「正」なる侵入

馬齢であっても歳を重ねると(いわゆるスペシャリスト以外は)管理職か、みなし管理職か、権限はないけど責任ある立場かになって、社内だけでも上司/部下/同僚/他部署やらが絡んでの、いわゆる「判断業務」の比率があがっていきます。

これがくせもので「正しさ病」がひたひたと心をむしばむ予兆です。
わが国では年長者や上司の言葉は、正しかろうが正しくなかろうがだいたいやんわりと受け止めていただけるので、自分より若いかた相手に日々「正しい」判断をくりかえしてると、いつも正しいことをいったつもりになってしまい、それがいつしか快楽をともなう有能感に変換されて、仕事をしてる気分になってしまうのです。
ひどい場合その有能感から、現場にはりついてしっかりと情報を収集して「判断」の精度をあげようとしたりしてしまいます。

これはかなりの率で「正しさ病」に罹患しています。
だいたい仕事に限らず理由が「正しいから」というときはすでに自覚のないまま「正しさ病」に侵されていると思ったほうがよいです。

恐ろしい話です。



ところで、流派によって異なるかもしれませんが、ぼくが昔習っていた空手で「体幹に近いほうが打撃の威力がある」という考えかたを学びました。

抜手(指)<正拳(拳)<掌底(手首)<猿臂(肘)<体当たり(肩)

ということです。
これは関節の数(が少ないほど体幹の力を低減させずに伝えられる)なのだと理解しています。
実際の打撃では、当たる面積が少ないほうが強い、距離によって威力は変わるのでつかいわけるべき、もしくは関節の回転や遠心力によって末端のほうが強いといった考えかたもあるので、一概にこれがすべてと思われると困るのですが、ここでは単に「短い棒をつなぎ合わせた棒で突くよりも一本の棒で突くほうが折れにくく強い」ということです。
単に体幹の力を伝達する場面であれば「関節の数を少なくする」は理にかなっているのではないかと思います。


ここでまた唐突に「判断」の話に戻って。

「判断業務」はこの「関節」に似ているのではないかと思うのです。
「判断」は多かれ少なかれ「現時点で向かっている方針という棒を曲げる行為」だからです。
なのでもう少しくわしく申し上げると、プロジェクトを一本の棒としてとらえたとき、あいまにおこなわれる「判断」は威力を低減する「関節」のようなものではないかと。

きちんとプロジェクトに精通し、日々の報告/連絡/相談にリアクションしていくのは管理職のとても「正しい」姿ですから、なかなかこの「快楽」にあらがうことはできないものです。

ここで里見が経験から得た大変残念な知見として、

「判断は回数(と速度)が重要」

というものがあります。

「正しい判断を何度できたか」ではなく「ひとつのことに何度判断を下したか」です。

ただの回数です。

内容はあまりというかほとんど重要ではありません。


前述のとおり「関節」の数が少ないことが理想ですので、「正しい」判断かどうかにはあまり意味がなくて、少ないほどえらいという価値観です。
「正しい」ことでも積み重なっていたらそれは「まちがい」とみなします。
むしろ「正しさ」の「快楽」におぼれていると考えたほうがいいです。

周囲のみなさまは内容を問わずやさしく受け止めてくださる以上、そのような視点で自己の「判断業務」の質を見極める必要があります。ここでうっかり自分の思う「正しさ」で検証しようものなら、「快楽」のとりこになってしまいます。

自分が「正しい判断」を下すから部下はきちんと報告して自分の「正しい判断」を仰ぐ、

と上司が疑いもせず思い込んでいるほとんどの場合を部下の視点からみると、

わけのわからないことをわけのわからないタイミングで言い出す上司に事前に報告しておくことで、「事故」を未然に防いでいるだけ、

です。
これが日々くりかえされると彼我の評価差はどんどん乖離していきます。

恐ろしい話です。

(そして今回は触れませんが時間を費やす「熟考」もまた「快楽」か「怯懦」の罠です。なぜなら「判断業務」のもうひとつの尺度は「速度」だからです。判断の精度はつまるところ「速度」と「回数」、つまり「早さ」と「少なさ」に尽きると思います)

なので自分の判断能力の程度を知るには「正しさ」をまったく信頼せず、
「どれだけ少ない判断数(と時間)で目標を達成したか」
「どれだけ減らす余地があったか」
で計るのがよいのではないかと思うのです。

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