同根異曲その3

「芸術は未来に投げられたフリーズドライ」的なお話の続きです。

ようやく本題の音楽について書いていけそうな感じにぼくの中でなってきたのになぜか脇道にそれてつらつら書きます。

このめずらしく数日に渡る芸術/娯楽話の発端は、現代音楽と映画音楽(いわゆる劇伴)/ポップス等の関係について思いつくままに書き留めておこうというものですのでしかたありません。

ここまで「外部」からの見えかたについて書いていたので、今回は芸術の「内側」から書こうと思います。

前回芸術は「時間をある程度超越する」と書きましたが、これはある意味勝者側の歴史です。時間の淘汰圧との闘争=同時代作品との「蠱毒」で生き残ったから超越した存在と意識されるので本来順序は逆が正しいかもしれません。

芸術は究極的には「美」の探求/放棄の歴史とその蓄積でもあり、言語化し得ぬ先に目標が設定されていて最終的な到達地点が用意されていないため、ジャンル内ではいつでもいつまでもたゆまぬ試行錯誤の進化闘争が続きます。

(あ。今回は「進化」でたとえていくことにしました)

あたかも生物のように多くの系統樹が枝葉を拡げ、伸びたり途絶えたりして時間軸を下っていきます。
芸術にも流行り廃りがあるではないかといわれるとその通りですが、これはファッションにおける「モード」のイメージで、たしかにくるくるとめまぐるしく変化しますが、「モード」は「死」に追いつかれないように転変とするものなのでしかたありません。
もちろん「モード」にとらわれすぎると時間を超越できなくなるリスクが高まりますし、現世利益と芸術の探求は矛盾することがよく知られていますので、ほどほどに追い求められることになります。

ここでいう「進化」とは常に前(だと信じる向き)に対応して変化しながら進む、ということで「芸術」は同じ場所には留まりません(個々人の意思による「定向進化」とでも申しましょうか)。
同じことをくりかえしても無意味ですので新しい試みを多方面に開拓し続けます。
ここで可能性を模索し、未踏の地を求め「ハイコンテクスト」化が推し進められて、外部からはよくわからなくなっていったりします。これは人類の文化すべてにあてはまる、過去を土台により遠くに進むための必然なのですが、土台を共有しない「外部」からは文字通り「よくわからない」ものになります。それでもシュルレアリスムやダダイズムの頃よりはまし(?)になっているのではないかと個人的には思います(あの頃のが人類に全能感があった気がします)。

より大きな問題は、生物の進化と同じく到達点がない(「芸術」の評価は人類が積み上げてきた評価の積み重ねによって評価される、ある種人類の「約束事」の集積なので)ことと、それにともなって鑑賞者の存在が必要不可欠となるので作品単体では「芸術」として存在できないことでしょうか。

ともあれ「可能性の探求/未踏の開拓」こそが現代的な芸術のありかたに感じられます。

閑話休題的な話として、たまに「娯楽」との間に収斂進化も発生します。便器で有名な美を放棄するほうの芸術家マルセル・デュシャンなんかも名を連ねていたらしいウリポ(数学的な視点から新しい文学の可能性を探求してた集団)の代表的な作家レーモン・クノーの「あなたまかせのお話」は、結果的にゲームブックの先駆となっています(たぶんね)。

もちろんこれは部分的な話で、このような結果的な収斂はありつつも基本的には同じ道具の用途違いですので、なんとなく住み分けはされています。

冒頭に書いた「芸術は未来に投げられたフリーズドライ」とは、日々「可能性の探求/未踏の開拓」として産み出される芸術作品と呼ばれるものが(常に現在に投げられている「娯楽」と異なり)「未来に投げられて」おり、「鑑賞者の相互作用を必要とする」ということです。
それは淘汰の結果を自分で見ることもかなわない(可能性が高い)「時間」に自作をゆだねる行為です。それは現在と未来で二重の闘争を繰り広げていることになります。
純度の高い「芸術」ほど遠い未来に作品を投げかけている(つもりな)ので、より一層浮世離れしていく所以です。



といったところで、次は「娯楽」側の話を書くような気がします。

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