劉慈欣『超新星紀元』("Supernova Era")を読みました。

Cixin Liu
Tor Books
¥ 2,981
(2019-10-22)

今回デビュー長篇『超新星紀元』が "Supernova Era" として英訳出版されたことで、おそらく劉慈欣さんの長篇英訳がほぼ出揃ったと思うので、この機会になんとなく思ったことを書いておきます(ぼくは中国SFにくわしいわけでもないので推測まじりの備忘録程度です。まちがいがありましたらご指摘ください)。
すぐ忘れるからね。

今回訳出された『超新星紀元』は、

超新星爆発の影響で「13歳以上の人類は1年以内に死ぬことが確定している」という極限状況下で、死にゆく親はこどもたちに何を伝え何ができるのか、こどもたちはおとなたちから引き継いだ世界で何をなし、おとなのいない時代にどのような世界をめざすのか……

というちょっと着想の時点でこれはもう勝利確定みたいな話なのですが、それは最初の3割ぐらいで終わって、例によってちょっとジャンプする方向がズレて南極大陸に到達するびっくり展開になります。ちなみに今回「びっくり展開」パートが全体の5割ぐらいでしたでしょうか(これが次作『球状閃電』では3割ぐらいに減ります)。あとがきを読んだらそのびっくり南極大陸パートこそが本作の着想の原点だったことが判明しましたので、おそらく劉さんの「これがやりたい」という意志によって物語が強引にシフトチェンジする感覚が「びっくり展開」なのだと思いました。「びっくり展開」と書いてますけどぼくのなかでは『三体』の「古箏作戦」みたいなのも含むので、あくまで里見の思う劉慈欣SFの特徴ということで必ずしもネガティブなだけではありません。そしてあとの作品になるほど驚きは変わらず無理筋感は減っていきます。今回については(よくいえば)小松左京を読んでたはずなのにいつのまにかかんべむさしか筒井康隆になってたような印象です。別々の作品だったらよかったのですけど。
本作のあとがきの記述によると発表こそ2003年ですが1989-1991年あたりですでに書き上げていたようです(ご本人の認識としては「30年前の作品」となっています)。そのためちょっと科学技術面や国際情勢まわりが古く感じるところもありますが、今までで一番小松左京ライクな作品になっています。上記のあらすじだけでも『復活の日』や『日本沈没』を、そして何より「お召し」をイメージしますよね。
あと米中関係がメインのため本筋にはほとんどからまないですが日本人のあつかいがひどくて大変よかったです。

さてこれで長篇がそろったと書きましたが発表された時系列でならべると以下になります。

2003年 『超新星紀元』("Supernova Era")
2004年 『球状閃電』("Ball Lightning")
2007年 『三体』("The Three-Body Problem")
2008年 『黒暗森林』("The Dark Forest")
2010年 『死神永生』("Death's End")

ほかに Wikipedia で未訳長篇とされてる『中国2185』『魔鬼積木』というのがあるのですけど、前者は(『超新星紀元』の原型を執筆したのとほぼ同時期の)1989年作品で当時は未発表。後者はジュブナイルなので長篇ではなくたぶん長めの短篇か中篇ぐらいの長さなのではないかと思います(中国で本作と合本になっている『白亜紀往事』は "Of Ants and Dinosaurs" というタイトルで訳出されてますがそれぐらいの長さで、短篇集 "The Wandering Earth" に収録されています)。
で、残念なことに『死神永生』以降、劉慈欣さんの長篇作品はないので、長篇デビュー作品である『超新星紀元』を読んで、ぼくとしてはようやく追いついた感じです(まだまだ未訳短篇が残ってるのでしばらくは楽しめますが)。

で、長篇を発表順にならべてみると(おこがましい書き方ですが)成長著しいというかずっと成長し続けているという印象です。長篇作品が少ないとはいえ、常に次作が前作を上回る傑作になっています。翻訳の順序が

『三体』→『黒暗森林』→『死神永生』→『球状閃電』→『超新星紀元』

だったため、『超新星紀元』『球状閃電』に「三体」三部作の「萌芽」を見出しやすくなったので、それはそれでよかったのかなとも感じますが、(結果としてここ2作品が『死神永生』の先として期待してたレベルではなかったのもあり)『死神永生』で最長不倒距離の大ジャンプを見せてくれたまま新作が途絶えてしまったことで、はたしてぼくたちは劉慈欣さんのピークを見届けたのか、はたまたいつかもっと遠くへ連れて行ってくれるのかと新作を待ちわびてしまいます。

大長篇が出ないかなあ。


関連記事
劉慈欣『三体』(Cixin Liu"The Three-Body Problem")を読みました
劉慈欣 "Death's End" を読みました。


追記
『球状閃電』と『三体X・観想之宙』(著者:宝樹)の感想を書いてなかったことに気づきました。
『球状閃電』は球電現象の正体をつきとめる中盤ぐらいまでとても快調でした(『超新星紀元』の快調さはおとなたちがフェイドアウトする1/3ぐらいまでだとして)。後半はあまり乗り切れなかったですが『三体』と重なり合う部分もあるしエピローグはいい雰囲気なので読んで損はないです。
『三体X・観想之宙』は宝樹さんという「三体」シリーズの大ファンが書いた「外伝」(というかファンフィクションです)。こちらは読んだときの感想が残ってたのでいまさらですけどせっかくなのでアップロードしときます。

宝樹『三体X・観想之宙』 "The Redemption of Time" を読みました

宝樹『三体X・観想之宙』 "The Redemption of Time" を読みました

日本で『三体』ブームが吹き荒れる中、アメリカでは『三体X・観想之宙』(宝樹)が "The Redemption of Time" として英訳されたので読みました。
翻訳は今回もまかせて安心ケン・リュウです。

これはいわゆる「ファン・フィクション」です。
熱烈な劉慈欣ファンによる二次創作が公式に(?)認められて『三体』と同じ出版社から発行されてしまったというものです。

「三体」シリーズ3作目にして最終巻『死神永生』を読んだ2日後に第1部を書き上げ、3週間後には全編ネットにアップロードしていたというのですからとてつもない情熱です(英訳版にあたって作者の宝樹さんが、序文を寄せているのですが、中国で『三体』がどれほどの熱気に包まれていたか伝わってくるとてもよいものでした。宝樹さんは発売当時ベルギーにいて購入できず、あまりの読みたさに友人に全ページ写真に撮ってメールで送ってもらったそうです)。

さて肝心の内容なのですが、ぼくがあまり事前情報をいれてなかったので驚いたのですが、意外なことに長編ではなく3作の中・短編プラスアルファという構成でした。
共通点はどれも『死神永生』にまつわるエピソードなのですね。
以前ぼくが「最先端に躍り出たワイドスクリーン・バロック」と評したように『死神永生』は驚天動地の物量大作戦な内容で、当たり前なのですが結果として書かれなかった謎や設定が大量に存在しています。
それを補完するのが本作『三体X』の第1部、第2部(小説の形式ではありますが、どちらもほぼ対話だけで構成されてます)と、「実際のところ全宇宙を巻き込むレベルの戦いってどんなのよ」をほんとに書いた第3部、そしておまけに「『死神永生』のあとってこんな感じなのかな」の「コーダ」と、さらにおまけでその先を断片的に描いた「ポスト・コーダ」にわかれていていちおうつながってるのですけど、長編という感じではないです。

読みながら「なるほどー。こういう設定だったのね」「あ、実はそんな理由だったんだ」と読みながら、あまりに緻密に練られた『死神永生』の構造に目からウロコが落ちまくるのですが、最初に述べた通りこれは「ファン・フィクション」なので、信じられない説得力にもかかわらず



すべて後付けです!



マジかよ。納得しちゃったじゃん。
ぼくが『死神永生』を読んだのは発売直後だったので

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「光速」や「次元」といった「普遍の物理法則」や、「歌者(Singer)」や「二重のメタファー」そして何より「主人公の(あまり納得のいかない)判断力」をはじめ書きたいことはたくさんあるのですが
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と、当時あまり踏み込めずに羅列にとどめていた疑問点にはすべて解答が書いてありました。
それどころかなぜ「智子」があのようなことになったのかまでしっかりと説明されています(しかもこれがまさにバックグラウンドまで「オレたち万歳」なものなので日本人は必見なんじゃないですかね。劉慈欣さんはこれOKしちゃダメだろとは思いますが)。
これがすべて後付けだなんて。

『死神永生』のアンサーみたいな小説なので単独では成立し得ないのですけれど、ここまで高度に組み立てられてしまうと感動すら覚えます。かといってまじめすぎず、ファンならではの遊び心もふんだんに入ってます(それがどれもあきらかに劉慈欣さんよりも若い世代なのが伝わってくるもので、作中に出てくる日本のイメージもだいぶ異なって、ああ作者若いんだなと思いました)。

まあ、とはいえファンゆえにあのラストが書きたかったのもわかるけど「ポスト・コーダ」は蛇足だったかな。

痴性化戦争

憲法改正が話題になっています。

ぼくは以前から申し上げているように反対の立場です。
なぜかと申しますと日本の社会が「知能が低いほうが合理的な社会」だからです。
憲法改正といっても実際には第9条が目玉かと思うのですが、ここの変更で大きな影響があるのは政治家と官僚です。ところが両者とも典型的な「知能が低いほうが合理的」な職業で、それはどういうことかというと具体的には嘘をつこうが証拠を隠滅しようが「そのような意図はなかった」と答えるのが「正しい」職業ということです。
どちらもかつては「公正にふるまう」ことを目指していたのが、それは非常に困難なので「不正に気づいていないようにふるまう」ことで代替してきた結果なのだと思います。
気づくことができず「たまたまそうなったこと」は免責されるので(公正であるよりも安易な道だったため)この流れは強化されていくことになります。
今となっては証拠書類をシュレッダーにかけても「隠滅の意図はなかった」、ひとを殴っても「傷つける意図はなかった」と平然と答えるのが「正しい」ところまで到達しました。

知能を低下させることで一見不可分としか思えない行為と意図をどこまでも分離できてしまうのです。
そうやってどれだけの書類が破棄され、どれだけの嘘を積み重ねられたかわかりませんが、それらすべてになんら「意図はない」と答えるようになりました。

現在我が国の首相は原稿がなければ会話もできないですし、質問にまともに答えることもできません。
それが処世術としての佯狂なのかほんとにおかしいのかわかりませんが、そのようにふるまうことが「正しい」とされているのはまちがいないかと思います。

話題が憲法についてなので政治家と官僚を挙げましたが、原発から最近の7payにいたるまで、危機に対しての最善の対応策は「危機管理をする」ではなく「危機を認識していない」と宣言することです。
つまり危機を認識していると思われる行動は宣言と矛盾する悪手ですから「危機管理をしない」が「正しい」行動として導かれます。
そのような社会において憲法改正をおこなうのはおよそ正気の沙汰ではないと思うのです。

書いておいたほうがよいのかなと思うのでいちおう書いておきます

幻冬舎さんが文庫化の決まっていた津原泰水さんの作品の出版を土壇場でキャンセルされていたことが発覚しました。理由は昨年幻冬舎さんが発売した百田尚樹さんの『日本国紀』を批判したからだそうです。

昨今のスタンダードなやり口ですと「批判にはあたらない」「総合的な判断」とバカのふりに終始して追加情報ゼロのまま鎮火するのがセオリーなのですが、幻冬舎さんと社長の見城徹さんはある意味正直に実売部数を挙げて津原さんを攻撃しはじめてしまいました。
これはどちらか二択だとすると後者のほうが理由を説明しているだけまだ誠意があるのですが、キャンセルしたあとに作家を貶める行為なので、道義的に許されるものではありません。少なくとも第三者の目に触れる場でいきなり公開する内容ではないです。

解決したはずなのになんで今さら、と見城さんサイドがこぼされてましたが、幻冬舎さんが絶縁した津原さんに対しておこなった行為からすると、津原さんが早川書房さんでの出版を確定してから公表したそのタイミングの正しさが結果的に証明されてしまいました。

これは出版業界の特殊性などが原因であるかのように語られたりしますし、その要素もあるかと思うのですが、企業とフリーランスで取り交わされる一般的なビジネスでもあまり変わらないです。 二者間でもう少し話し合えれば世に出ないままだったのではないかと思います。

それにしても幻冬舎さんというか見城さんのツイッターやめる宣言での幕引きは、問題点への対処ではなく問題点を表面化させないための対処なので、ふつうに考えるとよくないなあと思うけど、それが「正しい対処」になるぐらい病は深いともいえますよね。

おそらく幻冬舎さんは問題点が認識できていないので、考えられる次の手はNDA(守秘義務契約)の強化なのではないかと思います。今回の津原さんの行為が契約違反になるようにして、二度と表面化しないようにされるはずです。

これは幻冬舎さんが特別な判断をされる会社なのではなく、勤勉な現場スタッフと決断力のある経営者を抱える世の中の企業が同じ状況に陥ったら同じことをするのは想像に難くないです。

発行部数が多かった時代では、編集者さんは作家さんの側に立つものと当たり前のように考えられていて、マネージメント全般を編集者さんにゆだねててもあまり問題にならなかったのですが(ほかに手段もありませんでしたし)、今はそうではなくて「どのように自分の身を守るか」を編集者さんが第一優先に動く想定で、作家さんも同様に自分の身を守る手段を持っていなければならないのかもしれません。

もちろん過去水面下で何が起きてたかは知る由もないですけど(というかほかに選択肢がない以上もっとひどいこともたくさんあったはずです)。

出版業界は大きな変動期です。紙から電子への移行は、出版社や編集者のありかた、流通、小売、再販制度にいたるすべての変化を求めています。
今回の件もこの大きな変化の流れのなかに生じた齟齬のひとつとなっていきます。

ぼくは本が好きなのでよい方向に流れていってほしいと思います。

沼の王の娘

カレン・ディオンヌ『沼の王の娘』を読みました。


最近とみに集中力が落ちてきてなかなかフィクションが読めなくなってきてるのですが、『魔眼の匣の殺人』だったか『カッコーの歌』だったかあたり以来、ようやく娯楽文芸にたどり着きましたよ(ちなみに今のところ今年のぼくのベストは『カッコーの歌』です)。

 

『拳銃使いの娘』に続く本年2冊目の「犯罪者の娘」ものです。『拳銃使いの娘』(これはすばらしい出来です)とだいぶ趣きは異なりますが、こちらもとてもおもしろかったです。
前者は脱獄した父と逃避行に出る娘ですが、本作は脱獄した父を狩る娘(もちろん父のハンティング技術は英才教育ですべて習得済み)です。

 

ほらこの設定だけでもうまちがいないでしょ。

 

あえて不満をあげると、現在と過去が交互に語られるのですが、過去の比重が高く感じたのでもうちょっと後半の父娘の駆け引きが長くてもよかったかも。
それにしても最近現在と過去のザッピングで進める形式をよく見かけるのですけど、どうなんですかね。なんらかのしかけがほどこされてる場合は別ですが、著者の作意というか情報コントロールの都合が透けてる感じがしてあまり好きではないのですけど。はやってますよね。

 

なので、本作だと現在パートのターニングポイントまでを第1部、過去パートを第2部、現在パート残りを第3部だと完全にぼくの好みになります。

 

とはいえこれだけヘビーな内容にもかかわらずあっという間に読んでしまいましたので、おすすめです。

 

なんとか仕事に活かせそうな(?)読書ができましたが、広い心で解釈してもやはり10冊に1冊ぐらいなのかも。とほほ。

 


戦車戦略 砂漠の狐

話題になっていたので大木毅『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』を読みました。

ロンメルといえばぼくの知識(おもにケムコのファミコンソフト「砂漠の狐」)によると、西部戦線では衝撃的な電撃戦で、北アメリカ戦線では機甲師団を巧みにあやつって、その大胆かつ神出鬼没な戦略で連合国側を翻弄し続け、最後はヒトラー暗殺計画に関与したとして自死を命じられたナチス第三帝国最強の知将です。

ところがそんな一般的なイメージをくつがえすようなロンメルの分析、研究はずっと続いていて、多くの新事実や成果があがっていたにもかかわらず日本ではほとんど紹介されることなく、知識のアップデートが数十年遅れている状況なのだそうです。

かつては英雄とされてたのが虚像であるとされて、今は再評価のターンみたいです。
この本は英雄か虚像かという極論を経てたどりついた人間ロンメルについて今の研究成果をコンパクトにまとめて紹介したものになります。

ロンメルは功名心や虚栄心が強く、常に先頭に立って戦線に突っ込んでいき、補給や兵站への興味は薄いが知略は優秀、と天才的な現場指揮官であったが、司令官としてはまったく適任ではなかった、というのが今の評価のようです。 あまりに深く敵陣に切り込んで何度も音信不通になってますし、司令官としては厳しいですよね。

手柄は自分だけど失敗はみんな他人のせいにするし。

そんな人間味あふれる実像が判明しても、常に危険と隣り合わせの最前線立ち続け、たとえヒトラーの指令であっても捕虜を処刑しなかったロンメルの高潔さというか筋の通った倫理観はゆるがず、戦時中敵である連合国側からも畏怖とある種の尊敬を勝ち得ていたときのまま、読後もエルヴィン・ロンメルは「砂漠の狐」であり続けていたのでよかったです。

で、ロンメルを自殺に追い込んだヒトラー暗殺計画ですが、濃淡は議論の余地がありつつもなんらかの関与はしていたっぽいです。。


最近読んだ英語の本

(最近ブログの更新ができてないのでFacebookにぽちぽち書いてる本の感想を転載してみることにしました)

会話の流れで、数年前にアメリカで翻訳出版された(元はアラビア語です) Ahmed Saadawi "Frankenstein in Baghdad" のおもしろさを力説したところなんとなく相手に伝わったので今日はよい日だった。『バグダッドのフランケンシュタイン』というタイトルのままの内容ではあるのですけど、「死者を寄せ集めて生まれたフランケンシュタインの怪物」という幻想の技法で現代のバグダッドをあぶり出す感じ。あるいは現代の百鬼丸。

でもそのあと Seth Fried のデビュー長編 "The Municipalists" のあらすじを「人間とAIのバディがテロリストと戦う『攻殻機動隊』や『ブレードランナー』の系譜」と説明したらこちらも「それどうやってもおもしろいやつじゃ…」となったので、もしかしたらぼくのSF脳が設定のゆるさに耐えられなかっただけでほんとはおもしろいのかも、と一瞬思ってしまったけど、ほんとにSF的理屈が薄くて AI バディの OWEN が万能すぎて、でも結果として映画的なページターナーに仕上がってるので、これはこれでよかったのかな。どうなんだろ。
ネットの感想みたら(ひととロボットのバディものの)アイザック・アシモフ『鋼鉄都市』を連想されてたので翻訳されたあかつきにはタイトルを『凍結都市』にしてもらいたいですね。まあ著者インタビューで "The Municipalists" がすでに「市制当局者たち」となってたので、このタイトルでそのうち翻訳されるのではないかしら(出るとしたら新潮クレスト・ブックスかな)。


あとまた新人作家の初短篇集ですけど Amy Bonnaffons "The Wrong Heaven" はとてもよかったです。それこそ上記 Seth Fried の短篇集 "The Great Frustration" をちょっと思い起こすような。こっちのがひとを食ったようなユーモアが強くて好みかも。

全然SF読んでないな。たまには読まないとと思ったけど、ネットで呉座勇一と論争してるのを見かけたので井沢元彦の「信濃戦雲録」シリーズを再読することにしました。






東日流外三郡誌とぼくのワンダフルライフ

30年に以上昔の1988年に小学館から「ワンダーライフ」という雑誌が創刊されました。

いわゆるオカルト雑誌です。

ぼくは今にいたるまで「ムー」も「マヤ」も読んだことないのですが、この「ワンダーライフ」は創刊以来毎号愛読していました。

購入した理由は「藤子・F・不二雄の異説クラブ」が掲載されていたからだったのですが、当時中学生でおこづかいも限られますので雑誌を買ったら隅から隅まで読んでしまいます。

そして創刊時14歳のぼくは「竹内文献」「宮下文書」そして「東日流外三郡誌」といった今でいう「古史古伝」に描かれる「真実」に夢中になりました。

ざっくりどんな感じかというと日本人が超古代に世界を超科学で支配していて、世界の偉人たちはだいたい日本で学んで帰国してその知識で地元で有名になってて、イエスやモーゼは日本で亡くなられてた、みたいな荒唐無稽なものばかりです。

まじめに授業を受けていればばかばかしい限りの内容ですが、当時のぼくにとって「教科書に載ってない真実」を知ってしまった衝撃はとても大きく、まさに驚天動地といってよいものでした。ついでにネッシーの正体がタリモンストラム・グレガリウムだということも学びました。

時は昭和の終わりごろ、ノストラダムスもまだその神通力を失っていませんでしたし(むしろチェルノブイリ原発事故でより迫真性を増していたかもしれません)、日本もバブルのさなかのライジング・サンでした。

その後は昭和天皇の崩御で平成がはじまり、手塚治虫や美空ひばりも相次いで亡くなり、ニュー・アカデミズムの後押しで新興宗教も盛り上がり、海の外ではソ連をはじめ東側諸国も崩壊して、たしかなものがなんにもないねどうしてぼくはここに……Tell me why に答えをくれたのがこれら「古史古伝」であり「ワンダーライフ」であったのかもしれません。

おりしもオウム真理教の布教が活発化していた時期で、このまま「ワンダーライフ」を読み続けたらオカルト沼に沈んでいてもおかしくなくて、よく現実の世界に戻ってこれたなというぐらいにハマっていたのですが、運よく帰ってくることができまして、今までなんとなく生き延びています。


これは理性の勝利というより、「ワンダーライフ」を読むきっかけとなった「異説クラブ」の掲載が藤子・F・不二雄先生の体調悪化で不定期になってしまったことと、限られたおこづかいが藤子先生の載っていない雑誌を買うことを許さなかったことが大きな要因であったと思います。

というようなことを読みながらなつかしく思い出しました。


「怒りっぽい」問題

よく怒りっぽいかたっていらっしゃいますよね。

 

あれはなんなのかと思っていたのですけど、ふと気づきました。

 

「怒りっぽい」は単独で存在しているのではなくて、すべての感情が豊か(悪くいえば制御不能)なのですね。で、それはおそらく人間の本来の姿なのだ思いました(酔っぱらいのかたがたも拝見してると怒ってたり笑ってたり泣いてたりするので理性のタガがゆるむとそんなものなのだと思います)。

 

「感情」は自分の気持ちをあらわにすることで他者に影響力を行使する原初的な「伝達」です。

そして「支配」でもあります。

 

乳児はだいたい泣いて気持ちを伝達していると同時に、自己の欲求をかなえさせるよう周囲を支配します。少し成長して幼児になると泣くか怒るか泣きながら怒ることで周囲を支配するようになります。

どこかでほとんどのひとは自分が世界の中心ではないことに気づいて世間と折り合いをつけて、あんまり泣いたり怒ったりしなくなるのですが、いわゆる「怒りっぽい」ひとはそのころと変わらず「自己の欲求をかなえさせるよう周囲を支配」するもっとも簡単なソリューションを採用し続けているのではないかと思います。

それ自体はいいも悪いもなくて、偉人と呼ばれるかたがたなんかむしろそっち系のひとのほうが多いのではないでしょうか。たとえばスティーブ・ジョブズさんやヨシユキ・トミノフスキーさんなんかも怒りっぽい伝説がたくさんありますし、単にそのひとの個性の範囲です。

 

とはいえ単なる個性であり、さらにいえば「怒り」だけでなく「喜び」も「悲しみ」も豊かなはずのになぜ感情の中で「怒り」だけがピックアップされるのか(「怒りっぽい」はあるけど「喜びっぽい」とか「悲しみっぽい」はないですよね)、そしてなにより怒りっぽいひとはなぜめんどくさいのかという問題があります。

根本的に感情は自己の欲求と強くつながっていて、「感情があらわになっている=本人が感情のコントロールを失っている」ということです。

「怒り」は自分の要求がかなわない不満を他者にぶつけて、他者の行動や変化を支配することでかなえさせようとする感情の発露です。

 

ここで不幸なのがふたつあります。

ひとつめは「知識は知性に影響を与えない」ことです。 里見が折にふれて申し上げている「バカに知識をあたえるとかしこくなるというのはまちがいで、単にめんどくさいバカになる」の法則と同じです。

「知識」は「情報」であり「情報の受容」は実に「取捨選択」ですから、どうしても偏りが生じます。すると知識が人格をおだやかにすることは原理的に不可能で、自己の都合のよい武装を強化する方向に選択されていきます。

つまりどういうことか今回の「怒り」でご説明しますと、知識が「怒り」をなだめることはなく、「怒り」に正当性をあたえるだけだということです。そのような知識だけを選別してますからあたりまえです。

 

もうひとつは「怒りっぽいひとは我慢強い」ことです。 はたからは怒られてるひとが被害者で怒ってるひとは加害者なのですけど、そこが実は正反対で、怒ってるひとは常に「被害者」なのです。幼児でも酔っぱらいでもクレーマーでもモンスターペアレントでもみんなそうです。

なぜなら怒りっぽいひとは100回の怒るべきシチュエーションを我慢強く耐え抜いてそのうちの30回ぐらいしか怒っていないからです。ふつうのひとはそのうちの10回ぐらいが怒るべき状況で、さらにそのうちの2〜3回で怒っています。

ここからもわかるように、ふつうのひとはたった7〜8回しか我慢していないのに対して怒りっぽいひとはなんと70回も我慢をしているのです。 なのでその我慢強さを凌駕する「不快」は決して許せないものになり「怒り」の正当性はゆるがないものになります。そこにいたるまでにたっぷりと耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでいるのですから、怒ってる側が「被害者」になります。

だから怒ってるひとを説得するコストは異常に高くなるし、多くの場合は徒労に終わるし、主張がくつがえらなかったことでより先方の怒りの正当性を強めることになります。

 

かくして怒りっぽいことは成功体験として人格に定着していったのではないかと思います。

 

そんなわけで以上ふたつの理由により、他者にとっての「感情のコントロールができない」ひとは、本人にとっては「論理的で我慢強い」ひとになります。

 

まあ「怒りっぽい」かたがいちばん理解できてないのは「怒りっぽいひとが怒らなかった」というのは、本人にとっては「広い心で我慢した偉大な自分」ですが、周囲のひとにとっては「地雷原で地雷が爆発しなかった」だけだということなんですけどね。


善悪の悲願

法務上、「善意」と「悪意」は日常用いられる善悪ではなくて「知らなかった」か「知ってた」かの意味になります。
まあ同じ行為でも「知らなかったならしかたないけど知っててやったならダメよ」となりがちで、知らなかったほうが有利なことが多いので(なにしろ善意というぐらいですから)、シラを切り続けることが適正な対処になります。

この「知らなかった」「予期できなかった」のたぐいは、ことの大小を問わず謝罪会見なんかでもよく用いられる話法ですが、予測できないほうが結果の責任を負わなくていいので正しい対応といえます。
責任者としてどうなのよと思うこともしばしですが、この世の中はそんな仕組みで動いています。

それはそれでよいのだと思うのですけど、責任の重さを理解するひとはその重さに応じて思慮深くありますので、副作用として「そもそも重さも理解できず責任も取れないかた」か、もしくは「有事の際は理解できないふりをして責任を回避するかた」が責任者の地位を占めるようになります。

対処法が「予測不能の不可抗力でした」と表明することである以上、予測不能の範囲が広いほうが有利、なんなら何も予測できないかたこそが最強ですから。

そんな理路なのではないかと。
結果は同じでも「知ってた/知らなかった」ことで周囲の判断が変わるというのは、法律として成文化するまでもなく感覚的に共有されているものなのだと思います。たぶんね。

なんかうまく超えられる仕組みがありそうな気もするのですが。

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