「わからない」との対峙

世の中はわからないことだらけです。
わからないものとどう向き合うのがよいかという話です。

以前にも書いたのですけど。

たとえばつまらない(もしくは興味のない)映画を誰かが絶賛してたとします。
で、ついつい

「え? どこがおもしろかったの?」

と訊いてしまったりしますが、

「アクションがっかっこよかった」とか「ラストが泣ける」と説明されても、

「じゃあアクションがかっこよければ/ラストが泣ければおもしろいって思うんだ」

としか理解できませんので意味がありませんし、それで絶賛の理由がわかったつもりになられても困りますよね。

わからないものはわからないまま「鵜呑み」にするのがよいです。

これをお仕事に置き換えると、何かをお願いしたら相手が「できません」とか「無理です」というときに、こちらとしてはやればできると思ってお願いしている内容ですからつい「どうして?」と尋ねてしまいますが、まあぶっちゃけこれもだいたいの場合意味はなくて、たとえば「徹夜すればできるからできる」と「徹夜しないとできないからできない」みたいなスタンスのちがいは判明すれど、説明を聞いてもなんでだか「わからない」です(もちろんほんとにできないことをお願いしてたら話は別ですよ)。

以前はぼくもそれはいったいなぜなのだろうとそんなシチュエーションに出くわすたびに理由をおうかがいしていたのですが、上記の映画と同じく本質的な理由にたどりつけたためしがございません。

これはぼくが心も体も単純だからなのだろうと思います。
単純というのはインプットされる情報が少ないということです。
たくさんの要素が入り混じっている事象(映画もお仕事もとても複雑なものです)から、受け取っている情報量のちがいが「わからない」を生んでいるということにしました。
そして里見はあらゆる局面において受け取っている情報がとても少ないのです。

そんなわけでいつのまにかその代わりに「鵜呑み」にすることを覚えました。

(よくわからないけど)そういうことですね。

ということです。
前も同じこと書いてますので以下略。


「わからない」なりに呑む

http://blog.barnumstudio.com/?eid=1303821


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