瞳の中のアンファンテリブル

まず前提としてぼく個人の考えを表明しておくと、巷間よくいわれる「ゲーム/マンガ/アニメ/小説などのフィクションを大量に摂取すると現実と区別がつかなくなる」はまちがいです。量は必ず質をともないますから、大量のフィクションの消化で区別はより強化されます。むしろ、フィクションに触れない人生を送られてきたひとは、本当にフィクションと現実の区別がつかないです。

もちろんこれは前置きした通りぼくの個人的な考えであり統計的な論拠のある話ではなく、たとえば「虚構新聞を毎日読んでるひととはじめて見るひと、どっちが現実と混同してしまいやすい?」という問いに、有識者のかたは前者と答え、ぼくは後者と答えるという立場の話です。

(さらに付け加えるとそのようなかたたちはフィクションと現実の区別をつける必要性を感じていないです。よくいわれる「デマらしいけどいい話なのだから問題ない」はその典型ですが、これは容易に「フィクションだけど悪いことだから問題がある」になります。というかすでになってます)

それはフィクションに触れはじめたころのぼくらが『ノストラダムスの大予言』とか「民明書房」とか『MMR』とかあすかあきお作品を信じたりしたのと同じです。
なので『「フィクションと現実の区別がつかなくなる」というフィクションと現実の区別がつかなくなってるひと』に「まったく別でしょ。区別ぐらいできるよ」とふだんフィクションに触れているひとたちが声をあげてもあまり意味がない気がします。

なぜならこの区別する能力は万人に生来備わっているものではなく、後天的な学習の成果だからです。

実際フィクションを受容し慣れているかたでもまったく無縁な別世界のフィクション、たとえば「暴力」や「性」「政治」「宗教」「歴史」などが扱われていれば生理的な嫌悪感をもよおすことはあります。

ひとを規制に駆り立てる本質は「存在が不快である」に尽きるのですが、不快/嫌悪は生理的な反応なので「気持ちの動きを制御しよう」という高度に理性的な抑制がない限り排除に傾きますし、あえて気持ちに反する例証を探してバランスを取るより、気持ちを正当化するものを集めて論理的理性的に不快/嫌悪の根拠を補強するほうが自然です。

そしてねじれた問題として「フィクションはひとに影響を与えるのか」というのがあって、ぼくもおもしろいフィクションは次のフィクションに向かう力を与えてくれてまた次のフィクションへ……をくりかえして今に至っているので、そこになんらかの力が備わっていることを否定できません。

というか、ご安心ください。
影響は必ずあります

刺激的な内容に意図せずぶつかればその衝撃ははかりしれないほどの。
だから、本当に現実と区別がつかない人間を想定すれば危険が絶対にないとは決して申し上げられないわけです。
「絶対」は想像力の停止だからです。

一般的に想像力とは「可能性のバリエーションをどれだけ思いつけるか」にその効能があって「推定に推定を重ねる」いわゆる「風が吹けば桶屋が儲かる」的な思考は落語として笑いとともに理解するべきものなのですが、フィクション慣れしたひとびとが思うよりもその境界は曖昧模糊としていて、世の中では意外とまかり通ります。それが間にフィクションをはさんでもOKなひとだと適用範囲はさらに広がります。

つまりそれが後天的なものであり、慣れによって受容範囲が広がる性質のものなら、結果として想像力をうまく働かせることができる側が不利になるという事態に陥ってしまいます。

そしてぼくはその性質上、いたしかたないものと考えます。

それはなぜかといいますと、ここまで曖昧に「フィクションと現実の区別がつかない」ひととしてきましたが、その具体的な対象を申し上げるとおもにこれからフィクション、ノンフィクション問わず多くのものをその感受性で吸収していく「こどもたち」だからです。
こどもの習熟の過程に応じて吸収のアクセスに段階を設けようと思うのはむしろ自然でしょう。

そして規制を求めているかたたちの脳裏にも、守るべき「こどもたち」が存在していると思います。
「児童ポルノ」的文脈からだと「フィクションに描かれたこどもたち」に目がいきがちですが、ここで申し上げているのは「フィクションの受け手としてのこどもたち」です。

ここで実在/非実在を問うことに意味はありません。

非実在でも脳内には存在してますし、それは現実の「こどもたち」としては存在しなくても、想像したかたの心を形づくるたしかな一部だからです。
大人であっても誰もがどこかに無防備な衝撃を受けやすい「こどもたち」の部分を抱えている……それがぼくがここで拡大解釈する「こどもたち」です。

これは「表現の自由」の問題でもなく「実在/非実在」の問題でもなく、そしてここまで述べてきた「フィクション/現実」の問題ですらなく、万人の「感受性のやわらかな部分=こどもたち」の問題です。


そんなわけでぐるぐるめぐったあげくのぼくの結論としては、規制に対する唯ひとつの(本当に唯ひとつしかない)武器は、『「こどもたち」と望まぬ刺激物を切り離すしかない』です。
具体的には強力な「ゾーニング」つまり「すみわけ」だと思う次第です。

なんという月並みな結論。

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