知には平和を

ここのところの世の中のできごとから「本音/建前」を経由して「知識」について考えていました。とりとめもなくとくに結論も出ない話なのですが、最近なんでもすぐ忘れてしまうので、備忘録的にダラダラ書き出しておきます。

地方議会での野次問題や、中東の人質問題にいたるまで起こっている事象は「女性蔑視」や「基本的人権」と表面上はまったく違いますが、傍観しているのは同じひとなので同じような結論が導かれます(そして表面上はともかく本質は同じものであります)。

それが「本音/建前」の話です。

おそらく日本は(巷間伝えられるところと異なり)「建前」が弱く「本音」が尊ばれすぎているように思います。

ほとんどの場合、自身の「知識」の多寡は主観ではわからないようにできていますので、問題の発言をされた地方議員のかたも大臣のかたも雑誌記者のかたも新聞記者のかたも、「知識が欠落していたこと」ではなく「みんな思ってる本音を、建前で語るべき場所で発言したこと」が原因と認識されているかと思います。
「本音」にこそ「正しさ」が宿るとされている社会では同じことがくりかえされます。
なぜなら「本音」は「感情」と置き換えても成立するある意味自然なものだからです。

ある対立する立場があると(それは「オタク/一般人」でも「黒人/白人」でもいいのですけど)、だいたいマイノリティであったり社会認知が遅れている守勢側に「知識」が蓄えられます。
強い「本音/感情」に対抗するには「知識」によって(相手にとっての)「建前」を積みあげていくしかないからです。
そうしてつくられた「政治的正しさ」の価値は尊重されるべきものですが、それはそれとして「本音の正しさ」のほうがより優位であるとされてしまうと事態は改善されないことになります。

ぼくはいわゆる「個人の行為や信条」から導かれる「自己責任論」なるものを採らないですし、ましてそのような考えかたをベースに「日本政府や日本国民が救うべき生命と見捨てるべき生命」を峻別する(ことができると思う)のは傲慢極まりないと考えています。できることは「ともかく救え」なのだと思います。
ところがここでぼくは「陥穽」にはまってしまいます。なぜなら生命は日々あたりまえのように失われているからです。センセーショナルなインターネットの動画が伝えるのも、通勤時にJRのアナウンスが伝えるのも、同じ生命です。そこにちがいを生じさせてしまう自分の「本音/感情」の自然なバイアスは、結局「生存権」という根本的な権利においてすら「本音/建前」の線の引く位置のちがいでしかないということですから、これは「陥穽」にほかなりません。

そして民主主義は国民の意見の総和でものごとが決められていくもので、素朴な「本音」こそがすばらしいとなると「国家」も同じ「陥穽」にはまってしまいます。そうならないためのセーフティもしくは制約が「憲法」であったり結果としての「間接民主制」だったりするかと思います。

なので「自己責任」の反対に「仇をとってやらねばならぬ」から「日本人を救えない憲法なんて、もういらない」という意見があるのもまた「本音/感情」の強さの証左ではないかと思います。
このふたつが組み合わさると憲法が捨て去るのは結果的に「戦争放棄」ではなく「基本的人権」のような気もします。


また守勢側の「武器」として用いられる「知識」は往々にして攻撃的になりがちですので、以下に知識の三原則を掲げておきます。


第一条
知識で人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 知識は人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

第三条 知識は、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

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