未来の収奪

「オリジナリティは常に未来に奪われる」問題というのがありまして、どのようなものかといいますと「伝説的な名作/傑作」と呼ばれる古典を見たり/読んだりしたときに感じる「あれ? こんなもんなの?」感のことです。

それは『七人の侍』でも『宇宙戦艦ヤマト』でも『Yの悲劇』でも『虎よ! 虎よ!』でもなんでもいいです。

それらは同時代のひとに衝撃をあたえ、そのジャンルの金字塔として不朽の名声を勝ち得たものであると同時に、その影響力ゆえに後続のひとたちにリスペクトされ分析され「模倣」されていきます。

結果、これらを特別なものたらしめた肝心の「オリジナリティ」はありふれたものとなり、当時の鮮烈な衝撃は失われます。

人類ではじめて揚げ物を食べたひとはこの世界にこんなうまいものがあるのかと衝撃を受けたのではないかなあと思うわけですもぐ。

宣伝2

こちらが 今月発売です。


宣伝

森本由布希,ふでやすかずゆき,大川茂伸,ミス・モノクローム製作委員会,高橋ナツコ
キングレコード
¥ 3,885
(2014-03-26)

 よろしくお願いします。

いつもココロにものさしを

 
数値化できないものを評価するとき、ひとはみずからココロにつくった「ものさし」で判断をくだします。
「美しさ」や「おいしさ」「楽しさ」や「哀しさ」「気持ちよさ」や「かわいさ」「おしゃれさ」などなど「ものさし」はいろいろな局面で顔を出し、ときには各人のカスタマイズのちがいで評価が大きく異なっていたりします。
ぼくがなりわいとしているアニメの「おもしろさ」なんかも定量化できませんから「ココロものさし」の出番です。

(かつては作画枚数や製作費や構想期間や興行収入、最近では Blu-ray の出荷枚数や Twitter でのつぶやきの数なんかでおもしろさを計測しようとする急進派もいて、数字の説得力こそありますが、これは「世界一うまいラーメンはカップヌードルか」問題と呼ばれていまして実は「おもしろさ」そのものを指し示しているものではありません)

ではその「ものさし」はどのようにつくられていくのかといいますと、俗にふたつの方法が知られています。

「暴飲暴食」と「本物を知る」です。

前者はひたすら大量摂取し脳内おもしろさランキングの目盛りを細かくしていくことでつくりあげる階段積み上げ式ストロングスタイルです。「SFを語るならまず千冊読んでから」という言説などがそれにあたります。

後者はまず「本物/頂点(と呼ばれるもの)」に触れることで「ものさし」の長さを先に決めておいて、あとはその範囲の中で優劣をつけていくやりかたです。「寿司を語るならさわ田かすきやばし次郎にまず行って勉強してから」がそれであります。

実際には二者択一でどちらかを選ぶものではないので、前者と後者による質と量のハイブリッドでそのひと固有の「ものさし」は構築されていきます。

「評価の信頼できる他者」の「ものさし」は「自分と似通っているか、そのひとの癖/偏りを知っているか/自分がそうなりたいか」に置き換えられます。


そして驚くべき発想の転換が起こります。

この数値化できないはずの「ものさし」をたくさん集めると、擬似的に数値化できてしまうのです。

それがこの時期に出版される「この○○がすごい」のような年間ランキング本です。
これは各者におもしろかった当該ジャンル作品を数冊列挙してもらい、それを大量にそろえ集計することで、なんと最大公約数的に数値化をしてランキングを作成するものです。

里見の個人的な見解としてはランキング自体にそれほど意味はなく、個別の選者の選出タイトルと選出意図つまり「ものさし」がたくさんあることがこの手のムックやガイド本の要諦かと思われます。

ただ、次第に選者のみなさまのコメント量が削減されてるところを見ると、これは世の流れとは逆行する意見です。
ものごとは数値化してくほうがわかりやすいですからね。

で、ここに言明しておくと、ぼくは数値化できないもののわかりやすさを求めない派なので、各人の「ものさし」のありように興味はありますが、それの擬似数値化にはあまり興味はないです。

というわけで里見の今年のベスト3の発表です(なんか3つしかリンク貼れないので国内・海外いっしょくたに)。

1.『シスターズ・ブラザーズ』
2.『七帝柔道記』
3.『シガレット』

 
パトリック・デウィット
東京創元社
¥ 1,995
(2013-05-11)


のら犬兄弟のギョーカイ時事放談イベント告知

最近里見がパーソナリティのまねごとのようなことをしているネットラジオ「のら犬兄弟のギョーカイ時事放談」

http://www.norainu-jiji.com/

のイベントがおこなわれます。
今週末の11/30からイープラスでチケットが発売開始になるそうです。
ラジオを聴いて興味を持たれたかたはぜひ足をお運びください。


のら犬兄弟のギョーカイ時事放談! 
ロフトプラスワン 復活・再開SP

●12月14日(土) 
 18時00分 開場
 19時00分 開演
 22時30分 終演(予定)

出演: 偽まる(川瀬浩平)
    アニメ仮面(里見哲朗)

チケット発売日 11月30日(土)12時00分〜

        イープラスにて

よろしくお願い申し上げます。

静止した時間の中で

この前、お取引先さまとお話をしていたらこのブログをご覧になったことがあるそうで、当ブログの文章はほぼすべて仕事の移動時間中に iPhone でちまちま打っていると申し上げたところ驚かれました。
よくもまあせまい画面でこんな長文をという意味だと思われます。

ぼくとしては iPhone で合間を縫ってぶつ切りに書いてる文章なので誤字脱字やら内容の横スライドや飛躍やねじれはご容赦くださいということが伝わればよいのですけど。

で、ふとここ数週ほどブログを更新してきてなんか前と違うなあと思ってたのですが、やっと違和感の原因がわかりました。
それはもともと日記として書いてたはずなのに、

いつでもいいことしか書いてない

ということです。全然タイムリーな話をしてません。
ほんとはもっと「今日はこんなことをしました」とか「本日のニュースについてこう考えました」とか日記や備忘録として日々のよしなしごとをつれづれなるままに書き連ねたかったはずなのに!

よくない!

明日以降は反省を踏まえてもっと刹那的な内容にしていきたいと思います。

上を下への自利利他

物品や労働や情報や庇護や権利やリスク……の対価としてお金が支払われます。
つまりお金の流れと正反対の向きに労働等が流れているともいえます。
電気の流れと電子の流れみたいなものでしょうか。

会社員であってもそれは同じで日々のお買い物では物品の対価としてお金を支払いますし、労働の対価としてお給料をもらいます。

ここで会社が特殊なのはピラミッド型の組織になっていて、上司の上に上司がいてだんだん人数が少なくお給料が増えていくところです。これは何に起因しているのかというと本来は「権限/責任」であったと思います。
つまり権限がより大きく、それにともなって責任が重くなることがお給料増大の源泉であります。
この権限/責任が不即不離であれば問題は起きないのですが、往々にして「権限は上に、責任は下に行きたがる」という性質があるので「権限はないのに責任は重い/権限は強いが責任はない」といったアンバランスなセクションや個人が発生してしまってなんとお値段そのままみたいなことも起きます。

そりゃ時給850円ですべての責任を引き受けてくれるアルバイトがいれば経営者は重宝しますよね。
それでよいのかというのは別として「徳が高いひとが社長になる」とか「経営能力の高いひとが社長になる」とか思われてるふしがあるけど、実はあんまり関係ないので実際双方合意の上で起きてしまいます。

「経営目線で考えろ」とかいわれて責任を負わされてるけど経営者なみのお給料をもらっているわけでもないし権限もないというのは、けっこう見かける風景です。

でも本来的には経営目線で考えるのは経営目線で考えることで役員報酬をいただいてるかただけで充分です。

とはいえ人間同士ですからあまり線を引いてドライにならずなあなあで運用できると会社組織はとても機能的であります。常に心に留めておくべきは

「権限は上に、責任は下に行きたがる」

であります。

ここはグリーンランド

ハワイ旅行中、履きなれないビーチサンダルで靴ずれになってしまったので、こんな昔ながらのビーサンはよろしくない思い立ち、靴屋さんでちゃんとしたサンダルを2足買いました。

ひとつは abeo というブランドのビーチサンダルです。
ハワイではもっぱらこれの青を履いてました。
日本での取り扱いはまだなさそうです。
かなり履き心地がいいです。

もう1足は dansko です。こちらは日本でも販売されているので日本のサイトもあります。
買ったのはこれです(ぼくの持っているのは黒です)。
値段も日本だとなかなか勇気のいる価格ですが、ハワイでは1万円を切っていました。セール品だと6割引きぐらいですが平均するとだいたい日本の半額ぐらいでしょうか。
こちらもすさまじく履き心地がよいです。

どちらも土ふまずの部分がフィットする3Dソールなためだと思われます。
よくできてます。

さてここから脱線します。
たぶんぼくぐらいの年齢だとみなさま、ながらく続いた冷戦の末に資本主義が社会主義に勝利したり、ジャパニーズビジネスマンが世界を駆け巡りライジングサンとして称揚されてたり23区の土地だけでアメリカ全土の地価を超えたりといった時代の経験を持っていると思います(←印象が残ってるという話なので何も調べずうろ覚えのまま記しておきます)。
そんな技術立国ニッポンサイコー的な時代の呪縛というのがぼくのどこかにあって、今でも技術の最先端は日本製品にあるようになんとなく漠然とそれこそ無意識のうちに思っていたのですが、気づくとバッグもPCも携帯電話も海外製品になっていて、このたびサンダルも海外に移行してしまいました。
明日をつくる技術とかエレクトロニクスとか目のつけどころとかどこに行ってしまったのでしょうか。
ふりかえるとこどもの頃の自動車はランボルギーニやポルシェやジープやベンツがエラかったわけで、それがいつのまにか日本車だよねになってたような技術立国で貿易大国でエコノミックアニマルでGNP世界第二位で日の丸半導体でみたいな価値観を21世紀まで引きずってたのかもしれません。

よく考えると社会全体の傾向として職人的な技巧を尊ぶでもなくコミュニケーション能力第一でリスクヘッジ重視、というルールで人材を育成し続けているのですから「日本が最先端」というのは幻想か極少数の超人に支えられているかしかないわけで、どちらかというと前者の可能性のほうが高いわけです。

バブル崩壊後の世代であればそのような幻想ははじめからないと思いますが、ウォークマンで世界中のライフスタイルが変わるさまやら『ファイナルファイト』のボーナスステージよろしくデトロイトの労働者たちが日本車を壊してるさまやら世界を席巻するジャパンの大活躍を見てきてる(ように記憶してる)のでどうしても引きづられてしまいます。
ただそのような価値観は今となっては過大評価なのですね。


それはもうメルカトル図法のグリーンランドなみです。

人間の視野にはこのような歪みというのがいろいろあって、対象との距離が近かったり興味の中心部に位置していればある程度正確な地図を描けるのですが、視野の周辺部や対象が漠然としたものについてはうっかり当たり前のように受け入れそうなことでもかなり怪しいと思っていたほうがよさそうです。

つまりですね、本日申し上げたいのはそれぐらいこれらのサンダルの履き心地がとてもよいという話です。


反ペコの思想

「反ペコ」という言葉があります。

何かでこの言葉を見かけて以来なんとなく心にひっかかってて、それがなんだったか今ググったけどうまく見つけられませんでした。
とはいえその意味するところは明快で、反戦主義は戦争反対主義で反米主義は米国反対主義ですので反ペコ主義は腹ペコ反対主義ですかね。

端的に申し上げますとやなせたかし先生の『アンパンマン』は反ペコです。

つまり反ペコとは、腹ペコを絶対の悪とし、お腹が空いたひとに食べ物を差し出すことを至上の正義とする政治スタンス、というか哲学です。

同じ漫画家ですとたぶん水木しげる先生なんかも広くとらえると反ペコの系譜に連なると思われます。

これが21世紀ともなりますとぼくらがこどものころに夢みたシンプルな世界連邦政府など影も形もなく、むしろ世の中が複雑になり、内政も外政もひとことで語れなくなっております。
それでも国民の信託する為政者のまつりごとの根幹は他ならぬ国民の情動の総和でありますので、「なんとなく」で民主党が政権を担当してみたり数年で解党の危機に瀕してたり、維新の会が躍進したと思ったら凋落してたりと移ろいやすいことこの上ありません。

この移ろいやすさも含めてその瞬間ごとの民意が切り出されて反映されていくのが選挙による間接民主制のよさでもありますので、諸外国から見ると危なっかしい限りでしょうが、それでも反ペコ主義は貫かれています。

腹ペコのひとのおこないは満腹のひととは較べものにならない切実さをともなって表出しますので、凶事の次元がまったく違います。
「やっぱやめようか」と言うためにはお腹が満たされていることが必要条件だからで、その点で(無論完全ではありませんが)日本は比較的うまくやれているのだと思います。
むしろ昨今の移ろいの激しさの原因は反ペコがうまくいっているので、本来であれば重要なはずの決断すらいつでも「やっぱやめようか」といえるからです。

これからの日本はゆるやかに没落していきますが、その滅亡の日の前日まで誰も等しく飢えぬこと、これがいつの時代も変わらぬ反ペコ主義者の理想の国家であり政治であります。

というようなことを思いついてぼんやり考えてました。

空白の技法

歯に衣着せぬものいいで複雑なはずのものごとの本質を見抜き世の中のいろいろな問題を簡明に語る技法があります。でもそのほとんどはなんらかの叡智から導き出されたものではなく単なる「技法」に過ぎません。

その技法がどのようなものかと申しますと、大きくふたつありましてどちらも語り手の「視野」にかかわるのですが、ポイントは角度と解像度です。

・視野を変わった角度にする
・視野の解像度を下げる

これだけです(あと題材的に勝てそうなときだけ語ることも大事です)。

前者に関しましては、常に誰も予想しない角度からものごとを見るというのはむずかしいので、実際には「このような場所から世界を眺めてますよ」的立場表明をしておくのがよいと思います。なんでもかんでも多少強引にその視座に引き寄せて語ればどうにかなります。
ただし「全否定」(先日申し上げた「通ぶりたいときにはとりあえず終わったといっておけ」の法則ですね)は本人の全能感は得られますが周囲から内心ばかにされがちなのでやめておいたほうが無難です。
あと同様に楽チンな「なんでも被害者」も危険です。実際無意識にされているかたもいらっしゃいますが、その都度被害の当事者になることはできませんから、「このように傷つくひとがいることを想像できないなんてヒドい」とか「不謹慎だ」と自分と関係ない「被害者」を脳内設定して強引に引き寄せて語らないといけないですし、他人がほんとに傷つくかどうかとは実は無関係なので薄っぺらになりがちです。

後者は多少説明が必要かと思います。
ものごとの解像度を下げていくと複雑な世の中が「どんどん簡単になっていく/ちがうことも同じものに見えるようになっていく」ことを利用します。いわば心の剛体術です。
最近だと政治家のかたが政権公約などでよく使用されています。
これを身につけると認識できる要素が減って差異も目につかなくなるので、たとえ話がうまくなったり、相手の話を聞かなくてもだいたい知ってたりするメリットもあります。
もちろん全能感もばっちりです。


このふたつをうまく活用すると複雑な事象も何も考えずに語れる気がします。

実はこれはぼんやり年を取ってるだけでも身につきまして、その場合は「耄碌」ともいいます。

<< | 2/86PAGES | >>
バーナムスタジオ

categories

archives

links

profile

others

search this site.