アニメの企画プロデュース会社

電撃文庫の三木一馬さんの起業がニュースになっていて、さすが敏腕編集者さんすごいなあとさっそく株式会社ストレート・エッジのサイトを拝見してたら事業内容に

「アニメーションの企画、制作、制作管理、宣伝及び投資」

というのがありました。






「なんだこいつ敵じゃねえか!!」







そんなこんなでふとアニメの企画プロデュース会社ってどれぐらいあるのだろうと気になって検索してみました。
ぱぱっと検索してみただけなので抜けも多そうですが、それでもけっこうあるんですね(ご指摘あれば随時追加します)。


有限会社アンバーフィルムワークス
http://www.amberfilmworks.com/

有限会社イー・イー・ジェイ
http://www.eej.co.jp/

株式会社インフィニット
http://www.infinitedayo.jp/

株式会社EGG FIRM
http://www.eggfirm.com/

株式会社オッヂピクチャーズ
http://oggipictures.jp/

株式会社おっどあいくりえいてぃぶ
http://oddeyecreative.com/

株式会社ジェンコ
http://www.genco.co.jp/

株式会社ツインエンジン
http://www.twinengine.jp/

有限会社バーナムスタジオ
http://barnumstudio.com/

LMD株式会社
http://lmd.co.jp/

 

「わからない」との対峙

世の中はわからないことだらけです。
わからないものとどう向き合うのがよいかという話です。

以前にも書いたのですけど。

たとえばつまらない(もしくは興味のない)映画を誰かが絶賛してたとします。
で、ついつい

「え? どこがおもしろかったの?」

と訊いてしまったりしますが、

「アクションがっかっこよかった」とか「ラストが泣ける」と説明されても、

「じゃあアクションがかっこよければ/ラストが泣ければおもしろいって思うんだ」

としか理解できませんので意味がありませんし、それで絶賛の理由がわかったつもりになられても困りますよね。

わからないものはわからないまま「鵜呑み」にするのがよいです。

これをお仕事に置き換えると、何かをお願いしたら相手が「できません」とか「無理です」というときに、こちらとしてはやればできると思ってお願いしている内容ですからつい「どうして?」と尋ねてしまいますが、まあぶっちゃけこれもだいたいの場合意味はなくて、たとえば「徹夜すればできるからできる」と「徹夜しないとできないからできない」みたいなスタンスのちがいは判明すれど、説明を聞いてもなんでだか「わからない」です(もちろんほんとにできないことをお願いしてたら話は別ですよ)。

以前はぼくもそれはいったいなぜなのだろうとそんなシチュエーションに出くわすたびに理由をおうかがいしていたのですが、上記の映画と同じく本質的な理由にたどりつけたためしがございません。

これはぼくが心も体も単純だからなのだろうと思います。
単純というのはインプットされる情報が少ないということです。
たくさんの要素が入り混じっている事象(映画もお仕事もとても複雑なものです)から、受け取っている情報量のちがいが「わからない」を生んでいるということにしました。
そして里見はあらゆる局面において受け取っている情報がとても少ないのです。

そんなわけでいつのまにかその代わりに「鵜呑み」にすることを覚えました。

(よくわからないけど)そういうことですね。

ということです。
前も同じこと書いてますので以下略。


「わからない」なりに呑む

http://blog.barnumstudio.com/?eid=1303821


なぜ「事故」は防げないのか

前回のブログがうっかり上司目線でしたので補足の意味で部下目線でも書いておきます。

大前提として心得ておかなければならないのは、前回のブログで示したような心理の動きによって上司や先輩は多かれ少なかれ「正しさ病」に侵されています。
部下の視点に置き換えますと

「上司は正しいことをまちがったタイミングでいう生き物」

だということです。
別にその上司が無能なわけではなくて、上司は「正しくない」と思ったときに発言し、それは現状の方針が変更されることを意味するので、必然的にそうなるということです。
なので無能な上司は

「まちがったことをまちがった(しかも絶妙な)タイミングでいう」

になります。
(どちらにしても上司は判断の精度を自覚することは原理的に不可能なので、無能かどうかの自己診断は「回数」によってしか確かめられません)



「正」なる侵入

馬齢であっても歳を重ねると(いわゆるスペシャリスト以外は)管理職か、みなし管理職か、権限はないけど責任ある立場かになって、社内だけでも上司/部下/同僚/他部署やらが絡んでの、いわゆる「判断業務」の比率があがっていきます。

これがくせもので「正しさ病」がひたひたと心をむしばむ予兆です。
わが国では年長者や上司の言葉は、正しかろうが正しくなかろうがだいたいやんわりと受け止めていただけるので、自分より若いかた相手に日々「正しい」判断をくりかえしてると、いつも正しいことをいったつもりになってしまい、それがいつしか快楽をともなう有能感に変換されて、仕事をしてる気分になってしまうのです。
ひどい場合その有能感から、現場にはりついてしっかりと情報を収集して「判断」の精度をあげようとしたりしてしまいます。

これはかなりの率で「正しさ病」に罹患しています。
だいたい仕事に限らず理由が「正しいから」というときはすでに自覚のないまま「正しさ病」に侵されていると思ったほうがよいです。

恐ろしい話です。



ところで、流派によって異なるかもしれませんが、ぼくが昔習っていた空手で「体幹に近いほうが打撃の威力がある」という考えかたを学びました。

抜手(指)<正拳(拳)<掌底(手首)<猿臂(肘)<体当たり(肩)

ということです。
これは関節の数(が少ないほど体幹の力を低減させずに伝えられる)なのだと理解しています。
実際の打撃では、当たる面積が少ないほうが強い、距離によって威力は変わるのでつかいわけるべき、もしくは関節の回転や遠心力によって末端のほうが強いといった考えかたもあるので、一概にこれがすべてと思われると困るのですが、ここでは単に「短い棒をつなぎ合わせた棒で突くよりも一本の棒で突くほうが折れにくく強い」ということです。
単に体幹の力を伝達する場面であれば「関節の数を少なくする」は理にかなっているのではないかと思います。


ここでまた唐突に「判断」の話に戻って。

「判断業務」はこの「関節」に似ているのではないかと思うのです。
「判断」は多かれ少なかれ「現時点で向かっている方針という棒を曲げる行為」だからです。
なのでもう少しくわしく申し上げると、プロジェクトを一本の棒としてとらえたとき、あいまにおこなわれる「判断」は威力を低減する「関節」のようなものではないかと。

きちんとプロジェクトに精通し、日々の報告/連絡/相談にリアクションしていくのは管理職のとても「正しい」姿ですから、なかなかこの「快楽」にあらがうことはできないものです。

ここで里見が経験から得た大変残念な知見として、

「判断は回数(と速度)が重要」

というものがあります。

「正しい判断を何度できたか」ではなく「ひとつのことに何度判断を下したか」です。

ただの回数です。

内容はあまりというかほとんど重要ではありません。


前述のとおり「関節」の数が少ないことが理想ですので、「正しい」判断かどうかにはあまり意味がなくて、少ないほどえらいという価値観です。
「正しい」ことでも積み重なっていたらそれは「まちがい」とみなします。
むしろ「正しさ」の「快楽」におぼれていると考えたほうがいいです。

周囲のみなさまは内容を問わずやさしく受け止めてくださる以上、そのような視点で自己の「判断業務」の質を見極める必要があります。ここでうっかり自分の思う「正しさ」で検証しようものなら、「快楽」のとりこになってしまいます。

自分が「正しい判断」を下すから部下はきちんと報告して自分の「正しい判断」を仰ぐ、

と上司が疑いもせず思い込んでいるほとんどの場合を部下の視点からみると、

わけのわからないことをわけのわからないタイミングで言い出す上司に事前に報告しておくことで、「事故」を未然に防いでいるだけ、

です。
これが日々くりかえされると彼我の評価差はどんどん乖離していきます。

恐ろしい話です。

(そして今回は触れませんが時間を費やす「熟考」もまた「快楽」か「怯懦」の罠です。なぜなら「判断業務」のもうひとつの尺度は「速度」だからです。判断の精度はつまるところ「速度」と「回数」、つまり「早さ」と「少なさ」に尽きると思います)

なので自分の判断能力の程度を知るには「正しさ」をまったく信頼せず、
「どれだけ少ない判断数(と時間)で目標を達成したか」
「どれだけ減らす余地があったか」
で計るのがよいのではないかと思うのです。

プロデュースの達人

どこかで辻真先先生が日本のアニメに関して、
本来の意味でのプロデューサーは『鉄腕アトム』のころの手塚治虫先生ぐらいではないか、
と書かれていたのを拝見した記憶があります。
これはクリエイティブ面もビジネス面もすべての「権限と責任」が「手塚治虫」というたったひとりのプロデューサーに集約されている状態を指していて、アニメの歴史上その状態にあまり類例がないということだと思います。
まあたしかに。

ぼくは手塚先生の時代はおろかいわゆる製作委員会方式以降のアニメしか存じ上げませんし、きちんと当時の実態を把握しているわけでもありません。
ですがこの「『鉄腕アトム』時代の手塚先生」という言葉は、古代中国で聖天子と呼ばれて理想化された堯・舜のように「プロデューサーの始原にして究極」としてよいのではないかと考えています。

常日頃「プロデューサーの仕事」とは端的に「投資と回収」と申し上げていますがこれは「業務のあり方」で、もうひとつ「あるべき姿」を示す視点から、アニメの「権限と責任」を担うポジションということもできます。
この後者の視点で、もっとも「権限と責任」が濃密に集約されていたのが「『鉄腕アトム』時代の手塚先生」であり、ぼくのようなフリーランスの木っ端プロデューサーにとっての理想像です。この「権限と責任」視点での理想的プロデューサー像を目指して日々研鑽を積んでいくのが、ぼんくらなりの真摯な姿勢といえるのではないでしょうか。
もちろん現在ではひとつのアニメに複数のプロデューサーが立ち、個人がすべてを集約するという時代ではないので、「権限と責任」のバランスを求めることになるかと思います。

「権限と責任」については以前このブログでも触れたことがあります。

上を下への自利利他

ここで書いたように
「権限は上に、責任は下に行きたがる」
ので、常にバランスを失う方向に力が働きます。その性質にあらがい、強い意志で集まってくる自己の権限を他者に委譲し、他者に移行しようとする責任を自己に引き受け続けるという不断の覚悟がなければ「理想のバランス」に近づくことはできません。
というか、「下りのエスカレーター」に乗っているようなものなので、この不断の覚悟と努力がなければ同じレベルにとどまることすらできず、後退し続けていることになります。
ぼくの場合は数年前の自分に届いているかもあやしいです。というかかなり下落しているのではないかと推測しています。
この手の「努力の成果」は自己診断できず、ゆるゆると仕事が減っていく/増えていくことで間接的に観察することしかできない事象です(もしかしたらそれすら錯覚かもしれません)。
げにおそろしいことです。

これとは正反対に上記の「権限と責任」の性質に棹さして「あらゆる権限を保有しつつ、あらゆる責任を他者に背負わせる」とか、さらにそれを推し進めて「あらゆる権限の発動を他者に委ねることで、あらゆる責任を他者に背負わせる」といったプロデューススタイルも用意されています。必然的にプロデューサーが林立する製作委員会というシステムそれ自体が後押ししているのかもしれません。
それは「提案を承認する権限は保有するが、責任は提案者にある」とか「そもそも権限を何も持たないので責任は何もない」というとても「広い門」であり、「責任を背負う」不合理から逃れられるので、ついそちらの安楽な道を進んでしまいがちになります。

まあこちらはこちらで極めると「当たり判定ゼロ」の「無敵状態」のプロデューサーになれるので、必ずしもまちがっていないのですが、自分の保身だけを考えてたらうっかり「護身完成」してたという話なので、目指してたどり着くようなものではありません。

自分がどのレベルにいるのかわからないというのはことプロデューサーに限らずいろいろな職業につきまとうものだと思います。
はるかかなたでまばゆくきらめく「『鉄腕アトム』時代の手塚先生」を仰ぎ見つつ、この恐怖と不安を強く意識して抱えていることが大事だよとシモーヌ・ヴェイユさんもおっしゃってた気がするので、なんとか今日も奈落に向けて速度を増す「下りのエスカレーター」で同じ高さにとどまれるよう、あわよくば少しでも上に行けるようがんばって登り続けようと思います。

アドバンスドr戦略

2月27日はわが業界的には、アニメ界の生ける伝説ことJCスタッフ松倉友二プロデューサーの誕生日として祝日となっていますが、実は弊社の創立記念日でもあります。

有限会社バーナムスタジオの創立は今をさかのぼること13年前の2003年。
なんとなく14期目の日々を過ごしております。

さて、こんなとりえもなければガッツも足りない弊社ですが、28歳のときにうっかり起業してしまい、うっかり10年以上存続してしまったため、起業のご相談に乗る機会がそれなりに多いです。

「ノウハウと人脈は無料」

が創業以来弊社のモットーですのでご相談には真摯に対応しております。

ですが「起業しようかどうか迷われている会社員」のかたからするとあまりに簡単というか身も蓋もない説明に聞こえるようで「それは里見だからうまくいったんでしょ?(もう少し私の参考になる話をしてください)」とおっしゃられることしばしばです。

これは起業リスクの見積もりかたの問題なのですかね。

具体的には、会社をつくっても倒産率が90%だとか生存率が6%だとか厳しげな数字が広く知られているからではないかと思います。

とはいえ折に触れて申し上げているのですが、「会社経営」の難易度は「自動車の運転」ぐらいです。
シューマッハやセナを目指したらそれはむずかしいですが「軽自動車で近所に買い物に行く」ならけっこうな人が可能なのではないでしょうか。
運転は失敗するとひとを殺したり殺されたりするのでリスクはむしろ会社経営のほうが低いかもしれません(保険も自動車のほうが充実してるわけで)。

起業したいと思ってるひとを躊躇させるリスク(つまり漠然とした倒産の恐怖)の正体、それは「お金」です。

経営リスクは「お金」と「ひと」にあります(それより大きなファクターは「運」ですがそれこそ身も蓋もないといわれるのでここでは割愛)。「ひと」もだいたい「お給料」ですのでまとめて「お金」だけでもいいです。

その恐怖感と裏腹に「どうすると倒産するのか」というと、ほとんどの会社員のかたは知りません。
明快かつ簡単にご説明しますと、

「ギブアップする」と倒産です。

裏をかえすとギブアップしないとなかなか倒産しません。
そしてお金を払う側ももらう側も倒産されると大変困るので「マジヤバいっす」と正直に告げるとだいたいやさしくしてくれます。

ただ多くの会社員のかたは上記と同様の理由で会社の口座現金が枯渇するという状況を想像したことがないので、取引する相手を選ぶ目は養っておいたほうがいいです。簡単に「やー会社の決済が通らなくて。ほんと困りますよね」とか言い出すので。これは起業直後だとマジで死に至ります。

なので一般論としては「太い金づるを複数本持って独立する」というのがリスクの低い起業です。
反対に「一社にぶらさがる」や「細い金づる数本」はリスクが高くなります。
あとお金の支払いが遅れても怒らないぐらい余裕のある取引先とか、鷹揚に前払いしてくれるクライアントさんとか最高です。

ぼくはアニメしかわからないのですけど、今業界はとても活況を呈しすぎてとても疲弊しています。
そんなタイミングでビデオグラム産業がピークを過ぎ、既存の委員会とは質の異なる新しいクライアントが国内外から次々と現れ、そんなタイミングで業界黎明期から続けてきたいわゆる「紙と鉛筆」の時代が終わろうとしていて、デジタル作画へとシフトと制作フローの大きな変更が進められています。
また先日申し上げたとおり、ディスプレイ戦争とも呼ぶべき闘争も勃発しています。

まあ控えめに申しあげても混沌といってよい時代ですね。

この未曾有の混乱を迎えるにあたって、ぼくがどなたかから「起業したいんだよね」と相談を受ける場合、3社以上のクライアントと握れているなら気軽に独立をおすすめしています。

これは弊社のやってきたことをご存じのかたであればご理解いただけるように、実は創業から一貫しています。

里見は進化論というか生物学にたとえるとアニメ産業で「r-K戦略説」のr戦略的なことをしたいという大前提があります。
あくまでたとえ話ですので簡単にですが「r-K戦略説」とは何かをぼくの言葉で説明すると、子孫をどう残して繁栄するかのセオリーです。r戦略は「小さい卵をたくさん産む」で、K戦略は「大きな卵を少し産む」です。まあざっくりそんなことです。
で、厳しい環境ではr戦略(安定した環境ではK戦略)が優位といわれています。

ぼく(というか正確には10年以上前のぼく)が考えていたのは、おもに「技術革新」と「外圧への抵抗」でした。
「技術革新」はちょうど今3DCGやらデジタル作画やらの真っ最中なのでわかりやすいですが、当時から遅かれ早かれアニメのつくりかたが大きく変わることは予見されていました。
またそのころ考えていた「外圧」を具体的に述べると、amazon や iTunes Music Store (や、ちょっと遅れて YouTube )あたりであったように思います。

そして日本のアニメが「特別」である最大の理由は、「日本語」のおかげだと思っていました。

どういうことかというと、

・「日本語」が壁になって(おもに英語圏から)守られている
・だけど話者が1億数千万人もいるのでマーケットとして成立している。

ということです。
そのおかげで海外(おもにアメリカ製)の映像に席巻されることなくほどよく共存してきました。もし日本が英語圏になっていたら、もし日本の人口が半分以下だっら、この状態にはならなかったでしょう。

そんなのんきな共栄圏が「外圧」によって「経済」にさらされると厳しいなあと思っていて、いろいろなメーカーさんにお声がけしてもっと大きくて強力な「大アニメ共栄圏」みたいなものをつくろうとご提案してまわってました。
これが若さというものです。
もちろんそんなものが存在してないことからもわかるように、里見の説得というか説明はうまくいかず野望は潰えることになるのですが(そんな動きの副産物が「キャララジオ」でした)、そこがぼくのターニングポイントになります。

「やはりがっちり業界全体でまとまるより、業界内での激しい競争のほうが現実的な解だな」と考え直しまして、みんなに独立をそそのかし続けるという今のスタンスになりました。
それから10年以上になりますので多少は競争激化に貢献できたのではないかと思います。

ですので、里見のアドバイスは中立ではなくある意味ポジショントークです。

里見を選んで起業のご相談をされるということは、(リスクが高すぎると判断しない限り)背中を押されるということですので、うっかりだまされて起業してしまわないよう自分の頭で考えるのが肝要かと存じます。



これからもバーナムスタジオをご愛顧よろしくお願いいたします。

家系都市

最近行く先々でやたらと家系ラーメンのお店を見かけます。
だいたい赤地に黒の筆風文字に白エッジの看板のラーメン屋さんです。
あれだけみんな似てるということは同じ系列なのですかね。
店名すらよくわかってませんが、いわゆる横浜家系ラーメンが万人向けとは思えません。
どうなっているのですかね。

そうそう。職場の近くにもできてました。
でも荻窪は昔からラーメン屋さんに困ることのない土地柄なので今まで入ることはありませんでした。
ところが地元にもいつのまにかできてました。おそるべし!
なので一度食べてみました。

……が!

味がなんかこう記憶と較べて足りてない感じがして

「家系ラーメンってこんなだったかなあ」

というもやもやした思いを抱えるはめにおちいりました。
そんなとき、たまたま降りた中野でふと思いつきひさしぶりに「二代目武道家」で食べてみたのです(ちなみに初代の武道家は早稲田にあります)。

横浜家系らーめん 二代目 武道家

のり半熟味玉ラーメンにライス&キュウリの漬け物。

のりをスープにひたして漬け物を乗せたご飯に巻いて食べてみて「うんこれこれ」とようやく家系ラーメンの味を思い出しました。
ラーメン関係ないじゃんと思うかもしれませんが、ぼくの思う家系ラーメンとはそういうものです。「武道家」で検索してみるとどうもなかでもかなり濃厚な部類を家系ラーメンと認識していたようです。

それにしてもラーメン屋さんてどういう風に多店舗展開してるんですかね。
料理に著作権はなさそうですから、やろうと思えば「家系ラーメン」のように大量出店も可能だと思うのですけど。

つい最近職場のそばにラーメン二郎が開店(正確には営業再開)しまして行列ができてました。
こちらは「暖簾分け」っぽい感じでした。
たぶん二郎は10年ぐらい食べてないと思うので、すぐ入れるようになったらそのうち食べてみようと思います。


とはいえ家系にしろ二郎にしろ健康にはあまりよくなさそうなのでほどほどに。

夢見る機械

しばらく前のことですが、チェス、将棋に続いてついに囲碁でも、AIが人間に勝利するという快挙が発表されました。

「囲碁の謎」を解いたグーグルの超知能は、人工知能の進化を10年早めた

また何年か前にはこんなニュースもありました。

コンピューターは芸術家になれるか? 人工知能の新たな挑戦「The Painting Fool」

そして最近だとこんなものも。

AIがつくった星新一の「新作」 できはいかほど?:朝日新聞デジタル

ゲーム、絵画、小説と、今まで人間の専売特許だと思われてきた芸術や娯楽ジャンルで、コンピュータが活躍しはじめています。
これを「脅威」ととらえる向きもありますが、本当は逆で「求めていたものがようやく現れた」なのではないかと考えました。

かつてフランスでウリポという文学運動がありました。どのようなものかは下記の wikipedia をご覧いただくと早いかと思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%9D

これはひとつの例ですが、人間による芸術への、とてもコンピュータ的なアプローチだと思うのです。

以前このブログであげたのがレーモン・クノーでした。

同根異曲その3

長いので該当箇所を以下に。

閑話休題的な話として、たまに「娯楽」との間に収斂進化も発生します。便器で有名な美を放棄するほうの芸術家マルセル・デュシャンなんかも名を連ねていたらしいウリポ(数学的な視点から新しい文学の可能性を探求してた集団)の代表的な作家レーモン・クノーの「あなたまかせのお話」は、結果的にゲームブックの先駆となっています(たぶんね)。


この「ゲームブック」もとてもコンピュータ的な娯楽ですよね。

さらにさかのぼるとダダイスム、シュルレアリスムも、キュビスムもモダニズム建築も、今となっては(もちろん部分的ですが)コンピュータ的と感じます。

これは一見別々の事柄なので「脅威」にも感じられますが、おそらく20世紀初頭の「機械文明」が産み出した「みんなが夢見る世界」があったのではないかと思います。
それはぼくが「コンピュータ的」と呼んでいるもので、その「夢見る世界」はまず「芸術家」の作品として世の中に出ていきました。
その後何十年も経過して、「技術者」の蓄積と成果物がようやく、この現実世界で20世紀初頭の「夢想」を実現しつつあるのではないかと。

そんな風に感じられるのです。
 

ディスプレイの中の戦争

「娯楽とは何か」の定義はいろいろありますが、本質的には「楽しい体験」だと考えています。

さらに「体験」つまりいわゆる「五感」それぞれに「楽しみ」があって、たとえば「グルメ」は味覚だけでなく、嗅覚、視覚も動員されていますし、そのレストランの環境で触覚も聴覚もつかわれています。
「体験」とはそのようなものです。
ただ「グルメ」においては味覚がその中心にあるのだろうと思います。同様に「音楽」は聴覚を中心に五感がからみあって「体験」となっています。
まあここでは古めかしく「五感」と便宜的に書いてますが、実際はもっと複雑です。なにしろこの「五感」はアリストテレスの分類ですからね。ここでは「外部からの刺激を受容する人間の感覚のすべて」ぐらいにとらえておいてください。

この「体験」を拡張する人類最大の発明が「ディスプレイ」だと思います。
受容のしかたで「娯楽」を「体験」と「ディスプレイ」にわけてもいいぐらいです。もちろん「ディスプレイ」を経由してても体験には相違ないですけど。

ぼくのかかわっている業界である映像/アニメはすべて「ディスプレイ」経由です。もちろんゲームも、ホームページやニュースサイトやブログも、チャットや Twitter や Facebook によるテキストベースの「会話」も、写真ですらいまや「ディスプレイ」上に表示されるようになっています。

これは今まで別の趣味だったものが、「ディスプレイでみるもの」として融合しつつあるということでもあります。

今まで「テレビ」という画面で、アニメはバラエティやドラマやニュースなどなどと競い合ってきました。それはかなり厳しい生存競争で、アニメは生き延びるためにビジネスの仕組みも内容も視聴層もスライドさせながら深夜へと時間帯を移行していきましたし、時代劇や歌番組はほぼ死滅しました。

でも、これからは今までの競争が「のどかだった」とふりかえることになるような、もっと全面的な「ディスプレイ」での戦いになっていきます。
「スマホのどのアプリをクリックするのか」基準であれば Twitter も Facebookも Chrome もモンストもパズドラも Kindle もすべて等価です。
そんななか、たとえばネットのブログや小説と、Kindleの小説はどうちがうのか、ブラウザで読む文字と電子書籍の文字は異なるものであり続けられるのかというとかなり疑問です。

ほかにも「ゲームとゲームのあいだにムービーが挿入される」と「アニメとアニメのあいだにゲームが挿入される」のちがいはあるのかとか。

同じ「ディスプレイ」で展開されるものですから(ゆるやかなのはまちがいないですが)、垣根はあいまいになり続けると思われます。

それでも一度体験してしまった「娯楽」は簡単にすたれることはありませんので、アニメも(どのようなカタチであれ)生き残ります。
ただ「アニメが生き残る」は「アニメに従事しているひとびとが生き残る」を意味しません。
むしろまったく別の次元の話だと、肝に銘じておくべきだと思います。



煙草と悪魔

WHOが映画の喫煙シーンを成人指定するよう勧告したと話題になってました。

http://www.cinematoday.jp/page/N0080024

こちらはこのブログで9年前の2007年2月に書いたものです。
(いちおう追記しておくと最近はこれを書いた当時ほど喫煙シーンの描写にきびしくない印象です)

2次元を超えて

で、この手の話題に必ずつきまとうのが影響はあるのかないのか問題です。
その点につきましては2013年8月のこちら。
「非実在児童ポルノ」みたいな単語が話題になってたころなのですかね。
ちょっと長いですが。

瞳の中のアンファンテリブル


「映像に影響力はあるのか」といわれれば、みなさん「ある/ない」とおっしゃりますが、アニメでごはんを食べている里見としては「あります」としかお答えしようがないので困ります。
これを否定すると、映像を見せて商品を購入していただくCM(ひいてはそのスポンサー料で番組を制作しているテレビのビジネス)が成り立ちません。かつてはアニメも「30分のコマーシャル」と揶揄されてきたようにおもちゃを売るために制作されてきました。今は多様化していますのでおもちゃとは限りませんが、映像制作費を回収するためのマーチャンダイジング的な何かが存在しています。でないと継続的に映像制作ができないですからね。

それなのに今さら「映像見ても何も影響ないですよ」とか「教育的にいい影響はあたえるけど悪い影響はあたえないですよ」みたいなことは口が裂けても申せません。
ただ「きれいなものだけ見せて育てる」のはなかなか困難です。朝起きてから寝るまでで視野に入るものの何割が「映像」か考えていただければわかるように、影響力のほとんどは「映像」ではなく「周囲の環境」から受けています。

とはいえこれも世の流れですから、流れに掉さす派のぼくとしては「過去作は尊重していただきたいが、これからつくられる映像について喫煙シーンをなくしていく方向で」とか「成人指定はやりすぎだけど、ポスターに喫煙マークを明記しましょう」あたりでうまく落ち着くとよいかなあと思います。

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バーナムスタジオ

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