プロデュースの達人

どこかで辻真先先生が日本のアニメに関して、
本来の意味でのプロデューサーは『鉄腕アトム』のころの手塚治虫先生ぐらいではないか、
と書かれていたのを拝見した記憶があります。
これはクリエイティブ面もビジネス面もすべての「権限と責任」が「手塚治虫」というたったひとりのプロデューサーに集約されている状態を指していて、アニメの歴史上その状態にあまり類例がないということだと思います。
まあたしかに。

ぼくは手塚先生の時代はおろかいわゆる製作委員会方式以降のアニメしか存じ上げませんし、きちんと当時の実態を把握しているわけでもありません。
ですがこの「『鉄腕アトム』時代の手塚先生」という言葉は、古代中国で聖天子と呼ばれて理想化された堯・舜のように「プロデューサーの始原にして究極」としてよいのではないかと考えています。

常日頃「プロデューサーの仕事」とは端的に「投資と回収」と申し上げていますがこれは「業務のあり方」で、もうひとつ「あるべき姿」を示す視点から、アニメの「権限と責任」を担うポジションということもできます。
この後者の視点で、もっとも「権限と責任」が濃密に集約されていたのが「『鉄腕アトム』時代の手塚先生」であり、ぼくのようなフリーランスの木っ端プロデューサーにとっての理想像です。この「権限と責任」視点での理想的プロデューサー像を目指して日々研鑽を積んでいくのが、ぼんくらなりの真摯な姿勢といえるのではないでしょうか。
もちろん現在ではひとつのアニメに複数のプロデューサーが立ち、個人がすべてを集約するという時代ではないので、「権限と責任」のバランスを求めることになるかと思います。

「権限と責任」については以前このブログでも触れたことがあります。

上を下への自利利他

ここで書いたように
「権限は上に、責任は下に行きたがる」
ので、常にバランスを失う方向に力が働きます。その性質にあらがい、強い意志で集まってくる自己の権限を他者に委譲し、他者に移行しようとする責任を自己に引き受け続けるという不断の覚悟がなければ「理想のバランス」に近づくことはできません。
というか、「下りのエスカレーター」に乗っているようなものなので、この不断の覚悟と努力がなければ同じレベルにとどまることすらできず、後退し続けていることになります。
ぼくの場合は数年前の自分に届いているかもあやしいです。というかかなり下落しているのではないかと推測しています。
この手の「努力の成果」は自己診断できず、ゆるゆると仕事が減っていく/増えていくことで間接的に観察することしかできない事象です(もしかしたらそれすら錯覚かもしれません)。
げにおそろしいことです。

これとは正反対に上記の「権限と責任」の性質に棹さして「あらゆる権限を保有しつつ、あらゆる責任を他者に背負わせる」とか、さらにそれを推し進めて「あらゆる権限の発動を他者に委ねることで、あらゆる責任を他者に背負わせる」といったプロデューススタイルも用意されています。必然的にプロデューサーが林立する製作委員会というシステムそれ自体が後押ししているのかもしれません。
それは「提案を承認する権限は保有するが、責任は提案者にある」とか「そもそも権限を何も持たないので責任は何もない」というとても「広い門」であり、「責任を背負う」不合理から逃れられるので、ついそちらの安楽な道を進んでしまいがちになります。

まあこちらはこちらで極めると「当たり判定ゼロ」の「無敵状態」のプロデューサーになれるので、必ずしもまちがっていないのですが、自分の保身だけを考えてたらうっかり「護身完成」してたという話なので、目指してたどり着くようなものではありません。

自分がどのレベルにいるのかわからないというのはことプロデューサーに限らずいろいろな職業につきまとうものだと思います。
はるかかなたでまばゆくきらめく「『鉄腕アトム』時代の手塚先生」を仰ぎ見つつ、この恐怖と不安を強く意識して抱えていることが大事だよとシモーヌ・ヴェイユさんもおっしゃってた気がするので、なんとか今日も奈落に向けて速度を増す「下りのエスカレーター」で同じ高さにとどまれるよう、あわよくば少しでも上に行けるようがんばって登り続けようと思います。

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