同根異曲その4

そうそう。肝心なことを書き忘れてました。
現代音楽の担い手が過去の蓄積の最先端に立ち、知識と技量を兼ね備えていたかたであったことは、今回知った収穫でした。
そうでなくてはいけません。
そして新垣さんが今後も音楽活動を続けられるとよいなあと心から思います。

さてのらりくらりと寄り道をしていたら週末になっていたので「娯楽」とは何かについて書くという前言を翻して音楽について書きます。

やっと個人的な話です。

ぼくにとっての音楽は永く「アニメソング」であり「アニメのBGM」でした。なにせこどもの頃からアニメしか見てなかったもので。おかげでアニメ以外の流行歌やドラマや映画の同世代懐かし話はほとんどついていけないか、大人になってから大量摂取して知識的に辻褄を合わせているかのどちらかです。しかもアニメもその頃流行ってたいわゆるリアルロボット系は苦手で何も観ていないのでアニメファンとしても欠落が大きいです。

で、そんなぼくが何をいいたいかというと、ぼくは常にアニメのキャラクターとストーリーとともに音楽を視聴してきたということです。
ぼくは数分のアニメソングを聴くたびに1年にわたる(放送期間によって違いますが)キャラクターの成長や苦悩や喜びや闘いのドラマを重ね合わせていました。
たぶん今でもそうです。

これは音楽を音楽としてもちろん「一連の音の構造体」として理解するのとは次元が違うのですが、こちらのほうがぼくはその育ちゆえに自然と感じます。

たとえばアニメを観ないひとに「With -友よ共に」という曲を聴いてもらって、そのあと『疾風! アイアンリーガー』を全話観てからもう一度聴いてもらうと感想は変わるんじゃないか、そしてそれは自然なことじゃないかということです。
変わらないのであればあまりぼくと話が合わないです。

さて。その昔、真下耕一監督から「さとみー。アニメは絵と音だけでできてるんだからなー。アニメの半分は音でできてるんだ。どちらも同じぐらい重要なんだ」という意味のこといわれたことがありまして、それはいわれてみれば当たり前のことなのですが、とても基本的で大事なことだと今でも覚えています。

映像は絵と音ですから音楽(映画音楽/劇伴)の使命は映像と音楽の最上の相乗作用の希求にあります。
そこで音楽だけを切り出しておもしろい/つまらないと評価をくだすことは、原理的に不可能です。なぜなら共同作業でつくりあげられる映像作品において絵は音に/音は絵に貢献することが求められているからです。
結果として絵が音に/音が絵に負けたり勝ったりすることはありますが、本来的にはひとつの映像作品として評価されるべきものです。
もしそれができるとすれば作品自体ではなく鑑賞者の偏向か視野のせまさに由来するだろうと思います。そしてもちろんその偏向や視野の選択は鑑賞者の自由に委ねられているものですが、共同作業の部分を切り出して評価をくだしているのは間違いありません。

そして人間の五感の中でも特に聴覚は、嗅覚とならんで特定の記憶と結びつき、その記憶を呼び起こす機能が強いように思えます。これはドラマや物語を誘引する力が強いともいえます。言語化し得ぬものをもやっとしたまま理解する脳の便利機能のような気もします。
人間は語りえぬものについて沈黙するようにはできていませんから、音楽を音楽のままで置いておくことに不安があるのかもしれません。
そして語りえぬものの「言語化」こそが「ヒト/物語」へとつながります。

そして先日も申し上げた通り、ひとが成果物を成果物のみで「理解」するのは理想ですが、それはひとには不可能で、常に言語の物語が立ち現れます。

そして人間はあまり多くのひとを同時に思い浮かべることができません。
なので、アニメという「共同作業」を起点に音楽を享受してきた身からすると、もっと一体のものとして鑑賞するのがひとつの解法なのだと思います。つまりアニメの「絵」はいわゆるセル・背景・CG・さまざまなフィルターやエフェクトで、「音」は声・効果音・BGMの(それらを担う多くのひとの手による)「共同作業」です。でもそれらの要素はバラバラではなく一体のものとして表現として成立しているのですから、やはり一体のものとして受容すればよいと思います。

同様に音楽も作曲・作詞・編曲・演奏・声などの「共同作業」ですから、それぞれを分割して貴賎を設定したりせずに鑑賞するのがよいのだと思います。

(ぼくとしては)意外にも現代音楽のひとが(共同作業の「部分」である)作曲者に特権的な地位を見出してたり、映画音楽/ポップスをしておもしろくない/つまらないというのは、自分たちが志向する未来や未踏を「共同作業」の映画音楽/ポップスが志向していないからだと思うのですが、それは「自分と目的地が違う旅行者は旅行をわかってない」みたいな話であまりにせまい了見でしょう。
これは「大学の先生」という了見のせまくあるべき立場からの発言としては、よいと思います(立場/役割は発言を硬直化させます。硬直しないと舌禍問題になったりしますので、それ自体悪いことではありません)。とても知性的です。そして固定の視座には死角が生まれ、それは本来希求していた自由を失うことでもあります。

「芸術」に限らずもっとちいさな「ジャンル」レベルもなのですが、長い時間をかけたひととひととの約束事や衆知の上に積み重ねたものについてまわる「評価」の問題は、つまるところ世間と自分の問題なので、個々人でバランスを取りつつ発言をするのがよいですね。定義問題が紛糾する所以であります。

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