「恥ずかしい」ということ

あるニュースを見かけてふたつのことを思いました。

それは「○○が××に出るのではないか」という予測する記事に対して「恥ずかしいからやめてほしい」とするものでした。

記事に対するリアクションとして「もしそうなったら恥ずかしい」と思い発言するのはもちろん自由です。

でも本人や本人を支援、応援するひとたちからしたら別に何もしていないわけです。

勝手に持ち上げられて勝手に貶められて、してないことをよってたかって批判されたらたまったものではないなあという素朴な感想がひとつです。


もうひとつが、世界に発信すると「恥ずかしい」という考えかたについてです。

これはぼくが片隅に身を置くアニメの世界でもつきまとう問題でして、「世界に誇るべき」日本の文化を輸出して広く認知してもらおうというような感じの名分の下、いわゆる伝統文化や和食やファッションとともにゲーム、マンガなどなども「クール・ジャパン」であるとしてアニメもまたその一端を担っています。

そのようなとき、「欲しい」と思うものを目指す大衆文化の多様性とある種の絞り込みによる洗練がもたらす必然として、ソトのひとに見せて「誇らしい」と思うものと「恥ずかしい」と思うものが含まれます。

別に「クール・ジャパン」はありのままの日本を見せたいという話ではないですし、「欲しい」と「誇らしい」では「ものさし」がまったくちがいますからね。

アニメに限らず「クール・ジャパン」な服を着て「クール・ジャパン」な食事をして「クール・ジャパン」な舞台を鑑賞して日々を過ごしているかたもそうそういないでしょうし、その一方で晴れの舞台での一張羅や、ここ一番での豪華な会食も共存していてあたりまえですので、とくにおかしなことではないのですが、すでにある/いる存在に投げかける言葉として「恥ずかしい」のもつ否定的なニュアンスが少し気にかかりました。



というようなことを思いました。
被害妄想的ですかね。


春来りなば冬遠からじ

昔の古本を読んでいたら巻末の広告で鮎川哲也かなんかに「本格の孤塁を守る」という紹介がついてた記憶がありまして、それはそれで「冬」を感じていた当時の「事実」なんだろうなあと思い、その隣にならんでる作家が(現在では本格ミステリの本流と認識されてる)土屋隆夫だったのも「全然孤塁じゃないじゃん」と印象的でなんとなく覚えています。

という突然の前置きからはじまりますが、「本格ミステリ冬の時代」があったのかなかったのか論争みたいなのがありまして、あったのかなかったのか話が周期的に起こっているのです。

しかもややこしいことに肝心の「本格ミステリ」とは何かというのはマニアであっても(というかマニアだからこそ)決して踏み込んではいけないとされている面倒くさい領域の話になってしまいがちなのです。

個人的な認識として、ミステリにおける「本格」は「ジャンル」よりも「伝統」に近いものでありまして、「この要素をそなえているから本格である」といった客観的なくくりではなく、読者が「これは本格の伝統に則っているから本格である」と判断するものだと思っています。

ではここでいう「伝統」なるものはどのようなものかとなるわけですが、それは「自分や周辺が蓄積した、時間的な好ましい知識の集合」です。
「時間的」というのがポイントで「伝統」はあらかじめ存在しているものではなく、どこかの時点で気づき過去のなかに現在へとつながるルートを「発見」するものです。
さらに本格ミステリには「伝統」を強化しやすい要素が含まれているのだと思います。もともとミステリはその仕組み上、過去作品を踏まえて複雑化していくようになってますので「伝統」を見出しやすいですし、ミステリに限らず「本格」と呼ばれるものの多くは「夾雑物」を嫌う傾向がありますしね。

まあなので「この時期はこういった本格ミステリの傑作がこれだけ出版されてるから『冬の時代』とは呼べない」という反証に対して「だがわれわれは飢えていた」という「あった/なかった」は日常生活にたとえると

「金は充分あった」VS「でもしあわせじゃなかった」

みたいな対立軸なのかもしれませんね。

「社会派の時代」はいわれてるよりも短いし「幻影城」休刊から島田荘司デビューまでは2年しかないしと(別に社会派と本格は対立概念ではないので両立しますし、「幻影城」があったからって本格が守られるというものでもないんですけど)、部数はともかく出版点数的に「冬の時代」の存在を裏づけるのは困難でありながら、でも当時の証言としては「冬の時代」だったということは充分ありえて、それは作品としては存在していたがそれはあくまで個別のもので「ムーブメント」には結びついてなかったとか、「夾雑物」によって「本格」とは認められなかったとか、結局のところこれは自分史のなかでの「伝統」の位置づけのほうが、「現実」よりも強固であろうということです。

というわけで「冬の時代」は寒いといえば寒いし寒くないといえば寒くないという体感の話で「不景気」と似ている、と。


(明確な物証をともなう本当の冬の時代というのもかつて存在していて、それは検閲が乱歩を追い込んだ1930年代後半から1945年までです)


ここはすでに怪物領域

ひとの心にも社会にも「怪物」はひそんでいて、気づかないふりをしたり別の名前をあたえることでやりすごしています。

いわゆるクレーマーやモンスターペアレントになったりするのは本当は特別なひとたちではありません。むしろその行為が正当であると信じるがゆえの「強烈な正しさ」に突き動かされています(本人たちは加害者ではなく被害者だと思っているでしょうし)。

それを観察するぼくも「クレーマー」や「モンスターペアレント」と名前をつけることで彼岸の怪物領域を設定して、彼ら/彼女らと自分のあいだに線を引いてしまいます。その名前はひとによっては「おたく」かもしれませんし「在日」かもしれませんし「ドキュン」かもしれません。
みんな怪物領域を遠くに設定してみずからの安心をつくりだしています。

自分が怪物に思考を奪われているかの判断基準ですが、簡単にまとめると

(「行為」ではなく)「存在」への正当な怒り

はだいたい怪物の仕業です。

つい言葉に皮肉や嘲りを込めてしまったときにやっと気づくのですが、「不快さの排除」を裏づけるような「正しさ」が心に浮かんだ時点で足元はすでに怪物領域に踏み込んでいて、そのあまりの地続き感と平坦さに驚かされるのであります。


あのころの未来にぼくらは立っていない。

新年明けましておめでとうございます。

アニメに限らず「娯楽」は同時代のひとのためにあって、別に未来予測をしてるわけではないので、作中で描かれる年代と現実世界のあいだにはなんの関連もないのですけど、それでも『ジェッターマルス』と『新世紀エヴァンゲリオン』というふたつの作品によって、アニメ的に2015年は少し特別な年です。

まさか20年後でもまだ『ヱヴァ』の完結を待ちわびているとは思いませんでしたよね。
ちなみに74年『宇宙戦艦ヤマト』から79年『機動戦士ガンダム』とかもろもろのロボットアニメや、『未来少年コナン』から『紅の豚』までまるっと宮崎アニメを含んで95年『新世紀エヴァンゲリオン』まででざっくり20年です。
こうしてみるとここ20年の「アニメ」はその幼年期の終わりというか、進化の停滞期にあるように感じます。

先日申し上げた昭和換算だと2015年は昭和90年ですので、また区切りとなる出来事が多くなるのではないでしょうか。


ともかく未来をあたかも希望や夢に溢れたものであるかのように扱うのはよろしくありません。
残念ながら未来にはまだ何もありません。
確固たるものは実に過去だけです。

未来は何も確定してないのですから、不安と畏れで語るぐらいがちょうどよいかと思います。

でないと滅びます。

そんなわけで弊社が滅びぬよう、今年もよろしくお願いいたします。


恋愛成就物語としてのデビルマン※デビルマン関係のきなみネタバレ

永井豪先生の『デビルマン』は言わずと知れた漫画の金字塔であり、「神話」であります。



そして実は恋愛の物語でもあります。

飛鳥了の不動明への。

一方的な狂おしい恋愛。



『デビルマン』において最終戦争の果てに愛する不動明を殺してしまう最悪の決裂を「こんなのやだ」と永井先生と飛鳥了は歴史をやりなおすべく『新デビルマン』を描いてみたものの、やっぱり歴史を変えることはできず結局前と同じく溝は埋められることはなく決裂で終わってしまいます。

でもこれではいけないあきらめきれない「今度こそ深く深く反省をして絶対恋愛を成就させるのだ」と強い決意で永井先生と飛鳥了は「不動明への贖罪と反省」を大長編『バイオレンスジャック』で延々と描いたけど、それでも結末までいったらなんとやっぱり決裂してしまって、

もうこうなったら「不動明を女性にしてしまおう」とまで思いつめて『デビルマンレディー』になります。

ふたりの関係性を修復するには『バイオレンスジャック』でおこなった「ふたりのためのフィクション世界」を構築するだけではまだ足りず、フィクション世界とメタ・フィクション世界を描いて不動ジュンを母体として越境することで、やっとふたりは手を携えて神との戦いに挑めることになります。



というまあ足かけ30年近くにわたる愛とすれちがいの物語でもあるわけです。



その後『天空の狗』の不動明ではあれ? と思わされたものの、今回の『デビルマンサーガ』は冒頭からついに30年がかりで手を携えたふたりの「その後」が明示され、タイトルからも、ラストで不動明が登場した『マジン・サーガ』を想起させ、いやがおうにも期待が高まりますね。

「俺ら」のフィールド

短いんで全文貼りつけちゃいますが、過日このような文章をBlogにあげてました。

日本人が世界的に活躍をされると、当然日本では話題になるわけですが、すごいのはあくまで当のご本人であって、称賛されるのは日本という国ではないので、


ソフトバンクの孫さんがたまたま同じ部屋に入ってきたとたんに

「やっぱおれらの平均年収すげえよなあ」

とつい自分たちが誇らしくなってしまうようなおさまりの悪さを感じてしまったりもします。



ひとは誰しもほめられたいしけなされたくないので、無意識に「俺ら」の範囲をコントロールしていて、なんとなく「ノーベル賞を獲ったひと」は「俺ら」だし、「犯罪者」は「あいつら」になります。

よく犯罪者がおたく趣味を持ってることがわかると、そこが強調されて報道されるということがいわれています。
これはおそらくマスコミがあえて取捨選択しているのではなくて、取材・報道されてるかたと視聴者が(無意識かもしれませんし、その無意識の要請に応えてるだけかもしれませんが)、「俺らじゃない」と安心するためのいわば「範囲指定」をしているのではないかと思います。

「根本的な帰属の誤り」という人間の認知バイアスがありまして(くわしくは適当に検索していただくとして)、これはネガティブなもの/ひとに強くはたらく気がするのも、もしかすると同根なのかもしれません。

もともと、他者に感情移入したり相手の立場で考えるというのは、世間で考えられているよりも困難であり多大なエネルギーを消費するもので、そのなかで善行はわがことのように接続して喜びやすく、悪行は他人事のように断絶して裁きやすいのではないかと思います。


このような身勝手にゆれ動いて定まらない「俺ら」的思考から抜け出すことはできないにしても、意識してなるべく囚われないようにしていきたいものだとぼんやり考えながら広大なネットの海を拝見してました。



サッカーと戦争

半年ほど前に書いたもののなにかのはずみで炎上するとイヤだから公開してなかった文章を、争点もズレたことだし選挙直前なのであげておきます。



戦後一貫して否定されてきた日本の集団的自衛権を内閣の「憲法解釈」によって容認しようという流れになっています。

憲法はいわば国民と政府の間の契約なのですが、権力を統制する国民とは無関係に、(契約の片方であり)権力側である政府の一方的な解釈だけでここまで自由にしてよいとなると、もはや日本語で契約書をつくっても意味がないんじゃないかという気もします。
機能しなくなって久しいものの一応日本は三権分立によって権力をコントロールすることになっていますし、ここんとこ存在の薄い「司法」がまだ息をしているのであればぜひがんばっていただきたいと思います。

さて、ちょっと前にサッカーのワールドカップがらみで「日本は戦争に向いてない」というのを見かけて、ずっと気になってました。
国際的なスポーツ大会を国家の代理戦争と見なすのはめずらしいものではなくて、東西冷戦下のオリンピックもそうでしたし、サッカーもフォークランド紛争後のイングランド対アルゼンチンとか、もっと直接的な「サッカー戦争」なんてのもありました。
なのでサッカーの日本代表の戦いぶりや国民の反応から「もし日本が戦争をしたら」と想定するのはいちおうおかしなことではありません。

そしてぼくがそんな視点でワールドカップを見て思ったのは、日本は戦争向きではないのはたしかなのですけど、それは逆に世界の国々のみなさまにとっても同様だということです。
日本は情緒優先で負けても盛り上がって次へ次へと進んで合理的判断をしないので、ふつうであれば「降伏」したり「そもそも開戦しない」だったりという状況であってもなぜか「まだいける。奇跡を信じて」みたいな結論になっていつまでも戦争続行して原爆でも落とさない限り終わらなそうなので、日本と戦争をしたくないなあという感じではないかと思います。
「どうやって戦うか」という問いに「自分らしく」とか、何度負けても「負けられない戦いがある」とか「奇跡を信じて」とか「状況」をまったく踏まえず真顔で答えるところとは、スポーツはともかく戦争はしないほうがいいです。


というわけで強い弱い以前に、戦争に向いてない国民性を抑え込むタガとして憲法九条は結果的に機能していた側面がありますので、現状のいわゆる「解釈改憲」の目指すところはともかく、融通性の高い「解釈」の運用でなんとかするはタガにならないので非常に危険だと思うわけです。

【昭和60年代】という遺産

みなさまご存じのように昭和は64年までしかありませんので、あまり「昭和60年代」という言葉はつかわれてこなかったかもしれませんが、この昭和/平成で前後に分断されたがゆえに見えにくくなっている「昭和60年代」というくくりこそが、実は重要なのではないかと思いつきまして、ためしに「昭和」で表記していってみます。



この10年間は、国内的にはバブル景気とその崩壊(昭和61〜66)を含み、特に象徴的なのは昭和が平成となる昭和64年で手塚治虫、美空ひばり、そしてもちろん昭和天皇が逝去(崩御)しています。

世界的には天安門事件(昭和64)やソ連(をはじめとする社会主義国)の崩壊(昭和66)や湾岸戦争(昭和65)がありました。

さらにわかりやすくするためにセガを例に挙げると、セガ・マーク?(昭和60)からマスターシステムやメガドライブをはさむセガサターン(昭和69)までです。

TVアニメでいうと『機動戦士Ζガンダム』(昭和60)から『新世紀エヴァンゲリオン』(昭和70)の前までだと思ってください。またこの時代はOVA時代でもあり、『機動警察パトレイバー』(昭和63〜64)や『トップをねらえ!』(昭和63)や『ジャイアントロボ〜地球が静止する日〜』(昭和67〜73)などなど記憶に残るOVAはほぼこの時期に発売されています。そしてスタジオジブリ誕生(昭和60)から躍進の10年でもあります(この10年期の終わりに徳間書店から離脱します)。



文章で列挙していってもあまり意味がないですね。ひまになったらそのうちこの10年期のアニメ年表でも作成してみようかと思います。

ざっくりテレビ局/代理店/玩具メーカーさんの公家政権の完成ではじまり、映像メーカー/クリエイターさんによるOVA武家の勃興/群雄割拠から『エヴァ』による製作委員会方式による武家政権の完成までと、ジブリによる天皇制をたどる10年になるとおもしろくなる気がしますけど、ならないかもしれません。







つまり日本にとっても世界にとっても、ぼくのようなぼんくらアニメ少年にとっても「昭和60年代」というのはターニングポイントだったのではないかと思うのです。




日本人と称賛

日本人が世界的に活躍をされると、当然日本では話題になるわけですが、すごいのはあくまで当のご本人であって、称賛されるのは日本という国ではないので、


ソフトバンクの孫さんがたまたま同じ部屋に入ってきたとたんに

「やっぱおれらの平均年収すげえよなあ」

とつい自分たちが誇らしくなってしまうようなおさまりの悪さを感じてしまったりもします。

お勧め本について

「自分の好きなもの」と「他人に勧めるもの」って同じようで違いまして、その区別がつかないひとは、自分勝手なふるまいをしているように見えてしまいます。
肉が嫌いなひとに「俺はステーキ好きだから食えよ」と押しつけたりしてはいけないということですね。
このブログでもたまに本について書くことがあるのですが

『これは「自分の好きな本」なのか「他人に勧める本」なのか』

の判断は常に迷います。

それはこのブログを読んでいる奇特なかたがたが期待しているのは、ぼくのアニメプロデューサーや経営者の側面「ならでは」のものではないかという予想もありますが、それ以前にぼく自身「好きなもの/勧めるもの」の差異がよくわからなくなっているのが大きいです。

書籍のヒット作を「ミリオンセラー」と呼びますが、これは100万部なので日本の人口の1%以下です。さらにぼくが読んで喜んでいる本は海外翻訳やジャンル小説のことが多く、つまりぶっちゃけ部数が少ないことが多いです。
なのでよく考えたら読書を愛好するひとがそもそも好事家で、そのなかでもさらに選りすぐりの好事家向けのことしか書けないということです。

ここで里見が学生時代に選んだ国内ミステリのベスト12の写真が出てきたのでせっかくなのでダメなマニアがどれぐらいダメなのかを示すためにあげておきます。誤植は気にしないでください。



こんなひねくれた人間がまともな本を他人にお勧めできるはずがないという見地から、あまり本について書かないというスタンスでやっています。

いやそうじゃない。今日書きたかったのはシリーズの途中でおもしろい作品に出会ったらどうするのか問題です。
たとえば谷甲州の傑作SF『軌道傭兵』シリーズ(リンクはKindle版)を読んでいたら途中のある巻で、突然ミステリものに出くわしたとしましょう。しかもそれが「史上最小の密室」という意欲的な試みだったとしたら、それはミステリ好きの知り合いに勧められるのかどうか。当然シリーズものなのでそこまで語られてきたいくつもの事件を経てのキャラクターの配置や人間関係は知っておいたほうが楽しめます。
たまにそういう作品に出くわします。

また「シリーズものを読み続けてきたことのご褒美」みたいなケースもあります。長いシリーズだと大変なので2作でわかる例を挙げると、七河迦南『アルバトロスは羽ばたかない』のおもしろさは『七つの海を照らす星』を読んだ後のほうが絶対にいい、というようなことです。

こんなことを突然考えてたのは、マイクル・シアーズの『秘密資産』というのがとてもおもしろくて「これはひさびさにブログでみなさまにお勧めせねばなるまい」と思ったけどこれ『ブラック・フライデー』の続編だ、と躊躇してしまったのです。
前作の『ブラック・フライデー』ももちろん安心してお勧めできるおもしろさなのですが、ちょっと最後のまとめかたが好みではなかったのでスルーしてました。
で、前作を読んでいないと『秘密資産』のおもしろさは減じてしまうので、ぜひあわせて読んでいただきたいのですが、みなさまもお忙しいわけでそれもハードル高いかなあとか思うわけですね。

そんな多忙なみなさまにお勧めなのがロジャー・ホッブズのデビュー作『ゴーストマン 時限紙幣』です。ぜひお読みください。

 
ロジャー ホッブズ
文藝春秋
¥ 1,944
(2014-08-08)


| 1/160PAGES | >>
バーナムスタジオ

categories

archives

links

profile

others

search this site.