劉慈欣 "Death's End" を読みました。

"The Three-Body Problem" "The Dark Forest" に続く待望のLiu Cixin(劉慈欣/刘慈欣)「地球往事三部作」完結篇『死神永生』が "Death's End" としてついに出版されました。
翻訳はもちろん『紙の動物園』で日本でも人気の作家ケン・リュウが "The Three-Body Problem" に引き続いて担当してます。今回もグッジョブです。

第1作 "The Three-Body Problem" がアジア初のヒューゴー長編部門受賞ということで話題となった際に1作目、2作目と連続して読んだのですが、そのときの感想は以下に。

劉慈欣『三体』(Cixin Liu"The Three-Body Problem")を読みました

そして今回の "Death's End" はどうだったのかといいますと


マジでヤベェ

ふつう三部作って「風呂敷を広げて、風呂敷をたたむ」ものじゃないですか。
でもこれ、「風呂敷を広げて、広げっぱなしの風呂敷にあらゆるものをたたき込む」ですよ。
しかも!
前作 "The Dark Forest" の時点で

「ほんとに盛りだくさんです。」

と当時の里見はのたまってますが本作の盛りだくさんっぷりはそんなもんじゃありません。
ケン・リュウもこの3作目が一番好きとのこと。わかります。

ひとつも日本語に訳されていない三部作の3作目の感想をどうやって書けばよいのか悩み深いところですが、まああまり考えてもしかたないのでつらつらと書きます。
翻訳されてからまっさらの状態で読みたいかたには

「傑作だから大丈夫。安心してブラウザを閉じて」

とだけ申し上げておきます。







で、本筋の話です。
ここから先は自己責任で。


本作は人類のターニング・ポイントによっていくつかの時代に分かれています。

・Common Era
・Crisis Era
・Deterrence Era
・Post-Deterrence Era
・Broadcast Era
・Bunker Era
・Galaxy Era

です。
前作のラストからどうつながるのか(つなげられるのか)と読みはじめるといきなり "Common Era" (つまりふつうの人類の時代)、しかも15世紀、そしてスルタン率いるオスマン軍に包囲されたコンスタンチノープル、そして東ローマ帝国の最期! びっくりしました。

つながってないじゃん!

と思ったらさにあらず。
舞台は一転 "Crisis Era" に。前作の「ウォールフェイサープロジェクト」と同じころ、実は「ステアケースプロジェクト」というもありまして、こちらに勤務しているのが本作の主人公チェン・シン(Cheng Xin)という女性です。彼女は彼女を(一方的に)愛する男から星を贈られたことで大きく運命が変わります。人工冬眠をくりかえしてみずから歴史のターニング・ポイントになりつつ、はるか未来へと到達することになります。人生変わりすぎです。
そして前作の主人公も(かなりの老境ですが)健在で、随所に顔を出します。本作登場時は前作のラストを受けて、「ソードホルダー」と呼ばれています。毎度思うのですがこの作者(かケン・リュウ)のネーミングセンスはやたらカッコいいです。

そしてさらに!
シリーズを貫く最重要ガジェットである智子(sophon)がまさかの絶世の美女、しかも日本女性の智子さんになって登場します。だいたいキモノ姿でお茶をたてています。たまにニンジャスカーフで戦闘態勢になります。あれ? 前作までスーパーコンピュータでしたよね? しかも粒子サイズの。

そんなわけで前作のラストが "Crisis Era" の終わりであり "Deterrence Era" のはじまりにあたりまして、時間軸的にそこまでは「裏ではこんなことがありました」的にふむふむと読んでいたのですが、上記の時代区分のまだふたつめが終わったとこなことからも薄々察せられる通り、信じられない未来が待っています。
古典SFでたとえるとエリック・フランク・ラッセルの『宇宙のウィリーズ』を読んでたらいつの間にかバリントン・J・ベイリーの『時間衝突』になっていたかのような衝撃です(例示した作品はどちらもおもしろいのでおすすめですよ)。

それにしてもまさかの擬人化……。

前2作で主題となっていた「文化大革命」も「宇宙人の侵略」もジャンルでいえばもはや「日常もの」です。

あまりに壮大になりすぎるとついていけなくなると思うかもしれませんが、そこがこの作者のうまいところです。
そこだけでも独立した短篇として読める秀逸なエピソードが入るのは本作も同様で、ちょうど真ん中あたりで人類に何かを伝えようとする謎めいた「童話」が挿入されています。
この「童話」に導かれて人類は次のステップに突入します。

ソードホルダーが正体も知らず抑止に利用していた「ダークフォレストストライク」の真の姿も明らかになっていきます。
それは「風呂敷広げすぎだろ」という読み手のイマジネーションの限界に挑戦するかのような異常なビジョンなのですが、ここでもゴッホの「星月夜」が効果的に投入されていて、ほんとにこの作者うまいなあと。


単語レベルですと「光速」や「次元」といった「普遍の物理法則」や、「歌者(Singer)」や「二重のメタファー」そして何より「主人公の(あまり納得のいかない)判断力」をはじめ書きたいことはたくさんあるのですが、本作の英訳が出たのもつい先週ですので、あまり具体的に踏み込まないように読後の印象としてまとめますと、

「最先端に躍り出たワイドスクリーン・バロック」

です。
600ページと少し長めのSFですが、展開がスピーディーで何が起こるかわからないのでつい一気に読んでしまいました。


いつか日本語に翻訳されて多くのかたに読まれる日がくることを願いつつ。

ごちそうさまでした。

「もったいない」という言葉

「(有用なものが)粗末に扱われている」ようなときに「もったいない」が用いられます。

あまり好きな言葉ではありません。

それが異なる言語で意味が完全に重なることはないですからあたりまえのことなのですけど、これは日本語にしかない言葉だということで広めようとする動きがあったりしました。今でもあるかもしれません。
オリンピック招致の際にはやった「おもてなし」みたいなものですかね。

ここでは「庶民のちょっとした節約」の意味合いなので「もったいない」の対義語は「庶民のちょっとした贅沢」の「プレミアム」だろうと思います。
「平日にビールはもったいないから発泡酒」と「週末はちょっと奮発してプレミアム発泡酒」みたいな。
おそらく英語のプレミアムとニュアンスは変わっているかとは思いますけど。

ぼくが好まないのは、目先のことしか考えてない感じと、他者に向けられて使用されたときの近視眼的価値観の押しつけっぽさが理由なのではないかと思います。

もったいないからお米はひと粒残らず食べるけどきゅうりがちょっと曲がってたら廃棄してキャベツに虫がついてたらクレーム入れて返品する国の「もったいない」がアルファベットに置き換わることでいい意味で広まって逆輸入されてくるといいですね。

「ドラえもん」の構造

以前ドラえもんの「最終話」(とされる同人誌)について書いたことがあります。

未来の想い出

感動してるひとに水を差すのは非常に不粋な行為ですが、同じものが「感動した」とか「涙が止まらない」とか扇情的なコメントともに一定周期でまわってくるのがインターネットというもので、このネタも何周目かになっててそのたびに無言で見送るのもなんなので一度書いておいたという代物なのでご容赦ください。

でもまたまわってきたので大人気なく「ドラえもん」に「最終話」が必要(少なくとも第三者が作成する必要)のない理由をつけ加えておきます。

みなさんもご存じのように「ドラえもん」に「最終話」はあります。てんとう虫コミックスの6巻をご覧ください。

表紙を見ただけで最終巻っぽいですよね。ここに「さようならドラえもん」が収録されていて「ドラえもんと出会い、日々を過ごし、別れる」のび太に必要な「成長」はすべて過不足なく描かれています。
「ドラえもん」という長大なシリーズはここまでで一度完結しています。あとは終わらない少年の日々を埋めていくとても充実したボーナストラックです。
あまりに充実しすぎててわかりにくくなってますけど、もう「大長編ドラえもん」を見てもわかるように、のび太たち(ジャイアンもスネ夫もしずかちゃんも)はいつでもドラえもんとの別れに立ち向かえる強さを身につけています。

彼らは「別れ」を経ていつでもドラえもんからはばたく準備は整っていて、(「最終話」が描かれなかったことで)いつまでもドラえもんと遊び続けることになったのですから、むしろこれでよかったのではないかとも思えます(ほんとうの「最終話」が存在しない以上こればかりはわからないですが)。

というわけで大人気ない話はおしまいです。

製作委員会について

なんかふだんアニメ業界は「大手広告代理店」「著作権管理団体」「漫画の神様」が矢面に立ってるんだかむりやり立たされてるんだかしてくださるおかげで(彼らはだいたい会社員か団体職員か神様なのであまり反論もされません)すっかり他人事気分だったんですけど、最近の流行りは「製作委員会」とのことです。

ぼくのようなフリーランスのプロデューサーは多くの場合製作委員会(を取りまとめる幹事会社)から依頼を受けて生計を立てています(ごくまれに委員会に加わったりもしてます)。
ためしに里見の Wikipedia を見たところそのようなご発注を今まで50タイトル以上いただいています。ありがたい限りです。今後ともよしなに。
とはいえ「一社出資」と「製作委員会」でなんか変わる? といわれるとお金の出所で映像のリスクの多寡が変わるわけでもないですから、あまり変わらないですという答えになります。


同じ映像なのですからあたりまえですよね。


よく「製作委員会」は「リスクヘッジのために組成される」といわれてまして、もちろんそのとおりなのですが、同時に「映像をあますことなく活用するため」でもあります。少なからぬお金や人材や時間を投入して映像をつくっているのですから全方位で見せたい/売りたいと考えます。ところが万能な会社はございませんので、どこもなにかしらの業務に特化しています。たとえばビデオグラム(DVDやBlu-ray)の発売が得意な会社、グッズをつくるのが得意な会社、海外販売が得意な会社、宣伝が得意な会社、そしてもちろんアニメを制作するのが得意な会社……いろいろあります。そんな各社の「得意」を持ち寄ってせっかくつくった映像をうまく運用していこうというのが「製作委員会」です。


これが「一社出資」だったとしても同じ映像なので活用できる範囲は理屈上同じです。そして「一社出資」はどちらかというと「なにかが超得意な会社」さんが一点強行突破するときに選択される手法なので(あと「お金の投資先を探しているとき」か「思い出もしくはモチベーションづくり」あたりもありそうですけど)、どれだけ「得意を強められるか」と、「活用できない範囲」を逆手にとってうまくいかせるかのふたつが大きなポイントになります。



ということで映像の活用に関して「一社出資」でも「製作委員会」でもおそらく同じプロデューサーに判断させたら同じ決断になるかと思いますので、お金の出所よりもプロデューサーの胆力というか覚悟というか、広い意味での「資質」のほうがはるかに大きな要素であります。



とここまで書いてきてふと気づいたのですが、そもそもぼくは委員会の出資構成を監督や脚本家にお伝えしません(し、すべて決まってるとも限りません)から、彼らもどこからお金が出ているかはメインどころしか知らないと思います。
知らなければ萎縮のしようもないですよね。


政治的正しさが後ずさりするとき

内心に自然と生じてしまう「差別」の衝動にあらがう数少ない手段が「鵜呑み」で、多くの「ハラスメント」には有効だと考えていたのですが、

「わからない」なりに呑む

それではまったく足りていないことに気づかされるような出来事があいかわらず起きます。

「差別に飲み込まれない」ための「鵜呑み」は「ハラスメント」同様有効だと思うのですけど、
内面的にまったく問題がなくて(それどころか指摘されても問題とすら認識できなくて)、社会的にも歴史的にも合意されている「差別」は、すでに「飲み込まれたあと」ですので個人的なレベルではなかなか対抗手段が見当たりません。
 

「知」には平和を

以前上記のように本音と建前について、おもに知識の面から書きましたが「建前」尊重派のぼくは

「ポリティカル・コレクトネスという言葉を使わずにポリティカル・コレクトネスを語り続けること」

で当座をしのぎつつ「あらがう術」を模索するしかなさそうで、たぶんたゆまず模索し続けることそのものが対症療法としての「あらがう術」になるのではないかと思います。
「解決方法」はなくて「解決方法を模索し続けること」が唯一の「解決方法」みたいな。
 


『Seveneves』の話。

去年ぼくが絶賛してたニール・スティーヴンスンの『Seveneves』は賞レースの候補にはなりつつも何も受賞できてないですね。

半村良にたとえると「長年読み続けてきた『妖星伝』の最終巻」みたいな第3部がなければ総ナメしててもおかしくない大傑作なんですけど。
もちろんそんな問題はありつつも充分傑作ですので、映画化権をスカイダンスが取得して、監督ロン・ハワード、脚本ウィリアム・ブロイルス・jrの『アポロ13』コンビで動いてるというニュースがあります。

Skydance Reunites ‘Apollo 13’ Team For Neal Stephenson Sci-Fi Novel ‘Seveneves’

スカイダンスは「ミッション・インポッシブル」シリーズや新生「スター・トレック」シリーズなんかを手がけるプロダクションで、最近日本でも『ソードアート・オンライン』のドラマ化権取得したことで話題になりました。

この手のニュースはなかなか実現しなかったりもするのですが、翻訳すら無理なんじゃないのと思ったあのいろいろ問題ありげな『ゲーム・ウォーズ』ですらスピルバーグ監督でやれるのですから、こちらもなんとか実現できることを願ってやみませんし、いまだにぼくはティム・バートン監督でキャサリン・ダン『異形の愛』が映画化される日も待ち望んでいます。

読後の感想は以下にあります(今読むとちょっとネタバレしすぎてる感もあるので、気になるかたは読まなくても大丈夫です。ただ感電するほどの喜びを書き連ねてあるだけですので)


今宵われら月を杯にして

映画がきっかけとなって本作のみならず未訳のニール・スティーヴンスン作品が翻訳される日を待ちわびています。


弊社がここにある理由

この前、若手のプロデューサーのかたとお話をする機会がありまして、なぜ里見はバーナムスタジオなる個人会社を設立したのかという話題になりました。

たぶん不思議ですよね。

ですが、当時をご存じだともっと不思議かもしれません。あのころフリーのアニメプロデューサーがいたのか存じ上げませんが、少なくとも里見のようにいくつもタイトルをかけもちしつつテレビアニメを流し続けるかたはいらっしゃらなかったと思います。
そんなわけで先行者もいないところでなんとなくはじめたのですけど、追随してくる同業者も10年ぐらい現れなかったので、先見の明というよりは誤算を放置し続けた結果と申し上げてよいかと思います。

「止まった時計は12時間に一度正しい時間を指す」

ということです。


さて、今日のブログはほとんどのかたが興味のない弊社が存在する理由についてです。

何度か書いてますが、里見はもともとムービックに就職しまして、その後ブロッコリーに転職します。
そのなかでプロデューサーというお仕事に就くことになり2003年2月にバーナムスタジオをつくって独立をします。

今となってはビジネス側の責任者として適度なチェック頻度と距離感のプロデューサーという役職ですが、そのころは現場(ひとでいえば監督はじめアニメの制作スタッフであり、場所だとアニメスタジオとかですね)にいりびたっていて、アフレコが終わるたびに毎週スタッフとキャストで飲みに行く(そしてプロデューサーが支払う)ようなのどかな時代でした。
製作委員会方式は普及してましたがまだまだ簡素なもので、たとえば里見がブロッコリー時代にはじめてプロデュースした2001年のアニメ『ギャラクシーエンジェル』は2社です。
里見は20世紀末から21世紀にかけてばりばり活躍していたプロデューサーを仰ぎみてプロデュースを学んでいたので、今となっては古いこの時期のプロデューススタイルをベースとしています。

ところが、アニメがビジネスとして注目されるようになりいわゆる「常識」が浸透しますと、不合理は淘汰されていきます。
「毎週飲みに行って何十人分の飲み代払い続けるのおかしくね?」とか「終わったらうちあげするんだからはじめる前にやるうちいりはやめてもよくね?」とか「アニメつくるたびに製作発表会とか要らなくね?」と無駄が省かれて合理的なビジネスになっていきます。
制作面でも以前ならば「飯食いに行こうぜー」ぐらいの理由で顔を出していたスタジオにも、用事のあるときしか行かなくなります。
このビジネス的な要請によるプロデューサーの職掌変化にまったく適応せず、同じ立ち位置をキープし続けたらどうなるかといいますと、それが今の里見のポジションになるのです。

里見は未経験のままいきなりプロデューサーに抜擢された関係で当時はひとりだけ若く、まわりのプロデューサーは干支ひとまわりぐらい上でした。おかげで素人同然にもかかわらずやさしく接していただけたのですが、今やみんなえらくなって管理職とか経営にまわっているかすでに退職されています。
そんなわけで、若手のプロデューサーさんからすると里見は奇矯なふるまいをしているように見受けられると思います。が、そうではありません。大変いいにくいことですが、あなたがたの上司のほうがはるかに常軌を逸してましたよ。

つまり何がいいたいのかというと、変わったのはぼくではなく、世界のほうだということです。

実はぼくはずっと同じ場所にいるのです。
止まった時計のように。
みんなが動いているだけで。
そしてあのころと同じ場所に居続けるために弊社はあるのです。

そんな10数年にわたる弊社の存在が業界的にどのような影響があったかといいますと、大きくふたつあるかと思います。

ひとつはフリープロデューサーという職業をアニメ業界に定着させたこと。

クライアント側にも現場側にもプロデューサーはいらっしゃいます。なのにさらに外部の個人をプロデューサーとして雇い対価を支払うのは不合理と申し上げてよいです。この不合理をなんやかんやと前例として積み重ねて各社に定着させていったことで、クライアントも現場もフリープロデューサーに仕事を発注することが当たり前になったので、今フリープロデューサーをしてるかたはパイオニアである里見に感謝して印税を払ってもよいのではないかと思いますし、弊社もいつでも受け付けていますのでお気軽にご一報ください。
あとひとつはスタジオの独立機運を高めたことです。

現状のアニメビジネスの問題点として挙げられることも多い、経営的に脆弱なアニメスタジオ林立の一助を担い、気軽に独立してしまう雰囲気づくりに貢献していまして、くわしくは下記に書いてあります。

アドバンスドr戦略

まあ正直申し上げてどちらもビジネス的には不合理というか旧弊と申し上げてよいでしょう。


そんな感じでバーナムスタジオは存在しているのであります。
今後もご愛顧のほどよろしくお願いします。


「叡智」か「覚悟」か「心の老眼」

以前このようなブログを書きました。

心の老眼

単なる「心の老眼」は、「俯瞰」「客観」「経営者目線」といったなまぬるいポジティブな言葉に置き換えられてついつい安住していまいがちです。
心には老眼鏡がないですからね。

みなさんも突然上司がおかしなタイミングで身も蓋もない正論を言い出してひどい目に遭ったことがあるのではないでしょうか?

そして上司命令だからとしかたなく非効率な決断に従ったそのとき、実は上司は自分があなたよりも「俯瞰/客観/経営者目線」で正しいから意見が通ったと思っています。

この手の判断の精度は自己診断できないのですけど、おおよそは蓄えた知識や経験に裏打ちされその都度最善を模索する「叡智」か、あるべき最善の姿に向けて決意を固め済みで状況に左右されない「覚悟」か、単なる「心の老眼」のどれかに基づいていて、だいたいは「心の老眼」だと思っとくぐらいで判断する立場のかたはちょうどいいのではないかと思います。

虚構の凱歌

初代『ゴジラ』は敗戦後の日本で、核の漠然とした恐怖と特撮の表現能力があって成立したものです。
その「初代ゴジラ」以来はじめて、3.11と、今も続く核の不安と、CG技術が、(幸か不幸か)環境として整った日本で、庵野秀明監督に託されたことによって、ゴジラの「スクラップ&ビルド」のときはおとずれました。

「スクラップ&ビルド」には「荒野」と「人々」と「活力」が必要です。

「荒野」と「人々」とちがってこの「活力」は目に見えないものですので、現代日本に「活力」があると思うかないと思うかで、だいぶ評価が変わるのではないかなと思います。
ぼくは「棒読みの役者たちが早口で状況を説明していくシーンの連続で厳しいなあ」と感じてしまって、これは「ゴジラ」というファンタジーつまり「虚構」と対峙する「現実」という構造にもかかわらず、ぼくにとって「ゴジラ」よりも「日本の有能で活力に溢れた青年たち」のほうがよっぽどファンタジーだからなのだと思います。
現実として東日本大震災をめぐる政府の右往左往を体験し、福島原発事故にあたって東京電力のトップが次々雲隠れしたり退職したりしていくなかで、いわゆるエリート、つまり権力者や官僚がその責任をまっとうすることを信じているかという話でもあります。
今までの歴代ゴジラも存在しておらず、(言及も参照もされないところからすると、おそらく)東日本大震災も原発事故も起きていない日本で、こうあってほしい有事対応が本作では描かれます。『宇宙戦艦ヤマト』が太平洋戦争のリベンジである程度に、「虚構」のイマジネーションすらも凌駕した東日本大震災に対するエンターテイメント側からのリベンジなのだと思います。
それがエリートを信じるか信じないかで(映画にはエリートしか登場しませんので)、後者の(つまりぼくの)場合は単なる楽観的というか理想主義的なシミュレーション映画にもなります。

というわけで初見ではそんな部分にひっかかりを感じていまい、正直いいところもたくさんあるけど気になるところもたくさんあって「まあまあ」ぐらいの感想だったのですけど、2度目でだいぶ印象が変わりました。

というか傑作じゃないですか。これどうしてわからなかったんだろうというぐらい。

これほど意見が変わる映画もめずらしいです。2回見といてよかったです。

 

序盤は「現実」に「虚構」が生物的な外見をまとい第一弾の侵蝕を開始し(この冒頭の登場シーンで自分がすでにどうしようもなく「怪獣映画」の「お約束」にしばられて「先入観」を参照しながら見ていることに気づかされます)、「現実」は現実的な手段の範囲で対応しようとしてみずから打つ手を封じられ、なすすべもなく蹂躙され見送ることになります。その手段を失っていくある種の段取りが「虚構」側へのいざないにもなっています。そして映画の中盤で虚構の王ゴジラが「放射熱線」を放ったところをターニングポイントとして「現実」は「虚構」にとりこまれます。この長い助走(ゴジラは画面に映っていたとしてもここまでは「現実」側からのアプローチなので「助走」です)は怪獣の存在を自明とする「怪獣映画」のものではなく、あくまで「映画」に(荒唐無稽な)怪獣を登場させるのだという、いわば「志」によるものです
これはかつて「怪獣映画」を切り拓いた初代『ゴジラ』が試みたものです。。
この助走の果ての圧倒的な「放射熱線」による「虚構」の幕開け(人間サイドにとっては同時に「現実」側の登場人物たちの一斉退場であり、日本の命運を託せる「虚構」の若手官僚の台頭ともなっています)は、序盤の過程と誘導に「乗れない」と初見のぼくのようにそこからこぼれおちたもののほうに目線がいってしまいます(とはいえそれでも「虚構」は「現実」の「傘の下」ではありますが)。

 

 

それだけストイックなつくりをしているのだと思います。初見で前半戦がクリシェの羅列に感じられてしまったほどに。

これはもう一度震災後の世界で「怪獣映画」がリアリティを獲得するための意図的な「スクラップ&ビルド」です。

 

ともあれこの「放射熱線」以降が「怪獣VS人類」という「虚構」つまり(現代では成立しがたい)本来の「怪獣映画」パートとなり、人類の叡智を結集してあるものをすべて投入して死力を尽くして物量作戦が展開されます。『新世紀エヴァンゲリオン』の「ヤシマ作戦」を想起させるといわれますが、ゴジラを愛して「ゴジラが、怪獣が攻めてきたら人類はどう立ち向かうか」を考え続けていた監督が、ついにほんものの「ゴジラ」を手掛けたということなので、順番は逆で『エヴァ』が「庵野監督の思い描き続けたゴジラ」に似ている、なのだと思います。

 

そして映画の外側の遊びの要素ではありますが、「虚構」こそが「映画」であり、虚構の主は映画監督である岡本喜八であり、そのバトンは「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」という言葉で未来へと託されるのも日本的でした。屹立するゴジラと日本映画とともにある未来ですが。

個人的に『シン・ゴジラ』は『風立ちぬ』に対する庵野秀明監督なりのアンサーのように感じていて、ほんとは博士役に宮崎駿監督の写真をつかおうとしたけど断られて岡本喜八監督になった、とかならとても理解しやすかった気がします(誤解かもしれません)。

 

すべてが過剰に盛り込まれた本作で、初代『ゴジラ』から唯一後退したのがマスコミですかねえ。「電波塔のアナウンサー」はリアリティを失ったのかもしれません。

 

ともあれ『シン・ゴジラ』は正しく「3.11後のゴジラ」として新生したと申し上げてよいと思います。

すばらしい映画をありがとうございます。

 


「充分な映像」とアニメ

「アニメ」とは何かみたいなことを考えるとむずかしくなってきますが、ここでは単に「静止画の連続で動いてみえる映像」のことです。
たとえば「人形劇」と「人形アニメ」のちがいは、「人形を動かしている映像」か「人形をちょっとずつ動かした静止画をつなげて、動いているようにみえる映像」かです。

静止画を置き換えていくとどうして動いてみえるのかというと人間の目の錯覚です。
アニメを含む映画はフィルムの時代から24枚/秒でつくられていて、これは「まあそれぐらいあればある程度自然にみえるし現実的な予算よね」ということなのですが(枚数が増えるとそれだけフィルムを早くまわすことになるので物理的な長さが必要でお金もかかります)、いまや時代はデジタルなのでそこらへんは以前にくらべて飛躍的に自由度があがっています。


よく映像のクオリティとして解像度というものが取り上げられますが、この「枚/秒」(fpsといいます)もとても重要です(24fps程度では昨今流行りのVRにとても対応できません)。

で、今のフォーマットは置いておいて、どれぐらいあるとほんとに自然なのかを里見の経験値で申しあげると
解像度は視聴距離によるので固定値では出しづらいのですが、30〜50cmで(液晶の開口率が限りなく高いか視認できない距離があるとして)200dpi相当。
フレームレートは50〜60fpsあたりではないかと思われます。

で、人間が1枚ずつ絵を描く今の手法で枚数が3倍になると、なんと3倍の予算と時間が必要になります。
おそろしいですね。
つまりアニメのデジタル化は必然だということであります。

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バーナムスタジオ

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