議論のコスト

議論や討論の決着は何によってもたらされるかというと、正しさとか理路とか説得力とか(の場合ももちろんあるのですけど)ではなく多くは「コスト」ではないかという話です。

つまりかなりの頻度で「めんどくさいな」とどれだけ思わせるかで決着がつく気がします。

相手を納得させるために払う労力がここでいう「コスト」です。

「理解力が低い」とか「頑固」とか「ひとの話を聞かない」といったいわゆる「バカ」に類するスキルは議論において相手に莫大なコストを要求するので強力な武器であろうと思います。



ここでおもしろいのは、にもかかわらず結果として導き出される結論は、常に相手が釣り合わないと感じた説得コストの範囲内におさまるため、それなりに妥当ということでしょうか。



サファイア楊令伝

歴史上の人物を女性にするのがはやってるので、天使のいたずらで男女両方の心を持ってしまった男装の麗人が梁山泊を率いて宋と戦う『サファイア楊令伝』というのを考えてみたのですが、楊令は架空の人物でした。残念。

大人の事情台風

あくまで一般論ですが、

論理的/合理的な、いわゆる正しい判断は往々にして「大人の事情」でくつがえされることがあります。あくまで一般論ですよ。

一般論としてこの「大人の事情」と呼ばれるものによって周囲は右往左往したりします。

ところがここで重大な真実を発見してしまいました。

「大人の事情」という名の台風の目にいるのは、実はその名に反して常に「こども」なのです。

「大人の事情」という言葉が表現しているものは実に「こどもの感情」であります。


怒りのカリスマ

優秀なクリエイターさんや経営者のかた、またプロデューサーや編集者さんなんかも含むプロジェクトリーダー的なポジションのみなさまが持つ特筆すべき「能力」とは何かということを考えてみました。

基本的にプロジェクトリーダーのお仕事は、自分もしくは誰かが考えたことを実現し、お客さまに届けるまでに多くのひとに協力していただくことです。「まだないもの」が生み出すビジョンを語り、伝え、誰かに作成してもらう/お金を出してもらう/流通させてもらう……さまざまな協力関係を築くことが必要です。そのためひとつの解は「コミュニケーション能力」になります。

たしかにぼくもふだんそのように申し上げています。

ただ「説明がうまくてもひとは動かない」というケースもよく見受けられますので、ここでいう「コミュニケーション能力」は日常をスムーズに過ごすとか、友だちが多いといったものではなく、ある種特異なものな気がしています。

では「特異ってどんなコミュニケーション能力なのよ」といいますと、

「業務上のプチ奴隷たち/プチ信者たちを集める能力」

です。

そしてその結果がタイトルの「怒り」と「カリスマ」です。
「怒り」と「カリスマ」そのどちらかがあれば「優秀」になりますし、両方兼ね備えた「怒りのカリスマ」どなれば「ずば抜けた優秀さ」となりますし、指揮をとるのがチームならその機能が分離していたりもします。

よく存じ上げませんがぼくのいるアニメ業界だと富野由悠季さんとか宮崎駿さんも「怒りのカリスマ」ではないかと思います。よく存じ上げませんが。

そのようなことを思いました。

本積みの歴史

古来より書物は貴重品であったのですが、印刷技術の発達(と識字率の向上)によって次第に広まっていきます。

古代ギリシャの数学者アルキメデスの著作にはA写本、B写本とありまして、どちらもそれぞれ16世紀、14世紀に行方不明となり、アルキメデスの写本はすべて失われたと考えられていました。
ところが20世紀末に「アルキメデス・パリンプセスト」というものが突然世に現れます。

唯一現存するC写本です。

これがすごいのが「13世紀の祈禱書が実はアルキメデスの写本を再利用したもので、今の技術である程度元のアルキメデスの文章が復元可能」という西洋の文献学だか書誌学だかと現代のITの融合みたいな代物です。
発見から解読への経緯はリヴィエル・ネッツ/ウィリアム・ノエル『解読! アルキメデス写本』にくわしいです。
とてもおもしろいです。

そのような状況は15世紀に一変します。

グーテンベルクのいわゆる「印刷革命」、つまり活版印刷の発明です。
オーウェン・ギンガリッチの『だれも読まなかったコペルニクス 科学革命をもたらした本をめぐる書誌学的冒険』は、コペルニクスが16世紀に著わしたはじめての「地動説」についての書物『回転について』(邦題は『天体の回転について』とか『コペルニクス・天球回転論』とか)の丹念な追跡調査をまとめた本です。これによると当時初版と二版で約1000部、残存率60%ほどだそうです。タイトルは「だれも読まなかった」という通説に対して「ちゃんと読まれてましたよ」という反語です。これが世界に科学革命をもたらした書物です。

以来この印刷革命と物流の整備によってわれわれは大量の書物を安価に享受しています。

その弊害として蔵書の管理という新たな問題に直面することになりました。


最初は本棚に収まっていますが、すぐに不可能になり、床に積まれることになります。
ばらばらに置いていくのは効率が悪いので判型の組み合わせを考慮して時系列に積みます。これが「野面積(のづらづみ)」です。織田信長に仕えたかの有名な「穴太衆(あのうしゅう)」の「穴太積(あのうつみ)」も「野面積」の一種ですし、「備前積(びぜんつみ)」はその美しさのみならず大変精緻な技術で今に至るまで蔵書家の主流となっています。
ただ「野面積」は大小異なる判型が混在する性質上、多くの「空間」が含まれています。これによって空気が通り抜けることができるのですが、大量に書物を保有したい場合(そして書物はどんどん増えていきます)にはこの「空間」すらも効率よく埋めていくことが求められます。

そこで蔵書家の間で生まれた技術が「切込接(きりこみはぎ)」です。書物と書物を密着させて空間が残らないよう整形して積み上げていくため、部屋の空間を無駄なく紙で埋め尽くせます。結果としてその優美さに加えて耐震性も高いことが実証されています。

ただこの「切込接」にも欠点があり、「奥の本が取り出せない」のです。ゆえに蔵書の位置がわかっていても新たに同じ書物を購入せざるを得ない状況が生まれ、蔵書の量は加速的に増大するのです。


恐ろしいですね。



 

広告の出稿者

よく広告付きだと無料で、お金を払うと広告がなくなるアプリってあるじゃないですか。

あれがずっと疑問で。

ユーザーが実際にお金を持ってるかはわからないわけですけど、

「無料なら広告つき/有料なら広告なし」ってやりかたでソートをかけるというのはつまり、「お金をつかう習慣のあるひとには広告を見せないで、お金を払いたくないひとを選別して広告を見せる」仕組みですよね。

まあ何かしら優れている点があるから生き残ってる手法なのだと思うのですが、そこに踏み込むとよろしくない考えにたどりつくのでここまでにしておきます。

老人とは誰か

日本は少子高齢化社会といわれてひさしいです。

そうなるとなにかあるたびに「老人」は優遇されてるだの既得権益だのという話になりがちです。

このまえの「大阪都構想」の住民投票でもそのような話題が飛びかいました。


この問題となっている「老人」とは何者なのか、という話です。


以前JALが経営破綻、ひらたくいうと倒産に追い込まれたとき(現在はめでたく公的資金を導入して復活を遂げています)、企業年金に注目が集まりました。

倒産しちゃうから年金を減らそうというときに、現役の社員は5割減、OBは3割減という提案に対して現役社員は早々に賛成、OBは反対となり、すわこのまま法的整理かという段でからくも2/3の賛成票を得て切り抜けたということがありました。



この「OB」がいわゆる「老人」なのだと思います。

現役社員が状況をかんがみてより大きな負担でも飲むのに対し、OBは優遇された3割減でも拒否し、「このままだとゼロになるよ」といわれたら賛成に回るというとても利己的な存在として語られました。


今回の住民投票でも「老人」が破綻しかけている大阪の財政を考慮せず、公共交通機関の無料パス等の(ある意味ささいな)優遇措置が削られることから財政再建という大義を拒否したとのことです。



これが事実かどうかではなくて、JALのときもそうでしたし今回の大阪市の件でもそのような意見をニュースやネットで散見しました。

これが憎しみの対象となる「老人」です。


現実の「高齢者」ではなく、この「」でくくられる「老人」はとてつもなく利己的でおのれのメリット以外に興味のない、「継続的であるべき社会」のとてもわかりやすい「敵」として想定されています。
具体的に申し上げると70歳以上ですから今の時点では「団塊の世代」以上のひとびとです。

いつの時代もひとの知性はたいして変わりませんので、この世代の享受した「環境と立場」そして別の世代の「観察者たちのまなざし」が「老人」をつくりあげています。世代人口が多いのも、金銭的に恵まれてるのも別に本人が悪いわけじゃないですからね。

そしてこの仮想敵である「老人」への不満や憎しみはどこに向くのかというと「団塊の世代」ではなく、そのこどもの世代である「団塊ジュニア」になりますので、今ちょうど40過ぎのみなさまは覚悟をしておく必要があります。
これはどうしてかというとふたつありまして、ひとつは人間は毎年1歳ずつ老いること、ひとつは制度の変更には時間がかかることによります。
というわけで「団塊の世代」という最大のボリュームゾーンがいなくなるまで待ってから、「若者」が牙をむいて「老人」に襲いかかります。それはいつかを具体的には申し上げると20年から30年後になります。2〜30年後の「若者」が2〜30年後の「老人」に。


つまり駆逐される「社会の敵」は、ほかならぬ今年41歳になるぼくなのです。
そう考えるとこれから「老人」として打倒されるまでの2〜30年にわたって、親の世代の平穏を守りつづけられ、身の処し方しだいで子の世代に平穏をもたらせるというたぐいまれな、負い目のない世代に生まれてよかったです。
 

神の意表を衝くッッ!!

以前どこかで申し上げたことがあるのですが、人類には「盲点」とならぶ神の「明らかな設計ミス」があります。

それは


「単位が通貨になると人類の計算能力は劇的に低下する」


というものです。

たとえば


100-300+400

 
という計算式は小学生でも解くことができると思います。

答えは200です。

ところが
 
100万円-300万円+400万円


になると話は別です(わかりやすくするために「万」をつけくわえてあります)。
するとあら不思議とたんに人類は計算できなくなります。

まず多くのひとは100万円にたどり着けません。なぜ最初に100万円を設定しなければいけないのか、ほかの数字ではいけないのか、100万円ならもっと有効な活用方法があるのではないか……と悩みだして、ほとんどのひとはまさかの「計算のスタートラインに立つことすらなく」最初の100万円を受け入れずに終わります。

そこをなんとかがまんして、最初の関門である100万円を通過できたとしても、その次にたちはだかる-300万円の壁に人類はまず耐えられません。マイナス記号を削除するすべはないのか、はたまた何かで数字を大幅に削減できないか、次の記号がマイナスであることがわかっていて100万円以降に進む必要があるのか、その向こう側にプラス記号があるのだからなんとかショートカットして-300万円を飛ばせないかと、立ち往生してしまいます。危機察知能力の鈍いひとにいたっては、うっかり-300万円を踏んだところで恐怖に身がすくんでしまいせっかく目の前に+400万円があるにもかかわらず立ち往生してしまったりします。


そんなこんなで「万円」をつけるだけでほとんどの人類は200万円に到達できないのであります。

其怒可。

ここ数日たてつづけで里見に対して「その状況でよく怒らないですね」と(おそらくあきれ半分で)おっしゃるかたがたと出会いました。

いわれてみると「フリーランサー」も「プロデューサー」も、(まあぼくはあまりやってないですが)「経営者」も、ひとや事物による理不尽さや、思い通りにいかなさへの「怒り」で駆動しているケースが散見されます。
おそらくこの「怒り」というものはプロジェクトやチーム、会社を率いる広い意味での「リーダーの資質」の構成要素に、組み込まれているのだと思います。

たしかにぼくはあまり怒ることがないです。つまりリーダー向きではないということなのですけど、いろんなめぐり合わせの結果、因果なことに不向きなアニメのプロデュース業で糊口をしのいでおります。

なぜぼくが怒らないのかを自己分析して、そぎ落として身も蓋もない言葉に集約するとつまるところ「無駄だから」になります(これは反対に世のリーダーたちはむしろ「たとえ無駄であっても怒りつづける」という稀有の能力がゆえに傑出しているともいえます)。

そして「怒」の「又」を「口」にするとあら不思議、孔子さまが「死ぬまでまっとうするべきひとこと」として挙げたことで有名な「恕(じょ)」になります。
この文字は通常広い意味での相手への「思いやり」と解釈されていて「女/口/心」に分解されます。
この「女」は「巫女」ですから、その「口」がしめすのは「祈り」です。
よって「女/口」は「巫女の神への祈り」であり、転じて「あるがまま」を意味する漢字である「如(ごとし)」になります。「祈り」が「あるがまま」なこと、そして「巫女」とはすなわち「神とひとの中間に立つ存在」ですから、『アナと雪の女王』につながるのも興味深いところです。
この「あるがまま」、つまり変わらぬ「平和の祈り」をパイルダー・オンして、ひとの心を加えたときに生まれるのが「恕」です。
ひるがえると、『マジンガーZ』の主題歌で「平和の祈り」と並列で語られる「みんなのため」の「正義の怒り」は「恕」に含まれていません。ぼくらのくろがねの城マジンガーZからみんなのための怒りをとりのぞくと孔子さまの理想となるというのはとても意味深だと思うのですけど、『マジンガーZ』の歌詞と「恕」をからめて検討しているのが世界でぼくひとりなのがかえすがえすも残念です。

そして「恕」は訓読すると「ゆるす」になります。

ここまで「なんだよ今さら儒教の話かよ。古臭いなあ」と思われたかもしれませんが、実は儒教に限らず仏教でも、月光菩薩の名を借りた元祖「正義の味方」こと月光仮面さんも「憎むな、殺すな、赦(ゆる)しましょう」とおっしゃってます(このテーマは晩年揺らぐことになるのですがそれはまた別の機会に)。

昨今のみなさまの反応から推測するにおそらく里見を周囲からながめると、国家の命令に従って戦争におもむいて「奇跡的に命が助かった元軍人。両手両足を失い、聞くことも話すこともできず、風呂敷包みから傷痕だらけの顔だけ出したようないでたち(「BOOK」データベースより)」なのではないかと思われます。
だとすればぼくにできることをせいぜい口に鉛筆を咥えることぐらいですから、ぶっちゃけ怒っていてもはじまりません。



「バルス」


(急転直下の「芋虫」オチ)
 

意図の聖域

将棋や囲碁などのゲームの世界では人間対コンピュータの対戦が行われ、最近ではついにコンピュータが人間を凌駕しつつあります(チェスはすでに凌駕しています)。

かつて「烏鷺は悲しいドラマである」とおっしゃったのは故・坂田栄男さんでありましたが(「烏鷺」はカラスとサギで黒と白、つまり囲碁のことです)、ひとのまなざしがゲームに見出す「ドラマ」こそが余剰でもあり抒情でもあると思います。


さて。将棋の電王戦を拝見したりコンピュータ麻雀をやったりしながらふと思ったことなのですが、人間の強みも弱みも「型」にある気がしました。

当初は真っ向からのぶつかり合いでしたが、次第に『「型」にハメてボコる』と『「型」にハマってやられる』で勝敗が決まることが増えていったように感じます。

将棋は素人なので想像ですが、人間は多くの「型」をあらかじめ記憶しておくことで「考えるまでもない最善手」の高い土台を築いて思考を省力化し、その上で想像性のある「妙手」に思考力の大半を割いているのではないかと思います。

今までの対人間戦ではこの妙手にいたる「思考力の余裕(と土台の高さ)」が勝敗を決していたのが、対コンピュータ戦では比率が逆転して「土台の高さ(と思考力の余裕)」ぐらいになってるのかもしれません。

これはかつての格闘ゲームにおける対CPU戦での「ハメ」の状態に近づいているかのようです。

歴史はくりかえしますね。

とはいえこれは「最強を目指す」行為とは少し異なります。
もちろんコンピュータの「穴」は経験とともに埋められていきますので、人間側は大変かと思いますが。

また頭脳と肉体のちがいはありますが伝統的な格闘技においても反復練習でカラダに染み込ませる「型」はとても重視されています。

それが実戦やいわゆる総合格闘技戦ではあまり機能しなかったり、異なる格闘技の体系をバックボーンとするはずなのに似た挙動になってしまったりといった現象を散見しました。

コンピュータ相手に限らず麻雀も手役をキチンとつくるより速度重視のが実践的です。

「型」を積み重ねて「ドラマ」に到達するロマンみたいなものが、夢枕獏さんの格闘小説(将棋も)の核にあると思うのですが、それももはや古びているのかもしれませんね。





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バーナムスタジオ

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