政治的正しさが後ずさりするとき

内心に自然と生じてしまう「差別」の衝動にあらがう数少ない手段が「鵜呑み」で、多くの「ハラスメント」には有効だと考えていたのですが、

「わからない」なりに呑む

それではまったく足りていないことに気づかされるような出来事があいかわらず起きます。

「差別に飲み込まれない」ための「鵜呑み」は「ハラスメント」同様有効だと思うのですけど、
内面的にまったく問題がなくて(それどころか指摘されても問題とすら認識できなくて)、社会的にも歴史的にも合意されている「差別」は、すでに「飲み込まれたあと」ですので個人的なレベルではなかなか対抗手段が見当たりません。
 

「知」には平和を

以前上記のように本音と建前について、おもに知識の面から書きましたが「建前」尊重派のぼくは

「ポリティカル・コレクトネスという言葉を使わずにポリティカル・コレクトネスを語り続けること」

で当座をしのぎつつ「あらがう術」を模索するしかなさそうで、たぶんたゆまず模索し続けることそのものが対症療法としての「あらがう術」になるのではないかと思います。
「解決方法」はなくて「解決方法を模索し続けること」が唯一の「解決方法」みたいな。
 


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