未来の想い出

たまに『ドラえもん』の最終回という二次創作が「泣ける/感動した」というコメントともに流れてくるのですが、内容的にどうにももやもやします。この前もまた流れてきました。ほっとくとすぐもやもやごと忘れてしまうので、何がよろしくないのか書き留めておきます。

ちなみにぼくは「泣ける/感動した」といわれるとその内容に興味を失います。



あらすじはこちら→ ドラえもん最終話同人誌問題



「のび太ががんばって将来ドラえもんを修理する」話です。これが「二次創作らしいけどいい話だからいいじゃん」的に何度も流れてくるのです。



ぼくが思うに藤子・F・不二雄先生の世界と「努力で夢をかなえる」はそぐわないです。なぜなら『ドラえもん』は感動したい大人のためではなく、児童漫画として(未来の大人である)こどものために描かれているからです。

F先生のキャラクターたちのセリフは「平易」ではあるけれど「安易」ではないと思います。

「努力で何かを将来達成する」は気持ちの良い出世譚ですが、この努力の神話ともいうべきものは達成できなかったものをなんでも逆説的に「努力が足りなかったから」に還元できてしまう「安易」なもので、実際『ドラえもん』をはじめとする児童漫画の読者(つまりこどもたち)の大半はその後の人生のどこかで挫折を味わうことになります。何度も何度も。ぼくも挫折だらけです。


「のび太の結婚前夜」でしずかのパパはのび太を「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる人」で、そしてそれは「いちばん人間としてだいじなこと」なのだと語ります。

決して何かを成し遂げた大人としてではないです。

「努力」は「将来への呪縛」で、それが成功/挫折と結びつくとあっという間に陳腐になり、勝者と敗者に分別されてしまいます。それはこどもに背負わせるものではありません。


ただのび太は「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる」からりっぱな大人なのです。


もちろんこの二次創作自体はこどもに向けたものではなく『ドラえもん』はどうやって終わったら泣けるかねえと考えて描かれてると思うので「こんなのドラえもんじゃない」などととやかく申し上げるものではありませんし、実際別のひとが好きに描いたものですから筋違いなのですけど、ぼくとしては藤子漫画的ではないので生理的にあまり受けつけない感じです。



文句だけ書くのもなんなので意味のないことですが、もし『ドラえもん』の最終回が描かれていたらどうなっていただろうと想像してみます(間違っても大人の目線から努力と達成を描いて感動させたりはしないと思うのです)。

それは想像にすぎませんが、読者であるこどもたちを明日へ(それはたしかにはるか遠くの将来とか未来につながっているけれど、ちいさな一歩に過ぎない明日へ)と送り出すものだったと思います。かつて描かれた最終回「さようならドラえもん」のようにちょっと物悲しくなるかもしれませんが、明日へちいさな一歩を踏み出す力になるそんな最終回だったのではないかと。

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