燃える傾斜

またパワハラ、セクハラが話題になっています。
パワハラとかセクハラというのは、「権力の位置エネルギー」の差こそがその源泉です。
加害者と被害者の間にはなんらかの権力の傾斜が存在していて上から下へと一方的に流れています。

人間は被害を大きく加害を小さく見積もるようにできていますので、どうしても被害者だらけになってしまうのですが、里見ももういい年齢で、それなりにキャリアも積んでしまった以上、加害者としての立場で考えてしまいます。

権力的に高い側は位置エネルギーをつい活用してしまうというかどうやっても活用せざるを得ない立場であるため、加害性は本人に自覚しにくくなっています。

自覚がないのでなんら後ろめたさを感じずに他人のハラスメントを糾弾できますし、その糾弾したのと同じ口でハラスメントを遂行できてしまうという恐ろしい構造です。
それは坂道を転がる石ころのようなものです。上側からはそんな小さな石ころどうってことないじゃんと思うのですが、傾斜があればあるほど下側の痛みは強まります。

この手のハラスメントは「アウトかセーフか」みたいな次元であればほんとはすべてアウトなんですけど「これぐらいはセーフ」「これはイジり」「愛情を込めてる」と大のおとながまるで小学生のような言い訳をしてしまうものです。

物理的な暴力に置き換えて「胸ぐらをつかんだだけだからセーフ」「愛情を込めて小突いた」「成長を促すためにかわいがった」としたらどれも許されないですから、そこにアウトとセーフの閾値などないことは自明なのですけど。

加害者にならないための対処法は、権力の傾斜を「恐れ続けること」しかありません。

鈍感なひとでも理解できる「恐怖」、たとえばネットでよくいわれる、何がセクハラかわからないかたに説明する「相手が上司のお嬢さんだったら」のような権力の枠組みを逆転させる思考装置を想定するのも手だと思います。

ほんとうにひとは他者の痛みには鈍感なのです。まして自分に快楽がともなう場合その傾向はより顕著になります。

今まで権力のある側は、鈍感なかた、もっと踏み込むと権力で他者を従わせることに快楽を感じるかたのほうが楽しく生きられる世の中でしたが、そんな時代はもう終わろうとしています。

というか終わらせないといけません。

でも残念なことに決して終わらないのですね。権力の傾斜がある限りは。

だから常に内部か外部に「恐怖」を抱き続けないといけないのです。

政治的正しさが後ずさりするとき

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