腕アトム』のころの手塚治虫先生ぐらいではないか、
と書かれていたのを拝見した記憶があります。
これはクリエイティブ面もビジネス面もすべての「権限と責任」が「手塚治虫」というたったひとりのプロデューサーに集約されている状態を指していて、アニメの歴史上その状態にあまり類例がないということだと思います。
まあたしかに。

ぼくは手塚先生の時代はおろかいわゆる製作委員会方式以降のアニメしか存じ上げませんし、きちんと当時の実態を把握しているわけでもありません。
ですがこの「『鉄腕アトム』時代の手塚先生」という言葉は、古代中国で聖天子と呼ばれて理想化された堯・舜のように「プロデューサーの始原にして究極」としてよいのではないかと考えています。

常日頃「プロデューサーの仕事」とは端的に「投資と回収」と申し上げていますがこれは「業務のあり方」で、もうひとつ「あるべき姿」を示す視点から、アニメの「権限と責任」を担うポジションということもできます。
この後者の視点で、もっとも「権限と責任」が濃密に集約されていたのが「『鉄腕アトム』時代の手塚先生」であり、ぼくのようなフリーランスの木っ端プロデューサーにとっての理想像です。この「権限と責任」視点での理想的プロデューサー像を目指して日々研鑽を積んでいくのが、ぼんくらなりの真摯な姿勢といえるのではないでしょうか。
もちろん現在ではひとつのアニメに複数のプロデューサーが立ち、個人がすべてを集約するという時代ではないので、「権限と責任」のバランスを求めることになるかと思います。

「権限と責任」については以前このブログでも触れたことがあります。

上を下への自利利他

ここで書いたように
「権限は上に、責任は下に行きたがる」
ので、常にバランスを失う方向に力が働きます。その性質にあらがい、強い意志で集まってくる自己の権限を他者に委譲し、他者に移行しようとする責任を自己に引き受け続けるという不断の覚悟がなければ「理想のバランス」に近づくことはできません。
というか、「下りのエスカレーター」に乗っているようなものなので、この不断の覚悟と努力がなければ同じレベルにとどまることすらできず、後退し続けていることになります。
ぼくの場合は数年前の自分に届いているかもあやしいです。というかかなり下落しているのではないかと推測しています。
この手の「努力の成果」は自己診断できず、ゆるゆると仕事が減っていく/増えていくことで間接的に観察することしかできない事象です(もしかしたらそれすら錯覚かもしれません)。
げにおそろしいことです。

これとは正反対に上記の「権限と責任」の性質に棹さして「あらゆる権限を保有しつつ、あらゆる責任を他者に背負わせる」とか、さらにそれを推し進めて「あらゆる権限の発動を他者に委ねることで、あらゆる責任を他者に背負わせる」といったプロデューススタイルも用意されています。必然的にプロデューサーが林立する製作委員会というシステムそれ自体が後押ししているのかもしれません。
それは「提案を承認する権限は保有するが、責任は提案者にある」とか「そもそも権限を何も持たないので責任は何もない」というとても「広い門」であり、「責任を背負う」不合理から逃れられるので、ついそちらの安楽な道を進んでしまいがちになります。

まあこちらはこちらで極めると「当たり判定ゼロ」の「無敵状態」のプロデューサーになれるので、必ずしもまちがっていないのですが、自分の保身だけを考えてたらうっかり「護身完成」してたという話なので、目指してたどり着くようなものではありません。

自分がどのレベルにいるのかわからないというのはことプロデューサーに限らずいろいろな職業につきまとうものだと思います。
はるかかなたでまばゆくきらめく「『鉄腕アトム』時代の手塚先生」を仰ぎ見つつ、この恐怖と不安を強く意識して抱えていることが大事だよとシモーヌ・ヴェイユさんもおっしゃってた気がするので、なんとか今日も奈落に向けて速度を増す「下りのエスカレーター」で同じ高さにとどまれるよう、あわよくば少しでも上に行けるようがんばって登り続けようと思います。

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バーナムスタジオ

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