過去をふりかえって語るとどうしても記憶を上書きして「あのころからおれはわかってた」になりがちなので「そんなことないよリアルタイムではこんなもんだよ」を残しておこうと思います。
1-1
評価はいろいろあるでしょうし辞任理由が病気なのでこのタイミングは本意ではないのでしょうが、安倍首相は最後の1年(消費増税からコロナ対策)以外はおおむねうまくやってたと思うので、前回の任期で退陣してたら偉人になれてたんじゃないかしら。
引き際って大事だなあと思います。
1-2
組織ぐるみで公文書の改竄・捏造・隠蔽に公金ぶちこんでの官製株式相場と後始末しにくい爆弾をたくさんつくりましたけど、結局「長期政権」の存在そのものがもたらした安定がメリットだった気がします。あと何度でも書くけど安倍首相の最大の功績は北方領土問題を解決したことだと思うよ。
1-3
ぼくの安倍首相/政権に対する印象は、速水螺旋人さんのブログがとても近いです。 https://rasenjin.hatenablog.com/entry/2020/08/29/054658
1-4
まあこの長期政権下で完全に崩壊したのは「官僚」と「マスコミ」なのでこれがまだ致命傷じゃないとよいですね。
2-1
黒川検事長の定年延長をめぐる一連の騒ぎには悪をなす黒幕がいてなにかしらの意図に沿っておこなわれてるといった陰謀論に陥りがちですけど、安倍首相にも内閣にもその背後にも、たぶんそんなものはなにも存在してないです。
きっかけは「定年をちょっと延ばせばおたがいにとってうまくいく」状況で、おそらく内閣のだれかの「やさしさ」からいつものように希望をかなえるために押し通そうと思ったら、それが違法行為だと発覚したので、あわてて法解釈の問題にすり替えて法務省に押しつけたことです。
もちろん突然の思いつきですから存在しない議事録はいくら探しても見つからないので、法相は「口頭決裁」をくりかえして耐えるはめに陥るわけですが、これは法務省にとって屈辱的です。同じあやまちはなんとしても回避しなければなりません。
そこでたまたま同時に動いていた検察庁法改正に今回のケースをクリアする内容が急遽盛り込まれたわけです(ほんとはこの法案が黒川氏の定年より先に成立してるはずの予定だったのかもしれませんけど)。その意味で黒川氏の問題はきっかけではあるが直接黒川氏を正当化するためのものではありません。あくまで今回法務省に起きた「惨事」をくりかえさないように、また今回のような事態が起きても問題ないように「合法化」しただけだと思います。
だれも先を見通してないし、悪意も存在してなくてただその都度場当たりで動いた結果です。
見通してたら仮にも法務省と呼ばれる組織が「法解釈の変更」の名の下に違法行為に手を染めたうえに、何度も騒ぎになるような段取り組まないですよね。
ふつうに回避する手段はいくらでもあったわけで。 ただただまんべんなくものごとの遂行能力が低かったのだと思います。
2-2
安倍首相は説明能力が低いだけな気がします(奥さんは変ですけど)。ほとんどのことが説明できないので質問されるとどんなことでも「隙になっちゃう」のだと思います。たぶん安倍首相に「昨日の夕飯は?」みたいな質問をしても(ご本人がすぐ思い出せないと)答えはダラダラ長いが何を食べたかわからない、になると思います。これは「頭の中で自分の意見をまとめようと時間を稼ぎながらがんばってる結果」なのですけどあまりにしどろもどろなので、「質問に答えられないのは何かうしろめたいことがあるにちがいない」ように見えるのだと思います。
2-3
政治家が残念な能力なのは選挙の結果なので国民に似つかわしいかたたちが選ばれてるからしかたないとして(安倍首相の長期政権を強く支えてるのは野党だということも含めて)も、 その残念な政治のつじつま合わせに虚偽発言や公文書破棄を辞さず、「ファクスで集計」や「エクセル関数計算禁止」といった反知性的なオーダーにも愚直に応える官僚組織はおそらく世界的に見ても能力は優秀なのだと思うので、ポジティブにつかいこなすトップに恵まれるといいですねー。このままだと優秀な人材はばからしくて官僚にならないですからね。
2-4
安倍首相ってたぶん本質的には「自分のやりたいことは憲法改正以外そんなになくて、周囲のみんなの希望をかなえようとするいいひと」なんだと思うのですよね。だから桜を見たいひとがいればどんどん受け入れるし、北方領土もほしいといわれればロシアにあげちゃうし。今回のも安倍首相の希望ではなく周囲の誰かの希望なので、ちゃんとかなえようとすると思います。
3-1
首相の言動に合わせて書類が消えたり現れたりちがう意味になったりするの「ニューイヤー星調査行」みたいだなとちょっと思った。
おまけ(このブログで触れてたもの)
感情的な数字
http://blog.barnumstudio.com/?eid=1303922
痴性化戦争
]]>ホラー小説的なおもしろさですけど。小池さんご本人の半生ももちろんホラーなのですが、とくに政治家として転身をくりかえす後半部は取材をしなくても世に出ている情報でかなり描き出せる内容にもかかわらず、(一部雑誌メディアをのぞいて)報道されることなく今に至っているメディアの現実も含めて。
ぼくは先日ブログにも書きましたが「今の状況はほぼメディアが用意した」と思っています。
といってもメディアや政治を構成する個人の問題ではないです。
視聴率や部数や投票数や支持率といった複雑なものを〇✕で抽出する手法に原因があります。
そんな粗く感情的な数字を獲得するのに特化した結果、本来のメディアや政治の「物語」が衰退して、さらに数字獲得に特化しまた「物語」が薄まり……という悪い連鎖の果てが今をつくっています。
小池さんはあらゆる局面で「数字になる/ならない」に忠実に判断しているだけなので、おそらくご本人のなかで嘘や裏切りへの葛藤もないと思います。そういう意味でこの数字特化の典型なのだと思います。
描かれた内容の精査は今後なされていくでしょうが、大枠はゆるがないだろうと思います(小池さんもよっぽどの切り札がなければ否定は数字にならないので無視かうけながすかでしょうし)。この悪い連鎖のなかその中心的人物に向けてこれだけ直接的な著作をものした筆者の姿勢に敬服します。
あとは「報道の使命」だとか「社会の木鐸」といった「物語」を喪失したメディアがこの著書の記述を「数字になる」と思えば動き出すのですがどうなるか。
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Baoshu
Tor Books ¥ 2,116 (2020-06-02) |
最近とみに集中力が落ちてきてなかなかフィクションが読めなくなってきてるのですが、『魔眼の匣の殺人』だったか『カッコーの歌』だったかあたり以来、ようやく娯楽文芸にたどり着きましたよ(ちなみに今のところ今年のぼくのベストは『カッコーの歌』です)。
『拳銃使いの娘』に続く本年2冊目の「犯罪者の娘」ものです。『拳銃使いの娘』(これはすばらしい出来です)とだいぶ趣きは異なりますが、こちらもとてもおもしろかったです。
前者は脱獄した父と逃避行に出る娘ですが、本作は脱獄した父を狩る娘(もちろん父のハンティング技術は英才教育ですべて習得済み)です。
ほらこの設定だけでもうまちがいないでしょ。
あえて不満をあげると、現在と過去が交互に語られるのですが、過去の比重が高く感じたのでもうちょっと後半の父娘の駆け引きが長くてもよかったかも。
それにしても最近現在と過去のザッピングで進める形式をよく見かけるのですけど、どうなんですかね。なんらかのしかけがほどこされてる場合は別ですが、著者の作意というか情報コントロールの都合が透けてる感じがしてあまり好きではないのですけど。はやってますよね。
なので、本作だと現在パートのターニングポイントまでを第1部、過去パートを第2部、現在パート残りを第3部だと完全にぼくの好みになります。
とはいえこれだけヘビーな内容にもかかわらずあっという間に読んでしまいましたので、おすすめです。
なんとか仕事に活かせそうな(?)読書ができましたが、広い心で解釈してもやはり10冊に1冊ぐらいなのかも。とほほ。
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あとまた新人作家の初短篇集ですけど Amy Bonnaffons "The Wrong Heaven" はとてもよかったです。それこそ上記 Seth Fried の短篇集 "The Great Frustration" をちょっと思い起こすような。こっちのがひとを食ったようなユーモアが強くて好みかも。
全然SF読んでないな。たまには読まないとと思ったけど、ネットで呉座勇一と論争してるのを見かけたので井沢元彦の「信濃戦雲録」シリーズを再読することにしました。
あれはなんなのかと思っていたのですけど、ふと気づきました。
「怒りっぽい」は単独で存在しているのではなくて、すべての感情が豊か(悪くいえば制御不能)なのですね。で、それはおそらく人間の本来の姿なのだ思いました(酔っぱらいのかたがたも拝見してると怒ってたり笑ってたり泣いてたりするので理性のタガがゆるむとそんなものなのだと思います)。
「感情」は自分の気持ちをあらわにすることで他者に影響力を行使する原初的な「伝達」です。
そして「支配」でもあります。
乳児はだいたい泣いて気持ちを伝達していると同時に、自己の欲求をかなえさせるよう周囲を支配します。少し成長して幼児になると泣くか怒るか泣きながら怒ることで周囲を支配するようになります。
どこかでほとんどのひとは自分が世界の中心ではないことに気づいて世間と折り合いをつけて、あんまり泣いたり怒ったりしなくなるのですが、いわゆる「怒りっぽい」ひとはそのころと変わらず「自己の欲求をかなえさせるよう周囲を支配」するもっとも簡単なソリューションを採用し続けているのではないかと思います。
それ自体はいいも悪いもなくて、偉人と呼ばれるかたがたなんかむしろそっち系のひとのほうが多いのではないでしょうか。たとえばスティーブ・ジョブズさんやヨシユキ・トミノフスキーさんなんかも怒りっぽい伝説がたくさんありますし、単にそのひとの個性の範囲です。
とはいえ単なる個性であり、さらにいえば「怒り」だけでなく「喜び」も「悲しみ」も豊かなはずのになぜ感情の中で「怒り」だけがピックアップされるのか(「怒りっぽい」はあるけど「喜びっぽい」とか「悲しみっぽい」はないですよね)、そしてなにより怒りっぽいひとはなぜめんどくさいのかという問題があります。
根本的に感情は自己の欲求と強くつながっていて、「感情があらわになっている=本人が感情のコントロールを失っている」ということです。
「怒り」は自分の要求がかなわない不満を他者にぶつけて、他者の行動や変化を支配することでかなえさせようとする感情の発露です。
ここで不幸なのがふたつあります。
ひとつめは「知識は知性に影響を与えない」ことです。 里見が折にふれて申し上げている「バカに知識をあたえるとかしこくなるというのはまちがいで、単にめんどくさいバカになる」の法則と同じです。
「知識」は「情報」であり「情報の受容」は実に「取捨選択」ですから、どうしても偏りが生じます。すると知識が人格をおだやかにすることは原理的に不可能で、自己の都合のよい武装を強化する方向に選択されていきます。
つまりどういうことか今回の「怒り」でご説明しますと、知識が「怒り」をなだめることはなく、「怒り」に正当性をあたえるだけだということです。そのような知識だけを選別してますからあたりまえです。
もうひとつは「怒りっぽいひとは我慢強い」ことです。 はたからは怒られてるひとが被害者で怒ってるひとは加害者なのですけど、そこが実は正反対で、怒ってるひとは常に「被害者」なのです。幼児でも酔っぱらいでもクレーマーでもモンスターペアレントでもみんなそうです。
なぜなら怒りっぽいひとは100回の怒るべきシチュエーションを我慢強く耐え抜いてそのうちの30回ぐらいしか怒っていないからです。ふつうのひとはそのうちの10回ぐらいが怒るべき状況で、さらにそのうちの2〜3回で怒っています。
ここからもわかるように、ふつうのひとはたった7〜8回しか我慢していないのに対して怒りっぽいひとはなんと70回も我慢をしているのです。 なのでその我慢強さを凌駕する「不快」は決して許せないものになり「怒り」の正当性はゆるがないものになります。そこにいたるまでにたっぷりと耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでいるのですから、怒ってる側が「被害者」になります。
だから怒ってるひとを説得するコストは異常に高くなるし、多くの場合は徒労に終わるし、主張がくつがえらなかったことでより先方の怒りの正当性を強めることになります。
かくして怒りっぽいことは成功体験として人格に定着していったのではないかと思います。
そんなわけで以上ふたつの理由により、他者にとっての「感情のコントロールができない」ひとは、本人にとっては「論理的で我慢強い」ひとになります。
まあ「怒りっぽい」かたがいちばん理解できてないのは「怒りっぽいひとが怒らなかった」というのは、本人にとっては「広い心で我慢した偉大な自分」ですが、周囲のひとにとっては「地雷原で地雷が爆発しなかった」だけだということなんですけどね。
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『神は銃弾』にはじまり『音もなく少女は』で到達した、厳粛とも崇高ともいえる領域によって、ボストン・テランは特別な作家となりました。
そんな特別なテランが本作で描いたのは「犬」「旅」「アメリカ」そして「いつものボストン・テラン」です。
チャーリーとジョン・スタインベックが旅したころから、いやもっともっとはるかな昔、おそらく最初の人類がベーリング海峡をわたったそのはじまりのときから、ひとと犬はたがいを友としてアメリカを旅をしてきました。 そして旅はアメリカの現在だけでなく歴史そのものとも向き合わせてくれます。風土もそこで暮らすひとびともみな積み重ねられた歴史の先端ですからね。
思えば21世紀のアメリカは苦難と忍耐とその反動に翻弄されて、今もその渦中にあります。
今回ボストン・テランがギヴという犬の旅を通して描き出したのは、ひとと犬との特別な関係だけでなく、9.11とカトリーナとイラクを経たアメリカにたちこめる困難と、それにあらがう意志です。
デビュー作『神は銃弾』以来の、暴力と運命と不屈の意志を浮かび上がらせる静寂と狂熱の混在する文体は変わりません。が、本作では視座を高低自由に移行する複層の三人称となっています。これは旅の途上で出会うモザイクのようなアメリカの断片を描くために、そして犬という友を描くために選びとられたものです。結果として文章はときに卑近にときに飛躍し、より詩的で、アメリカへの信頼に満ちた作者自身の切実な言葉に感じられます。
苛酷な世界はひとに犬に理不尽な死をもたらすことはできても、死者が生者の道標となり、運命に翻弄される生者を善き意志へと導く歴史の積み重ねを止めることはできないのだと、あたかも深く傷ついたアメリカへの真摯なセラピーであるかのようにくりかえしくりかえしテランは語りかけます。
それだけ現実のアメリカは傷ついているともいえるのかもしれません。
犬はかつて神に逆らい、ひとに寄り添うことを選択しました。はたしてひとは犬の信頼に応え、犬がともに歩むにふさわしい魂の持ち主なのか、これはそんな問いを抱えたひとびとが不条理にあらがいつづける、崇高な魂と救済、奇蹟と希望の物語です。
いままでになくストレートなメッセージだと感じるかもしれませんが、もちろん同時に「いつものボストン・テラン」でもありますので、今までボストン・テランを読んだことのあるかたもないかたも安心してお読みください。
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デビュー以来のめざましい活躍の到達点として、そして、(デビューから『カブールの園』までを第一期とすると)新たな第二期の到来として、宮内悠介の本作は記憶されていくのではないかと思います。
あらすじは以下の通り。
中央アジアのアラルスタン。ソビエト時代の末期に建てられた沙漠の小国だ。この国では、初代大統領が側室を囲っていた後宮(ハレム)を将来有望な女性たちの高等教育の場に変え、様々な理由で居場所を無くした少女たちが、政治家や外交官を目指して日夜勉学に励んでいた。日本人少女ナツキは両親を紛争で失い、ここに身を寄せる者の一人。後宮の若い衆のリーダーであるアイシャ、姉と慕う面倒見の良いジャミラとともに気楽な日々を送っていたが、現大統領が暗殺され、事態は一変する。国の危機にもかかわらず中枢を担っていた男たちは逃亡し、残されたのは後宮の少女のみ。彼女たちはこの国を――自分たちの居場所を守るため、自ら臨時政府を立ち上げ、「国家をやってみる」べく奮闘するが……!?
内紛、外交、宗教対立、テロに陰謀、環境破壊と問題は山積み。
それでも、つらい今日を笑い飛ばして明日へ進む
彼女たちが最後に掴み取るものとは――?
地理、歴史、政治、民族、宗教が複雑に入り組むわれわれ日本人には特異な環境を舞台にした、現代の痛快冒険活劇となっています。
あらすじから酒見賢一の『後宮小説』やアンソニー・ホープ『ゼンダ城の虜』みたいなのかしらと読みはじめたところ(それもまちがってはいないのですけど)、なぜか脳裏に浮かんだのは稲見一良、それも『男は旗』でした。
もちろん内容の接点はないのですが、現代を舞台に描かれたまっすぐなファンタジイとして、ぼくの中でつながったようです。『男は旗』から時代を経て21世紀、現代社会はより複雑さを増し、男たちよりも女の子が元気になってますが、あいかわらず、何かに立ち向かうひとは旗のようであり、吹きつける風が強ければ強いほど、旗は美しくはためくのでした。
あと、この連想にはもうひとつ要因とおぼしきものがあって、それは今までの作品と較べて「リアリティの基準が変わっている」というか「少しフィクション/ファンタジイの側に踏み込んでいる」のです。
主観なのでなんともなのですが、たとえば福井晴敏作品ですと『終戦のローレライ』のときに感じました。
それはたぶん、いいかたを変えると「その作家が許容できる小説の嘘の範囲が意識的に広げられたとき」なのです。あくまでぼくが勝手に読み取るんですけどね。
そして稲見一良だと『男は旗』がそれにあたります。
そのような「変化」を、ぼくはこの『あとは野となれ大和撫子』にも感じました。
アラルスタンは架空の国ですが、地政学的に中央アジアがいかにも産み出しそうな小国です。ここでくりひろげられる冒険は多種多様な現実にしばられて少し苦しそうにも思えますが、実際は順序が逆で、少女たちが(政治的にも)冒険できるほどまでに現実が拡張されているのです。
この好ましい「変化」に加えて、全編を貫く「ユーモア」と「理想」も、過酷な現実と常に対峙していて気持ちがいいです。
あと今回は「連載」というスタイルも奏功しているのではないかと思われます。
というわけで、宮内悠介ver.2.0の開幕といってもいい本作が、広く読まれることを心より願います。
当時はアニメが放送されたり、パッケージが発売されたりするとすぐにどなたかがアップロードしてしまうような環境で、ニコニコ動画さんの対応は、
アップロードされた映像が公式か非公式か判断するすべがないのでそのまま放置する
というもので、まあ当時は全部非公式だったんですけどそんな感じで。
お客さま(?)の反応も、アニメのいわゆる違法アップロードは、観たいものを観ることができないひとたちの要望をかなえているのだからぼくら「制作者の怠慢だ」というものが大半でしたし、雑誌の取材をうけたらプロであるはずの大手出版社の編集さんから「宣伝になるからプラスなのでは」といわれたりさんざんでした(いちおうプロのかたですのできちんと「じゃああなたの雑誌をスキャンして毎週ネットで無料でばらまくので宣伝になったありがとうとぼくに感謝してくださいね」とお答えしました)。
それから10年近く経ったでしょうか。
その間にニコニコ動画さんからもアニメの違法アップロードはほとんどなくなり、今は「キュレーションサイト」が炎上しています。おそらく手がけた企業に悪意はない(ほんとのところはわからないですけどお金を稼ぐことに忠実だっただけなのではないかと推測します)にもかかわらずです。
いつのまにか世の中では他人の著作物の剽窃や盗作は悪いことだということになってきているようです。
「悪い」とまではいえなくてもなんとなく「エスカレーターで左に寄る」ようなゆるやかなタブー感がめばえてきてるように感じます。
もちろん今回のキュレーションサイトと以前のニコニコ動画さんとで大きく異なる点はあると思っていて。
ひとつは「動機」で、アニメのアップロードには金銭的なメリットがからんでいなかったこと(たいしてキュレーションサイトは金銭がすべて)。
もうひとつは利用するユーザーが自発的に盛り上がったこと(キュレーションサイトは金銭目的でユーザーを誘導していた)です。
これは生理的な好悪にとってはとても大きな違いです。
ただニコニコ動画さんも時間をかけて(ぼくら目線での)正常化を果たしましたので、キュレーションサイトもそのような流れになるのではないかなあと。
「この程度で罪滅ぼしになると思ってるのか」
「おれも悪いがあいつはもっと悪いのに逆恨みをしてる」
といった感情的なこじれが起きがちなのは、この「恩返しは5倍に、仇討ちは1/5にしないと均衡にならない」といういわば「5・1/5問題」のためであろうと思います。
昨今話題の「マンスプレイニング」なども(こちらは男女間に限定されてはいますが)同じ根っこに起因している気がします。
さらに申し上げると個人間だけではなく「被害者が多く加害者が少ない」事象が観察された場合も、この「5・1/5問題」がひそんでいる可能性が高いです。
はるか昔イエスはパリサイ人と取税人の祈りを比較して
「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」
と語りました。
もしかすると「神」といういわば「ひとを観察する視点」は、ひとの心の「自分を他者の5倍評価してしまう」という無意識の偏りを矯正する仕組みとしても機能しているのかもしれません。
イエスはその倍率についてまでは語りませんでしたが。
なんというか、犬養毅が「話せばわかる」といっても聞き入れてもらえなかった要因はこのようなところにあるのではないかという落ちです。
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なので、ぼくのブログに検索でたどりつくワードで一番多いのはアニメ関係ではなく、最近だとだいたい「三体」や「劉慈欣」つまりSF小説です。しかも中国の。
話題の割に言及してるところが少ないからでしょう。
以前は本について書くとてきめんにアクセスが少なくなるのでSFやミステリについてあまりふれていなかったのですが、まあアクセス数といってももともとの分母も小さいですし、たまにですがお会いするかたに本の感想を参考にしてますといわれてちょっといい気分になったりすることもあって、なんとなくここしばらくはおもしろかった本について書くようにしています。
自分をふりかえってみると「この本おもしろいよ」という話題で重要なのは、本そのものよりも「その発言をしたひとが誰か」でありました。つまり「このひとがおもしろいというなら読んでみたい」か「読み手として信頼できるか」で、まあどちらでもだいたい同じ意味です。
これがさらにあいまいな「SF/ミステリおもしろいよ」といわゆる「ジャンル」の話であればなおさらで(ジャンルは玉石混交ですからね)、発言者が大事です。
なので、「中国の傑作SFが英訳された」とブログに書いてあるのを読んで「よーし英語で読んでみよう」と思うひとはあまりいらっしゃらないと思うのですけど(だから今まではあまりブログで本の話題をしてなかったわけで)、それはそれとしてぼくが楽しくSFを読んでいること自体はほんのわずかであっても「本への興味」にプラスなのではと考えなおしまして、なるべく楽しそうにSFやミステリを中心に本について語っていこうかなあというのが最近の心境です。
もしこのブログを読んだことがきっかけで、ひとりでも「本を(SF/ミステリを)読んでみようかな」と感じたかたがいらっしゃれば幸いです。
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Cixin Liu
Head of Zeus ¥ 946 (2016-07-14) |
Array
Head of Zeus --- (2016-09-20) |
同じ映像なのですからあたりまえですよね。
よく「製作委員会」は「リスクヘッジのために組成される」といわれてまして、もちろんそのとおりなのですが、同時に「映像をあますことなく活用するため」でもあります。少なからぬお金や人材や時間を投入して映像をつくっているのですから全方位で見せたい/売りたいと考えます。ところが万能な会社はございませんので、どこもなにかしらの業務に特化しています。たとえばビデオグラム(DVDやBlu-ray)の発売が得意な会社、グッズをつくるのが得意な会社、海外販売が得意な会社、宣伝が得意な会社、そしてもちろんアニメを制作するのが得意な会社……いろいろあります。そんな各社の「得意」を持ち寄ってせっかくつくった映像をうまく運用していこうというのが「製作委員会」です。
これが「一社出資」だったとしても同じ映像なので活用できる範囲は理屈上同じです。そして「一社出資」はどちらかというと「なにかが超得意な会社」さんが一点強行突破するときに選択される手法なので(あと「お金の投資先を探しているとき」か「思い出もしくはモチベーションづくり」あたりもありそうですけど)、どれだけ「得意を強められるか」と、「活用できない範囲」を逆手にとってうまくいかせるかのふたつが大きなポイントになります。
ということで映像の活用に関して「一社出資」でも「製作委員会」でもおそらく同じプロデューサーに判断させたら同じ決断になるかと思いますので、お金の出所よりもプロデューサーの胆力というか覚悟というか、広い意味での「資質」のほうがはるかに大きな要素であります。
とここまで書いてきてふと気づいたのですが、そもそもぼくは委員会の出資構成を監督や脚本家にお伝えしません(し、すべて決まってるとも限りません)から、彼らもどこからお金が出ているかはメインどころしか知らないと思います。
知らなければ萎縮のしようもないですよね。
「差別に飲み込まれない」ための「鵜呑み」は「ハラスメント」同様有効だと思うのですけど、
内面的にまったく問題がなくて(それどころか指摘されても問題とすら認識できなくて)、社会的にも歴史的にも合意されている「差別」は、すでに「飲み込まれたあと」ですので個人的なレベルではなかなか対抗手段が見当たりません。
「知」には平和を
以前上記のように本音と建前について、おもに知識の面から書きましたが「建前」尊重派のぼくは
「ポリティカル・コレクトネスという言葉を使わずにポリティカル・コレクトネスを語り続けること」
で当座をしのぎつつ「あらがう術」を模索するしかなさそうで、たぶんたゆまず模索し続けることそのものが対症療法としての「あらがう術」になるのではないかと思います。
「解決方法」はなくて「解決方法を模索し続けること」が唯一の「解決方法」みたいな。
半村良にたとえると「長年読み続けてきた『妖星伝』の最終巻」みたいな第3部がなければ総ナメしててもおかしくない大傑作なんですけど。
もちろんそんな問題はありつつも充分傑作ですので、映画化権をスカイダンスが取得して、監督ロン・ハワード、脚本ウィリアム・ブロイルス・jrの『アポロ13』コンビで動いてるというニュースがあります。
Skydance Reunites ‘Apollo 13’ Team For Neal Stephenson Sci-Fi Novel ‘Seveneves’
スカイダンスは「ミッション・インポッシブル」シリーズや新生「スター・トレック」シリーズなんかを手がけるプロダクションで、最近日本でも『ソードアート・オンライン』のドラマ化権取得したことで話題になりました。
この手のニュースはなかなか実現しなかったりもするのですが、翻訳すら無理なんじゃないのと思ったあのいろいろ問題ありげな『ゲーム・ウォーズ』ですらスピルバーグ監督でやれるのですから、こちらもなんとか実現できることを願ってやみませんし、いまだにぼくはティム・バートン監督でキャサリン・ダン『異形の愛』が映画化される日も待ち望んでいます。
読後の感想は以下にあります(今読むとちょっとネタバレしすぎてる感もあるので、気になるかたは読まなくても大丈夫です。ただ感電するほどの喜びを書き連ねてあるだけですので)
今宵われら月を杯にして
映画がきっかけとなって本作のみならず未訳のニール・スティーヴンスン作品が翻訳される日を待ちわびています。
クライアント側にも現場側にもプロデューサーはいらっしゃいます。なのにさらに外部の個人をプロデューサーとして雇い対価を支払うのは不合理と申し上げてよいです。この不合理をなんやかんやと前例として積み重ねて各社に定着させていったことで、クライアントも現場もフリープロデューサーに仕事を発注することが当たり前になったので、今フリープロデューサーをしてるかたはパイオニアである里見に感謝して印税を払ってもよいのではないかと思いますし、弊社もいつでも受け付けていますのでお気軽にご一報ください。
あとひとつはスタジオの独立機運を高めたことです。
現状のアニメビジネスの問題点として挙げられることも多い、経営的に脆弱なアニメスタジオ林立の一助を担い、気軽に独立してしまう雰囲気づくりに貢献していまして、くわしくは下記に書いてあります。
アドバンスドr戦略
まあ正直申し上げてどちらもビジネス的には不合理というか旧弊と申し上げてよいでしょう。
そんな感じでバーナムスタジオは存在しているのであります。
今後もご愛顧のほどよろしくお願いします。
というか傑作じゃないですか。これどうしてわからなかったんだろうというぐらい。
これほど意見が変わる映画もめずらしいです。2回見といてよかったです。
序盤は「現実」に「虚構」が生物的な外見をまとい第一弾の侵蝕を開始し(この冒頭の登場シーンで自分がすでにどうしようもなく「怪獣映画」の「お約束」にしばられて「先入観」を参照しながら見ていることに気づかされます)、「現実」は現実的な手段の範囲で対応しようとしてみずから打つ手を封じられ、なすすべもなく蹂躙され見送ることになります。その手段を失っていくある種の段取りが「虚構」側へのいざないにもなっています。そして映画の中盤で虚構の王ゴジラが「放射熱線」を放ったところをターニングポイントとして「現実」は「虚構」にとりこまれます。この長い助走(ゴジラは画面に映っていたとしてもここまでは「現実」側からのアプローチなので「助走」です)は怪獣の存在を自明とする「怪獣映画」のものではなく、あくまで「映画」に(荒唐無稽な)怪獣を登場させるのだという、いわば「志」によるものです
これはかつて「怪獣映画」を切り拓いた初代『ゴジラ』が試みたものです。。
この助走の果ての圧倒的な「放射熱線」による「虚構」の幕開け(人間サイドにとっては同時に「現実」側の登場人物たちの一斉退場であり、日本の命運を託せる「虚構」の若手官僚の台頭ともなっています)は、序盤の過程と誘導に「乗れない」と初見のぼくのようにそこからこぼれおちたもののほうに目線がいってしまいます(とはいえそれでも「虚構」は「現実」の「傘の下」ではありますが)。
それだけストイックなつくりをしているのだと思います。初見で前半戦がクリシェの羅列に感じられてしまったほどに。
これはもう一度震災後の世界で「怪獣映画」がリアリティを獲得するための意図的な「スクラップ&ビルド」です。
ともあれこの「放射熱線」以降が「怪獣VS人類」という「虚構」つまり(現代では成立しがたい)本来の「怪獣映画」パートとなり、人類の叡智を結集してあるものをすべて投入して死力を尽くして物量作戦が展開されます。『新世紀エヴァンゲリオン』の「ヤシマ作戦」を想起させるといわれますが、ゴジラを愛して「ゴジラが、怪獣が攻めてきたら人類はどう立ち向かうか」を考え続けていた監督が、ついにほんものの「ゴジラ」を手掛けたということなので、順番は逆で『エヴァ』が「庵野監督の思い描き続けたゴジラ」に似ている、なのだと思います。
そして映画の外側の遊びの要素ではありますが、「虚構」こそが「映画」であり、虚構の主は映画監督である岡本喜八であり、そのバトンは「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」という言葉で未来へと託されるのも日本的でした。屹立するゴジラと日本映画とともにある未来ですが。
個人的に『シン・ゴジラ』は『風立ちぬ』に対する庵野秀明監督なりのアンサーのように感じていて、ほんとは博士役に宮崎駿監督の写真をつかおうとしたけど断られて岡本喜八監督になった、とかならとても理解しやすかった気がします(誤解かもしれません)。
すべてが過剰に盛り込まれた本作で、初代『ゴジラ』から唯一後退したのがマスコミですかねえ。「電波塔のアナウンサー」はリアリティを失ったのかもしれません。
ともあれ『シン・ゴジラ』は正しく「3.11後のゴジラ」として新生したと申し上げてよいと思います。
すばらしい映画をありがとうございます。
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閑話休題的な話として、たまに「娯楽」との間に収斂進化も発生します。便器で有名な美を放棄するほうの芸術家マルセル・デュシャンなんかも名を連ねていたらしいウリポ(数学的な視点から新しい文学の可能性を探求してた集団)の代表的な作家レーモン・クノーの「あなたまかせのお話」は、結果的にゲームブックの先駆となっています(たぶんね)。
Seth Grahame-Smith “Unholy Night”
ティム・バートン作品の脚本を手がけていて『高慢と偏見とゾンビ』や『ヴァンパイアハンター・リンカーン』(こちらは映画にもなりましたね)と翻訳実績もあるセス・グレアム=スミスなので大丈夫だろうと思ってたのですが、これはまだ翻訳されていません。東方の三博士が実は逃亡中の犯罪者で身を隠した馬小屋でたまたまイエスの出生に出くわしてしまってトラブルに巻き込まれてしまうというおもしろ設定といい、前二作よりもとっつきやすいと思うのですけどね。